「短いにもほどがある。私は別の方を見て歩くようにしている」「男性も半ズボン姿になって、すね毛を見せて報復すべき」。
近ごろの女性のファッションについて、男性陣と話をしていたときのことだ。
「そんなにストレスになるなら、そういう服を着ないように言いなさいよ」と私は進言した。
その瞬間、男性陣は「そう言われても困る」という表情を見せた。女性のファッションを敵視するような発言をすれば、
運が良ければ「無知」で済まされるが、ともすれば「セクハラ犯罪者」呼ばわりされるからだ。
男性たちのデリケートさや恐れが、ストレスを生む原因になっているのだ。
ところで、本当に男性だけがストレスを感じているのだろうか。下着がぎりぎり隠れる程度のショートパンツや、
背中が大きく開いたリゾートワンピース姿の女性にオフィスの近くで出会うと、同性でも戸惑ってしまう。
「お客さま、こちらでそのような服装はいけません!」と言いたくなるが、もちろん声には出せない。
他人の服装を指摘するのは「グローバルスタンダード(国際基準)」に背くことだからだ。
ただし、例えば会社内で、床に敷いた新聞紙に座ってご飯をかき混ぜて食べたりはしないのと同様、
公的な場所ではそれに見合った態度、服装がある。このようなこともグローバルスタンダードだ。
ふと「服を脱ぐ自由」が「見たくないものを見ない権利」より優位にある概念なのか、疑問が湧いてきた。
同時に、最近一部で巻き起こっている映画の上映制限論争が頭をよぎった。
キム・ギドク監督の新作映画『メビウス』が、映像物等級委員会で、
一般の映画館での上映が認められない「制限上映可」の判定を受けた。
キム監督のメディアとのインタビューと、聞こえてくるさまざまな話を総合すると、映画の中の
「息子の局部を切断した母、息子に自分の局部を移植した父、息子と母親の性交渉シーン」などが問題になったようだ。
映画監督や制作者たちはこの判定に対し「韓国に、(一般映画館で上映できない作品を上映する)制限上映館が
存在しないことを知っていながらこんな決定を下すとは、映画に対する死刑宣告と同じだ」と反発している。
一方の映像物等級委員会側は、韓国の上映制限制度が決して厳しいわけではないとの立場だ。
暴力的な性描写が登場する『セルビアン・フィルム』という映画がある。英国は『(一部シーンの)削除後上映可』、
オーストラリアは『等級拒否(上映禁止)』、韓国は『制限上映可(一般映画館での上映不可)』の判定を下している。
商業目的の映画館で上映されないからといって、その映画が絶対に見られないわけではない。
『セルビアン・フィルム』をはじめ、売春や性的少数者をテーマにした
映画『チュルタクドンシ(●啄同時=●は口ヘンに卒)』のような一般上映不可の映画も、映画祭では上映された。
同好会という形で上映会を開くことも可能だ。
結局『メビウス』をめぐる騒動は「表現の自由」に関する論争ではなく「商業的に上映する権利」に関する争いだ。
近親相姦(そうかん)は芸術分野ではおなじみのテーマだが、問題となるのはそれを表現する「方法」だ。
映画を見た等級委員たちは、多数決(5対2)で「国民向けの一般映画館での上映は不可」との結論を出した。
「有害性があるため市中での流通(上映)は禁止」と「取りあえず流通(上映)権がほしい」
という二つの主張だけがぶつかり合っているが、それでは何かが抜けている。観客の権利だ。
「その映画を見たい」という観客の要求は正当なものだが、それと同時に「そのような映画は見たくない」
という観客も尊重されなければならない。
一般の映画館で公開されるということは、何気なく映画を見に行けば予想以上の表現レベルに遭遇することもあり得るということだ。
さらには、後日ケーブルテレビなどを通じて家庭で目にする可能性もあるわけだ。「嫌なら見なければいい」といった論理は無責任だ。
現段階で問題の映画を鑑賞したのは、映画の制作陣と等級委員たちだけだ。一般市民は除外されたまま「映画生産者」だけが、
上映する自由を与えるか否かの議論だけを繰り返している。
いっそのこと、平均的な一般市民の多数意見を聞いてみてはいかがだろう。
暫定的に「一般映画館での上映不可」とされた映画に限り、第2段階として「映画陪審員制度」を導入してみるのだ。
大学生の娘や私の夫、先生方が街の映画館で見ても問題ない映画なのか「常識」に照らし合わせてみようではないか。
一部の意見だけ聞いていては解決しない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130707-00000279-chosun-kr