【あっ】新ジャンル「やさしい」【消しゴム落としたよー】

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 赤ん坊の頃に捨てられ、わたしは物心つく前から孤児院で育つことになった。
 小学校に上がる年齢の頃にいまの養親に引き取られ、この施設を去ることになったが、引き取られて数年が経ったいまでも、わたしは自主的にちょくちょく施設を手伝いに来ている。
 ここの大人たちはお世辞抜きにみんな人格に優れたひとばかりなので、赤ん坊のわたしがここに捨てられたのはある意味幸運だったのかもしれない。ひとえに園長先生の人望のおかげだろうか。
 わたしが園の手伝いをしようと思ったのも、ボランティア精神というより、先生達と離れがたい気持ちがあったからだ。
 別に養親に不満があるわけではなく、いまの家から施設までたまたま歩いて通える距離だったのでどうせなら、というだけなのだけれど。

 そんな生活の中の、雨の降った秋のある日、いつものように園への道を行く途中のことだった。野垂れ死ぬ寸前の仔猫をみつけたのは。
 道ばたに死体のように倒れている。わたしの足音に反応して、弱々しく、のろのろとした動作で、立ち止まったわたしを見た。
 目が合ってしまえば――いや、見つけてしまったのなら無視していくなんて選択肢はない。無視してしまえばそれこそとんでもない後ろめたさがわたしを襲うだろう。こんなときばかりは自分を善良に教育してくれた先生達を恨みたくなる。
 小学生のわたしのてのひらにすら収まるだろうほどの小さな猫だった。産まれて3ヶ月も経っていないだろう。野良ならば親猫の姿やキョウダイらしい姿が近くにあるはずだ。なのにどこにもみあたらない。

 ―――飼い主に、たった一匹だけで見捨てられたのだ。
4751/8:2006/08/27(日) 11:40:37.68 ID:oRVS0O1z0
 雨が地面を打つ音が響く中、近づいてかがみ込んだ。仔猫は冷たい雨に身体を濡らし、泥に身を汚されながらひどく震えている。
 雨で目立たなかったが、こうして近づくと糞尿の匂いが鼻をつく。用を足したところで身体を動かす気力が尽きたのか、それとも倒れたまま垂れ流すだけしかできないのか。
 仔猫をてのひらにとりあげた。子供たちのおもらしの始末やらオムツ替えやらで、糞尿の臭さには慣れている。
 体温は冷たい。いのちの証である心臓の鼓動は、その弱々しい印象に反して、早くて正確だった。
 そのことに一瞬驚いて目を見開いた。だけどいのちのもうひとつの証である呼吸はもう細く、なにより不規則なことに気づいたらそんなことはもう忘れた。この仔はもうすぐ死ぬのだと、子供のわたしにすら否応なしに直感させた。
 この仔はもう助からない。よだれを垂らして糞尿も垂れ流すその様子はただの衰弱だけというにはあまりにも悲惨すぎた。おそらくこの仔一匹だけが、何らかの病気を持って生まれてしまったのだろう。だから飼い主はこの仔だけを捨てたのだ。
 だけどいま、わたしのてのひらの上で呼吸をしてる。生きようとしてる。
 外にひとりぼっちで放り出された赤ん坊が、今の今まで生きて来れただけで途方もない奇跡だと思った。涙がこみあげてくる。
 もしも、もしもわたしが、施設の門に捨てられたまま誰にもみつからないままだったら、と錯覚がよぎるもうどうしようもなかった。
 ひとりぼっちで、何も知らないまま野垂れ死に、だなんて。
 誰かに甘えることも淋しがることさえも知らないまま、だなんて―――!

 仔猫を抱いて走った。水たまりをはねとばして足が汚れた。雨を避ける傘は仔猫のためにかざした。わたしの身体は雨でずぶ濡れになった。
 冷たくなっていくこの仔に、せめて最後に、なにかぬくもりを与えてあげたいと思う一心だった。
 
 わたしがかつて捨てられた門をまたぎ、園庭を駆け抜けた。傘を放り捨て、仔猫を両手で包み、玄関の扉を肩で体当たりする勢いで押しあける。
「うわっ!?」
 扉に衝突する音の大きさに驚く大人の女のひとの声。ちょうど玄関に居てくれてよかった、呼びに行く手間が省けて助かる。
 倒れ込むように、わたしは玄関をくぐった。
「ど、どうしたの!?」
 ずぶ濡れで、尋常でないわたしの様子をみて彼女は目を見開く。
 そこにいたのは、わたしと同じように外から自主的に手伝いに来るひとりである年上の女のひと。優だった。
かつて門の前に捨てられた赤ん坊のわたしを最初にみつけてくれたのが、幼かった頃の彼女だったという。
「ゆう、助け―――」
 わたしがここで一番に慕うやさしいお姉さん。真っ先に会えたのが彼女でツイてると思った。助けを請おうと顔をあげたそのとき。
「て……」

 わたしの動作にあわせて、
 腕に抱いていた仔猫の首が、空を掃くようにぐるんと揺れた。
4763/8:2006/08/27(日) 11:41:08.88 ID:oRVS0O1z0
「―――」

 せっかく頼る人をみつけたのに、それはもう遅かった。走るのに必死で、雨音と冷たい風のせいで、仔猫の状態がわからなくなっていた。
 ―――この仔は、冷たい雨に打たれながら、死んだのだ。
 
 首が据わらない猫の身体をどう扱っていいのかわからなくて、わたしは仔猫を抱いたまま硬直する。
 呼吸も鼓動も体温も、いのちの証は、そこにはもう無い。
 
「……」 

 足音。わたしに歩み寄ってくる優を、ぼうっと見あげた。優はなにも言わずに、二回、首を振った。
 ずぶ濡れのわたしと、汚い猫の小さな死体。なにがあったかを察してくれたのだろう。
 かがみ込んで、仔猫と一緒にわたしを抱き寄せる。
「いいよ、ゆう。わたしたち、いま、けっこうよごれてるから」
 身体が冷たいせいか、頭の中の冷静な部分で、自分たちはいま、雨やら泥やらでかなりひどい状態だろうなとぼんやり思った。
 こんな状態でも、他人を気遣う余裕を持てるように、優や先生たちがわたしを躾てくれたのだと思うと、場違いな笑みすら浮かぶ。
 うん、わたしは、れいせいだ。ちっとも取り乱してなんかいない、こんなことでどうにかなるほどやわじゃない。
「ほんとに、なんともないってば、だいじょうぶだよ」 
 わたしから離れようとしない優に、もういちど声をかける。
 優は返事をしようとしなかった。
「ゆうってば」
 この仔のお墓とか、作ってあげないとだし、離れてよ。
 ずぶ濡れの手で優に触るのもなんだったので、自分から身体をよじろうとした。
 それをとめるように、ぽん、ぽん、と。優がわたしの背中をやさしく叩く。
4774/8:2006/08/27(日) 11:41:42.37 ID:oRVS0O1z0
 あたたかい手。お姉さんの、やわらかなぬくもり。
 
 ―――それは、わたしが、この仔に与えてあげたかったものだ。
 
 ぽろぽろ、涙がこぼれた。猫の死体に涙が落ちる。
「あ、あれ?」
 泣くつもりなんて、これっぽっちもないのに。
 わたしのとまどいをよそに、優は片方の手であやすようにわたしの背を叩き、もう片方の手でわたしの髪をなぜる。
「いいって、ゆう、濡れ、ちゃう」
「いいから」
「よく、ないよ」
「いいの」
 涙は嗚咽を誘発し、嗚咽がまた涙を誘発する。


「いいから、離れてよぅ……!」
「だめー、離さない」
「わたし、ほんきで言ってるんだよ!?」
「わたしだって本気だよー」
「――――ッ!」

 涙の衝動は、いくら我慢しても強まるばかり。
 いつしかわたしは優の胸に顔を埋めて、声をあげて泣いていた。
4785/8:2006/08/27(日) 11:42:24.11 ID:oRVS0O1z0
 雨上がりの空の下。仔猫は園庭の隅っこにわたしひとりの手で埋めた。
「結局、何も出来なかったな」
 門に背中をあずけながら呟いた。
「なんだかなあ」
 見知らぬにんげんの手の中なんかより、猫にとってはあのまま土の上で死んだ方がまだマシだったのかもしれない、なんてことも考えられるのかと思うとやりきれない。
 
「だいじょうぶ?」
 優が尋ねながら、わたしの隣に並ぶ。
「うん、だいじょうぶ」
「そう」
 それ以上はたずねてこない。その態度がありがたいと思った。
 確かにいま、かなしい思いをしているけれど、でもそれを自力で乗り越えられないほどわたしはひ弱ではないのだとわかってくれている。
 ただ、十分な時間さえあればいい。
 
 沈黙がややあって、ふいに優は口を開いた。
「『虹の橋』の話、してあげたことあったよねー?」
「聞いたけど……」
 『虹の橋』―――簡単に言えば、死別した飼い主とペットが天国で再会して、二度と別れることのないしあわせを抱いて虹の橋を渡っていく、という、作者不詳の寓話だ。
「あの猫はわたしのペットじゃないよ」
「うん、でもね、『虹の橋』は、もうひとつあるの」
「もうひとつ? あ、それは知らない」
「もうひとつの『虹の橋』はね―――」
4796/8:2006/08/27(日) 11:42:55.39 ID:oRVS0O1z0
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天国とこの世を結ぶ橋がある。
その橋は、様々な色合いから『虹の橋』と呼ばれている。
『虹の橋』の一歩手前には草地や丘、青々とした緑あふれる谷がある。
大切なペットは、死ぬとその場所へ行く。
そこにはいつも食べ物と水があり、気候はいつも暖かい春のようだ。
歳をとって、からだが弱っていたものは、ここへ来て若さを取り戻し、
からだが不自由になっていたものは、元どおりの姿になる。
そして一日中いっしょになって遊んだりしている。


橋のそばには、様子が異なるものもいる。
疲れ果て、飢え、苦しみ、誰にも愛されなかった動物たちだ。
他の動物たちが一匹また一匹と、
それぞれの特別なだれかといっしょに橋を渡っていくのを
ものほしそうに眺めている。
彼らには特別なだれかなどいない。
生きている間、そんな人間はだれひとり現れなかった。


しかし、ある日、動物たちが走ったり遊んだりしていると、
橋への道のかたわらにだれかが立っているのに気づく。
彼はそこに繰り広げられている友の再会をものほしそうに眺めている。
生ある間、彼はペットと暮らしたことがなかった。
彼は疲れ果て、飢え、苦しみ、だれにも愛されなかったのだ。
4807/8:2006/08/27(日) 11:43:26.10 ID:oRVS0O1z0
そんな彼がポツンと立っていると
愛されたことがない動物が
どうして一人ぼっちなのだろう、と近づいてくる。
すると、不思議。
愛されたことがない動物と愛されたことがない人間が
互いに近づくにつれ、奇跡が起こる。
なぜなら、彼らは一緒になるべくして生まれたからだ。
この世では決してめぐりあえなかった特別なだれかと大切なペットとして。
今、やっと『虹の橋』のたもとで彼らの魂は出会い、
痛みや悲しみは消え、友はいっしょになる。


そして、いっしょに『虹の橋』をわたり、もう二度と別れることはない。

(作者不詳)
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4818/8:2006/08/27(日) 11:44:06.58 ID:oRVS0O1z0
「……ゆうはさ」
「うん?」
「ゆうは、ここでわたしをみつけてくれたんだよね」
「うん、そうだねー、わたしも小さかったから、あまりよくは覚えていないんだけどー……、
 でも、泣き声が聞こえて、みにいってみれば赤ちゃんが居てびっくりしたことだけは覚えてる。
 確かに、この場所で」
「そう……」

「ねえ、ゆう」
「うん?」

「―――わたしをみつけてくれて、ありがとう」
 素直な気持ちで、朗らかな気持ちで、わたしは言った。

「どういたしまして、っていうべきなのかなー?」
 優は困ったように、でも口元に笑みを浮かべていたずらっぽく首をかしげる。
 泣き声がわたしを見つける要因だったというなら、別に優がみつけなくても他の誰かがわたしをみつけただろう。
 だから、このことにはたいした意味があるわけではないのだ。

「別にそんなに真面目に受け取らなくていいよ、ちょっと、そう言ってみたい気分なだけ」

 目を閉じて、名前をつけてあげることすらできなかった仔猫を思い浮かべながら、わたしは笑った。

 ―――そう、ちょっと、そう言ってみたい気分だっただけ―――