安倍晋三首相は全国戦没者追悼式の式辞で、アジア諸国への反省と加害責任を明言しなかった。
例年の式辞で述べられてきた「不戦の誓い」にも言及していない。
1994年の村山富市首相の式辞以降、歴代首相が「アジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」
などと反省を表明してきた。安倍首相も第1次内閣当時の2007年には、アジア諸国への加害責任を認めている。
領土問題や歴史認識をめぐる中国や韓国とのあつれきが増す中、なぜこうした転換が必要なのか。理解に苦しむ。
安倍政権は戦後70年の15年に新たな首相談話を発表する方針だ。今回の式辞はその布石との捉え方もある。
近隣国に多大な犠牲を強いた侵略や植民地支配に対する事実や責任を打ち消すことはあってはならない。
歴史認識に一貫性のない国が、周辺国の信頼を得られる道理はないだろう。
首相の式辞は、日本人が戦争責任や戦後処理にどう向き合ってきたかを映す鏡でもある。
国民の見識や誠意も問われる局面にあることを忘れてはならない。
気になるのは、国内世論にも安倍首相の姿勢を評価する声が少なくないことだ。
韓国や中国の政府や政治家に反日ナショナリズムをあおり、政治利用するケースがみられることは甚だ遺憾だ。
とはいえ、重要なのはそれに対抗するのではなく、安倍政権の「従軍慰安婦」や靖国神社参拝などの歴史認識問題が、
対立に拍車を掛ける悪循環の要因となっている現実に目を向けることだろう。
安倍政権の特質として挙げられるのは、アジア諸国に対する加害責任を矮小(わいしょう)化する一方、米国にすり寄る傾向が顕著なことだ。
中国に対する敵視政策を強めれば強めるほど、対米従属の度合いは増す。これをジレンマとも捉えずに、
日米基軸路線を手段ではなく目的化しているのが、日本外交の現実ではないか。
1977年生まれの社会思想史家の白井聡氏は著書「永続敗戦論」で、こうした仕組みを支える日本社会の断面をこう表現している。
「米国に対しては敗戦によって成立した従属構造を際限なく認めることによりそれを永続化させる一方で、
その代償行為として中国をはじめとするアジアに対しては敗北の事実を絶対に認めようとしない」。
さらには、このような「敗北の否認」を持続させるためには、ますます米国に臣従しなければならない、と論じている。
日本人がこれまで敗戦を直視してこなかった矛盾が、沖縄に凝縮している、と言えるのではないか。
オスプレイ配備やF22の常駐化など、沖縄は米軍の最新鋭機のショールームと化している。
沖縄の今が、日本人の「敗北の否認」を象徴しているように映る。
だがそれも、限界にさしかかっている。オスプレイ追加配備に県民が抗議し、
県警機動隊が束になって守らなければ基地の運用を維持できない普天間飛行場野嵩ゲート前の光景こそ、
日本本土や安倍政権が正視すべき現実だろう。
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-08-16_52944