◆「ハンナ・アーレント」 〜福島みずほ〜
ハンナ・アーレントの映画を見ました。
ハンナ・アーレントは全体主義の起源などの本を書いているアメリカの偉大な女性哲学者です。
彼女はハイデッガーの愛弟子であり、そしてフランスの収容所で過ごし、そこから夫と共に
アメリカに亡命をしたユダヤ人です。
アイヒマンが亡命先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関によって逮捕され、
イスラエルで裁判が行われた際、ハンナ・アーレントは傍聴を希望して、
雑誌『ニューヨーカー』に傍聴記を書きました。
ハンナ・アーレントが書いたもので2つの点がみんなのセンセーションを引き起こします。
第一番目は悪の権化のようなアイヒマンについて「凡庸な悪」と言ったことです。
みな、彼女がアイヒマンを罵倒することを期待していました。
しかし凡庸な悪と言ったことで皆が失望したのです。
しかし凡庸な悪そのものではないか。
ハンナは大学で講義をします、人間が思考停止をすることそのことに問題が、と。
人が正義感や使命感やある意図を持って行動するのではなく、言いなりになり、
ものを考えず、思考停止をすることにこそ問題の本質があると言ったのです。
その通りではないでしょうか。
とりわけ日本の官僚制度や日本の政治状況、メディアの状況も含めて人々が思考停止をし、
意思を持たずに言いなりになって流されていく、そういったことを凡庸な悪と言ったのではないかと
思います。
日本の今の政治状況の中で凡庸な悪に私たちが流されていっている、負けている、
そのことを私自身痛感しています。
第二番目に彼女が攻撃されたのが、ユダヤ人の中にナチスドイツに協力したリーダーたちが
いたということを裁判の過程で知り、そのことを書いたことです。
ユダヤの人々は、彼女がユダヤ人を裁くナチスドイツと同じ立場で見下しているとひどく傷つき、
批判をします。
このことをどう思われますか。
私はこの映画を見た直後はハンナのこの第二の指摘について正しいのかどうか疑問に思いました。
よく差別がないと言う人たちは、被害者の側で協力した人間がいる、戦後補償の中で
朝鮮の人たちがむしろ日本に協力をしたのだ、女の敵は女だ、むしろ女性がそれを
望んでいるといった言説を多用します。
だから被害者の側に協力した人間がいるということが、むしろ加害被害を見えなくする、
差別など存在しない、被害者の側がほんとに被害者なのか、そんな誤った言説を
跳梁跋扈させるような気が私はしてきました。
ですからハンナの第一の指摘は鋭い、しかし第二の指摘は若干疑問というふうに思いました。
ただ今は考えが違います、ハンナが真実をきちっと語りたかったのであると。
単純化した被害加害ではなく、何が起きたのか、実は何なのか、そこから私たちは何を
学ぶべきなのか、自分が抑留され、強制収容所に送られて殺されたかもしれないハンナ自身が
歴史をきちっと分析し、繰り返し何が起きたか歴史に刻むべきだという事実を直視する立場から、
第2番目の指摘も行ったのだと思います。
今考えれば第1番目の指摘も第2番目の指摘も実際起こり得ることなのですから、
それを指摘したハンナは正しいと思います。
ハンナはこの論文を書いたことですさまじいバッシングを受けます。
人々は受け入れ難かったのです。しかし、全体主義がなぜ起きるのか、
そのことを指摘しようとしたハンナの真摯さは、この映画の中で一番光っていることです。
思考する哲学者ハンナの真摯さと、思考停止をしてはならない、人間は考え続けるべきだという
姿勢は、この映画の中で私たちをほんとうに励ましてくれます。
全体主義は、人々が思考しなくなることによって起きる、そのことを今日本でこそ
いちばん受け止めるべきではないでしょうか。岩波ホールは、満席でした。
人々が今の日本の政治状況に危機感を持ち、この映画を見に来た人がいるということを感じました。
BLOGOS(ブロゴス) 2014年01月06日17:20
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