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【韓国】朝鮮はなぜ倭軍に踏みにじられたのか、血で書いた反省文[02/19]©2ch.net
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ダーティプア ★@転載は禁止
©2ch.net
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2015/02/19(木) 13:52:27.54 ID:???
1593年1月下旬のある日、柳成竜(リュ・ソンリョン)は開城(ケソン)にいた明の提督李如松の軍営でひざまずかなければ
ならなかった。李如松は「明軍に兵糧を適時に補給しなかった罪を問い軍法を執行する」と怒鳴りつけた。柳成竜は頭を下
げて涙を流すだけだった。一国の宰相がなぜこうした侮辱と恥辱を味わわなければならなかったのだろうか。
このことが起きる何日か前に李如松は坡州(パジュ)の碧蹄館(ピョクチェグァン)の戦いで日本軍に惨敗した後開城に逃
げてきた。そして「もう日本軍とこれ以上戦わず交渉を通じて戦争を終わらせる」と宣言する。明軍だけを信じていた朝鮮
は衝撃に陥った。
柳成竜は連日李如松を訪ね、「早く明軍を進撃させ日本軍を国外に追い出してほしい」と訴える。だが、李如松は「戦うなら
お前たちが直接戦え」と拒否する。それでも柳成竜が催促を止めないので兵糧を言い訳に軍法執行を云々しひざまずかせる
侮辱を与えたのだ。
『懲ビ録(チンビロク)』はこのようにひざまずくことまで耐えなければならなかった弱小国の宰相柳成竜(1542〜1607)が
残した記録だ。「懲ビ」とは「自分の過去を懲戒し後に憂いがないか慎む」という『詩経』の文句から取ったものだ。領議政で
あり都体察使として7年間の壬辰倭乱を体験し感じた反省と悔恨、再びこうした兵乱が起きることを防ぐのに必要な対策と
心がけを記録した回顧録であり備忘録だ。
17世紀初期に刊行された『懲ビ録』が現在まで人口に膾炙し光を放つ理由は何か。何より一国の指導者として柳成竜が
見せた率直な告白と痛烈な自己反省のためだ。柳成竜は『懲ビ録』の序文で「私のように不肖な人が、国が乱れている時
に重大な責任を引き受け危険な時局を正すことができなかったためその罪は許されることはできない」と身を低くする。
それとともに自身をはじめとする朝鮮指導層の過ちと無能を事実通りに叙述する。
ソース:中央日報 2015年02月19日11時44分
http://japanese.joins.com/article/833/196833.html?servcode=400§code=440
http://japanese.joins.com/article/834/196834.html?servcode=400§code=440
国立現代美術館に所蔵された柳成竜の肖像画。チェ・グァンス(1932〜90)の作品だ。柳成竜は壬辰倭乱が終わった後
に退位して慶尚北道安東の河回村に都落ちし、戦乱の全貌を盛り込んだ『懲ビ録』を書いた。
http://japanese.joins.com/upload/images/2015/02/20150219113918-1.jpg
『懲ビ録』
http://japanese.joins.com/upload/images/2015/02/20150219114407-1.jpg
続きます
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ダーティプア ★@転載は禁止
©2ch.net
:2015/02/19(木) 13:52:53.46 ID:???
『懲ビ録』には実際に日本軍との戦いで勝った記録よりは敗れた記録の内容が詳細に記されている。だれが間違い、
何が不足して敗れたかを具体的に記録することにより同じ過ちを繰り返すのはやめようという衷情だった。
柳成竜が叙述した日本軍の姿もまた多くのことを考えさせる。無残に侵略しぬぐうことのできない傷を残した敵だったが、
柳成竜の日本軍に対する評価は客観的だ。新しい武器の火縄銃の驚くべき威力、死を恐れない日本軍の勇猛さ、
緻密で細かい彼らの築城術や用兵術などを淡々と叙述した。敵愾心を超え日本の実状を正しく知ってこそ彼らと対抗
できるという信念の所産だった。
柳成竜は告白と反省だけにとどまらない。『懲ビ録』には自らを守ることができる「自主国家」を念願した柳成竜のビジョン
が込められている。火縄銃と大砲、兵法をはじめとする日本と明の先進武器と軍事技芸を学ぶこと、戦争に疲れ日本軍
と明軍に苦しめられた百姓らを抱くこと、有事の際に活用できる人材を選抜し育てることなど、「戦争後」に備えた具体的
代案がひとつひとつ提示されている。戦争が起きてからわずか17日で首都を奪われ、戦う意志さえない明軍将帥の服
の裾をつかんで日本軍と戦ってほしいと哀願しなければならなかった恥辱を繰り返すまいとする悲願は切々だ。
だが「懲ビ」の精神はしっかりと継承されなかった。柳成竜が強調した安民と養兵のビジョンは実現できなかった。隣国の
実状を正しく知らなければならないという警告もまた無視された。その結果倭乱当時百姓らが体験しなければならなかった
惨憺とした苦痛は30余年後の丙子胡乱で再び繰り返された。
壬辰倭乱以降、朝鮮よりももっと鋭敏に『懲ビ録』に注目したのは日本だった。『懲ビ録』は1695年に日本で刊行される。
初版『懲ビ録』の序文で貝原益軒はこのように書いた。「朝鮮人が惰弱ですぐに敗れ瓦と土が崩れるようになったのは普段
から教えずに防御の道を失ったためだ。(中略)これは戦争を忘れたことだ」。鋭く骨身にしみる指摘だった。
そして1712年、日本に行った朝鮮通信使一行は大阪の道で『懲ビ録』が販売されている姿を目撃し驚く。報告を受けた
粛宗と臣下は朝鮮の書籍が日本に渡ることを防ぐための対策を立てなければならないと騒ぎ立てた。加害者の日本が
被害者の朝鮮より「懲ビの精神」をさらに強調する切ない場面が作り出されたのだ。
現在の韓国はどうなのか。いままさに柳成竜を扱ったドラマの放映を控え『懲ビ録』関連本があふれているが、「懲ビの精神」
は失われて久しい。内外で山積した難題を解決していくのに必要な率直な反省と卓越したリーダーシップが惜しまれる現在、
柳成竜が残した「懲ビの精神」が改めて懐かしくなる。