【慰安婦】「いかなる歴史も慰安婦よりも残忍なことはできないと思う」〜日本人のナガハマ・カズコ元教諭[03/01]

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504<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
朝日新聞 1979年9月7日 東京夕刊
従軍慰安婦の涙 朝鮮女性の悲惨さ追う   山谷哲夫(記録映画監督)

 今年の5月にようやく「沖縄のハルモニ――証言・従軍慰安婦」という1時間36分の記録映画を
3年がかり完成させた。ちなみにハルモニとは朝鮮語でおばあさんという意味である。
 従軍慰安婦と言っても、戦後生まれの読者には初めて聞く人も多いと思われるので、あらかじめ
説明しておきたい。

  軍専用に集める

 日中戦争の拡大とともに、中国女性に対するおびただしい強姦(ごうかん)事件の続出と、それに
伴う性病の蔓延(まんえん)で戦線を離脱する兵士に手を焼いた日本軍の上層部が、軍隊専用の
売春婦を集め、それを管理した。目的はあくまで兵士たちの強姦防止と性病予防であった。
 軍が管理売春させていた女たちは、従軍慰安婦と呼ばれ、そのほとんどが朝鮮人だった。日本人
慰安婦も少数いたが、大半が公娼(こうしょう)出身で性病経験者が多かった。そのため軍部は、
これら日本人慰安婦より、むしろ若くて健康で、性病とは無縁な朝鮮人慰安婦を歓迎した。
  一説には20万人、または7万人と推定される朝鮮人女性が、敗戦に至るまで、中国や東南アジア
そして沖縄などの日本軍陣地に半ば強制的に連行された。そのほとんどが貧しい家の娘であった。
 そんな彼女たちのことを現在調べようとしても、ほとんど資料が残っていない。
 送り出した朝鮮総督府は敗戦直後に責任追及を恐れ、証拠書類を全部処分しているし、受け入れ
先の日本軍では慰安婦の存在をひた隠しにしていた。「性戦」ではなく「聖戦」を完遂している「皇」軍
が売春婦を抱えて転戦しているはずがないのである。だから軍隊にも公的な記録は残されていない。
 ただ一つだけ確かなことは何万、何十万という朝鮮人女性たちがむりやり家族や恋人から引き裂か
れ、日本の敗戦によって祖国が解放された後も再び郷里に帰ってこなかった事実である。
 慰安婦の大部分は戦地で過労、性病そして戦火に巻き込まれて死んでいる。少数の生き残りの
慰安婦たちも老齢化しつつある。過去を恥じ、故郷にも帰れず、日本や東南アジアなど異国の地で
人知れず果てていくのだろう。せっかくの生存者も家族の迷惑を思い、これからも貝のように口を閉じ
たままだろう。
 このままでは、あと十年もたたないうちに従軍慰安婦の歴史的事実は、彼女らの死滅とともに永遠
に葬り去られることは確実である。それでは「オモニ」(朝鮮語でおかあさん)と叫びながら、望郷の
思いを抱いたまま戦地で息絶えていった、と伝えられる無数の従軍慰安婦の霊がうかばれない。
 だれかが、植民地朝鮮の貧しい家に生まれたというだけで、このような運命を辿(たど)らされた女
たちの歴史を記録に刻みつけておかねばならない。 (後略)
505<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2013/03/10(日) 18:43:21.87 ID:d6MqUPfP
朝日新聞 1984年8月25日 東京朝刊
戦時中の女子てい身隊動員 日本に謝罪と補償求めよ 
全大統領に公開書簡 クリスチャンの韓国女性七団体 韓国
小林(慶)特派員

 この書簡はとくに女子てい身隊について、動員された約20万人のうち5-7万人が慰安婦に
狩り出されたと推定。
506<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2013/03/10(日) 18:45:49.43 ID:d6MqUPfP
朝日新聞 1984年11月2日 東京夕刊
「私は元従軍慰安婦」 韓国婦人の生きた道(シンガポール) 
松井やより

邦人巡査が強制連行 21歳、故国引き離される

 ある日、釜山郊外で井戸の水を水がめにくんで頭に載せて帰ろうとしたら、日本人巡査が
3、4人来た。「待て」と言われて身をかわした瞬間、水がめが落ちて割れ、巡査の服をぬらした。
いくら謝っても許してもらえず、殴られたり、けられたりしたうえ、車の中に押し込まれた。それが
人生の岐路となった。
 留置された部屋には若い女性がいっぱいだった。10日後に6人がダブダブの軍服を着せられ、
「皇国使節団」として軍艦に乗せられた。1942年の秋だった。
 40日間の航海のあと「昭南島」と呼ばれたシンガポールに着いた。日本軍のバラックに入れられ、
翌日、慰安演芸会でアリランなどを歌わせられた。そのあと個室に連れて行かれ、休ませてくれる
のかと思ったら、将校が入ってきた。この夜から、挺身隊員としての地獄の日々が始まった。
 慰安婦の生活は、昼間は兵隊の衣類の洗濯や兵舎の掃除、弾薬運びなどの重労働で、夜は
兵隊のなぐさみものとなった。朝から何十人もの相手をさせられる日もあった。少しでも反抗すると、
監督に殴られ、髪を引っ張られ、半裸で引き回された。人間以下の生活だった。
507<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2013/03/10(日) 18:46:55.19 ID:d6MqUPfP
朝日新聞 1985年8月19日 天声人語

▼「外地」から戦地へだまされ連れて行かれた女性の数はわからない。日本の女性を含め、
彼女たちは軍需物資なみに扱われた。軍馬と共に船底に押しこまれて運ばれることもあった
(千田夏光『従軍慰安婦・慶子』)▼軍隊の暗部を今さら、という人もいるだろう。だが軍需物資
として消耗品のように捨てられた女性たちの存在はやはり、戦争史に刻まれねばならぬ▼
508<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2013/03/10(日) 18:47:50.53 ID:d6MqUPfP
朝日新聞 1985年8月29日 東京朝刊
従軍慰安婦のために初めて鎮魂の碑を建てた 深津文雄さん

 従軍慰安婦と呼ばれ、戦時中、強制的に兵隊に性の提供をさせられた婦人たち。旧軍関係者が
口をつぐんでいるため数字は不明だが、その数、12万人ともいわれる。
509<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2013/03/10(日) 18:49:51.73 ID:d6MqUPfP
朝日新聞 1985年10月6日 東京朝刊
著者の意地と執念

 千田夏光著の「従軍慰安婦・慶子」(光文社)は寝転がっては読めない本であった。座り直し地図を
広げ、慶子たち従軍慰安婦が≪軍需貨物≫扱いで中国戦線から南方の島々へと軍隊とともに転戦
させられた先をなぞった。
 激戦のガダルカナルもインパールも、彼女たちは身をもって体験する。女は銃後の守りばかりでは
なかったのだ。千円の支度金につられ半ばだまされて、また徴用という名で強制連行され、≪皇軍≫
の男を慰めるために前線に送りこまれた慰安婦は、敗戦時に12、3万人いたといい、その大半以上が
朝鮮女性であったという。 (後略)

(東京都日野市 真砂 早苗・主婦・42歳)
510<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2013/03/10(日) 18:50:30.96 ID:d6MqUPfP
朝日新聞 1987年9月14日 東京朝刊
従軍慰安婦で散った朝鮮女性の「恨」映画化

 戦時中、日本軍部隊が、主に朝鮮半島から未婚女性を「従軍慰安婦」として徴用したことはよく
知られるが、「生き残った数少ない元慰安婦の人々も、東南アジアや南洋の島に置き去りにされたり、
貞潔を尊ぶ故国に帰れたとしても、自らの過去を語ることもできず、長い間、歴史のやみに葬り去られ
てきた」(富山さん)のが実情だった。その数は「将兵四十人に一人」「二十九人に一人」などとされ、
七万人とも十数万人ともいわれた。
511<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2013/03/10(日) 18:51:19.09 ID:d6MqUPfP
朝日新聞 1988年8月18日 東京朝刊
朝鮮人従軍慰安婦の記録を調べる 尹貞玉さん
松井やより編集委員

 慰安婦にされた朝鮮人女性は8万人説から20万人説までまちまち。