【日中韓】5月の韓日中首脳会議で3カ国大和解宣言しよう 韓国は日中に対し加害者ではないため、歴史的な負債がなく主導に適任[01/22]
■歴史上唯一 日本と朝鮮が戦った「応永の外寇(1419年)」…対馬の領土化を狙った、李氏朝鮮の対馬侵略■
★わずか600人の日本の武士団が、朝鮮軍17,285人を降伏させる…爆笑★
歴史上、日本が朝鮮半島での戦争は、古代から豊臣秀吉の朝鮮征伐まで、支那との戦いであった
しかし、歴史上唯一 日本と朝鮮が戦った戦争が「応永の外寇(1419年)」である
永楽17年(1419年)6月、李氏朝鮮の太宗は倭寇撃退を名目(…実際には対馬の朝鮮領土化が目的…)にした
対馬侵攻を決め、対馬の守護や主力兵が不在である時期を狙って、李従茂率いる227隻、17,285名の精鋭の軍勢を
対馬に侵攻させた。
日本側の武士は留守を預かる600人程度であり、通常の軍事的常識から見れば朝鮮軍の圧勝のはずであった。
【戦争の結果】
動員兵力: (日本) 600人 (朝鮮) 17,285人
戦死者 : (日本) 20人 (朝鮮) 2,500人以上
★このような兵力の差でも、結果は日本の武士団の圧勝でした(笑)
★★600人で1万7285人を10日ほどで完敗させ、朝鮮側は最終的に対馬が日本であることを再確認させられ、
その上、毎年大量の米を対馬に献上することを約束させられた(…この献上は明治になるまで続けられた…)★★
この戦いの時に対馬に滞在していた中国人商人が朝鮮軍に捕まりました。この中国人商人の扱いについて…
「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」「事大の礼を尽くして送り返すべき」と
朝鮮国内で議論となったとの記録があるくらい、朝鮮軍は尋常ではない負け方をしました(爆笑)
応永の外寇(1419年) …李氏朝鮮の対馬侵略 朝鮮兵17000人 vs 対馬兵600人…でも、日本軍の完勝(笑)
http://hoi333.blog.fc2.com/blog-entry-54.html 応永の外寇(1419年) …倭寇討伐を名目にした李氏朝鮮の対馬侵略
永楽17年(1419年)6月、李氏朝鮮の太宗は倭寇撃退を名目にした対馬侵攻を決め、対馬の守護が不在である時期
を狙って、李従茂率いる227隻、17,285名の軍勢を対馬に侵攻させた。日本側の留守を預かる武士の数は600人程度
であり、通常の軍事的常識から見れば朝鮮軍の圧勝のはずであった。
朝鮮軍は、6月17日に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、19日に再出航、20日昼頃に対馬の尾崎浦
(『朝鮮王朝実録』には豆知浦とある)附近へ上陸した。一帯の一般船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、
民家1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の島民を殺害したとされる。しかし26日頃には、
仁位郡(『実録』では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受け、李従茂の軍は尾崎浦まで退却、
戦局は膠着状態に陥った。
朝鮮側は、29日に宗氏に対して対馬の属州化などを要求する使者を送るが宗氏に拒絶された。損害の大きくなった
李氏朝鮮側は対馬側の和平提案を受け入れ、7月3日に巨済島へ全面撤退した。
李氏朝鮮側の被害は日本の資料では死傷者2500以上。朝鮮側の資料である『世宗実録』では6月26日の襲撃で
死者百数十人、7月10日の記録では180人とされているが、これでは6月26日、7月10日の損失を合計しても総数
の2%程度であり、この程度の損害で和平を受け入れるとは考えにくく、6月26日は敗戦と自ら明記し、将官も戦死
していることからも、実際の被害は相当数にのぼると思われる。
8月5日の記録では日本の戦死者20人に対し朝鮮側が100余名とされている、総じて朝鮮軍は不利であったようであり、
この事は保護された中国人の扱いにおいて「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」
と主張する左議政朴?に対し、右議政李原らは「事大の礼を尽くして送り返すべき」と反論したという記録や、
朴実が敗戦の罪により投獄され、李従茂が国民への影響を理由に免罪となった事からも窺え、朝鮮軍が尋常
ではない負け方をしたことが推測される。
動員: 600人(日本)17,285人(朝鮮)
戦死者: 20人(日本) 2,500人以上(朝鮮)
もう、当時、対馬にいた中国の商人達が大笑いするほどに朝鮮軍が惨敗した。
朝鮮の兵力は、精鋭部隊1万3000人(奇襲上陸)、それを迎えうった対馬兵って、留守番役で数が少なく、
足軽級もいれて、たったの600人。(当時、藩主他、主力は京都や天津にいた)
それで、当時、対馬にいた中国人が記録してるが、もう、笑っちゃうほどに朝鮮将兵は弱かった。
最初の弓合戦でも、ただの一矢も朝鮮側は届かすことが出来ず、逆に対馬兵の弓矢は百発百中、それだけで、
対馬兵に殺され放題だった。
日本武士は、一人で600人斬ったのもいたそうで、最後は、適当、バラバラに斬り込んで、斬り殺し放題、
朝鮮将兵は、日本刀で切られると、刀、兜、鎧ごと、スパスパ切り落とされるので、泣き喚いて逃げてたと。
最初の朝鮮軍の奇襲で殺された対馬村民以外は、朝鮮将兵は一方的に狩り取られたw
日本側は多勢に無勢を気にする風もなく、奇襲強襲、釣り野伏せ(待ち伏せ)など、したい放題で一方的に勝利、
600人で1万3000人を10日ほどで完敗させ、朝鮮側は最終的に対馬が日本であることを再確認させられ、
その上、毎年大量の米を対馬に献上することを約束させられたw
翌年には朝鮮から回礼使として宋希mが派遣され、4代将軍足利義持に拝謁して日本と和解した。宋希mは
日本の見聞録を『老松堂日本行録』として書き著した。
この事件により対馬や北九州の諸大名の取締りが厳しくなり、倭寇の帰化などの懐柔策を行ったため、
前期倭寇は衰退していく。また、この事件の報が日本本土に伝わった際、元寇の再来との憶測が流れた。
なお、清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略行為
(元寇)を行った高麗(朝鮮)への報復である、と記述されており、応永の外寇以前の前期倭寇は局地的な
奪還・復讐戦であるとして「倭寇」と呼ばず、これ以降の後期倭寇を「倭寇」と考える説もある。
371 :
370:2013/01/23(水) 13:05:39.67 ID:FGJlMYqK
明治維新まで毎年米200石を対馬に貢ぎ続けた李氏朝鮮
1443年(日本暦嘉吉3年)に李氏朝鮮と対馬の宗貞盛との間で嘉吉条約(かきつじょうやく)が結ばれたが、
対馬からの歳遣船(交易船)の数を毎年50隻を上限とすることの他に、歳賜米200石を李氏朝鮮が対馬に
毎年支給することが確認されている。歳賜米とは聞こえが良いが、態の良い賠償金であり、一時的に中断したことは
あっても、単純に計算して425年間に8万石以上の米を対馬に献上したことになる。
対馬の宗氏は豊臣秀吉、徳川家康に所領を安堵され、改易されることもなく幕末まで続き、明治維新の版籍奉還
で藩は消滅し、宗氏は華族に列せられた。
ソース⇒
お笑い!応永の外寇
倭寇討伐を名目にした李氏朝鮮の対馬侵略
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-759.html 李氏朝鮮側の被害は日本の資料では死傷者2500以上、『世宗実録』では6月26日の襲撃で死者百数十人、
月10日の記録では180人とされている。しかし士気の衰えや船舶の損耗、旧暦7月は台風シーズンであることにより
再出撃が行われなかったことや、6月26日、7月10日の損失を合計しても総数の2%程度であり、この程度の損害で
和平を受け入れるとは考えにくく、6月26日は敗戦と自ら明記し将官も戦死していることからも、全体の被害は
相当数にのぼると思われる。
8月5日の記録では日本の戦死者20人に対し朝鮮側が100余名とされている、総じて朝鮮軍は不利であったようであり、
この事は保護された中国人の扱いにおいて「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」
と主張
する左議政朴?に対し右議政李原らは「事大の礼を尽くして送り返すべき」と反論したという記録や、朴実が敗戦の
罪により投獄され、李従茂が国民への影響を理由に免罪となった事からも窺える。
歴史上、朝鮮の国が日本を侵略しようとした計画は?
http://okwave.jp/qa/q7252650.html 鎌倉時代に,そのときの中国王朝である元が攻め入ってきたことがあることはご存じだと思います.
何かの文献で読みましたが,
当時朝鮮半島を支配していた高麗は,中国軍に負けてしまったため,
元寇の際は,実質,高麗人(朝鮮人)と日本人の争いだったと書かれた文献がありました.
はい、攻めて来ました。日本は韓国から攻められまくりました。そのおかげで武士階級が成長し、
九州には大宰府が設置されたのです。
韓国(朝鮮人)による主な日本侵略:
・天智天皇7年(668年) 大化の新羅の賊
・弘仁3年(812年) 弘仁の新羅の賊
・弘仁4年(813年) 弘仁の新羅の賊
・弘仁11年(820年) 弘仁の新羅の賊
・弘仁4年(813年) 弘仁の韓寇
・弘仁11年(820年) 弘仁新羅の乱
・貞観11年(869年) 貞観の韓寇
・寛平5年(893年)および寛平6年(894年) 寛平の韓寇
・延喜6年(906年) 延喜の新羅の賊
・長徳三年(997年) 長徳の入寇
・寛仁3年(1019年) 刀伊の入寇(刀伊とは高麗の支配下にあった満州族の一派)
・文永11年(1274年) 文永の役(元寇)(文永の役は高麗軍が中心となった侵略)
・元中6年(1389年) 戦艦300艘による高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻
・応永26年(1419年) 応永の外寇
朝鮮は16回日本を侵略している
http://www010.upp.so-net.ne.jp/japancia/kiji/chonsinryaku.html 朝鮮寇
日本が外国勢から侵略を受けるのは、「元寇」が初めてではない。
日本側の記録によれば(『太宰管内志(大宰府管内誌)』『類聚三代格』『日本三代実録』『百練抄』『日本紀略』
『扶桑略記』等)、それまでたびたび侵略を受け、九州北部はもとより薩摩大隅にまで及んでいたことが記録されている。
その大半は、朝鮮半島からのものであった。数隻の賊船によるものがほとんどであったが、中には、45隻2500人
の新羅の者が来襲し、捕らえた捕虜が「王の命令を受けて略奪に来た」と述べたこともあった。(『扶桑略記』)
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm 実はコリアンは、太古から日本人虐殺&侵略を多数行っていた。
【第一次侵略=356年】
ワイ人=朝鮮人の金奈勿(キン・ナブツ)が、稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪、
志良岐を乗っ取る。稲飯命王朝が滅亡。
【第二次侵略=562年】 朝鮮人国家=新羅が、半島の日本領=任那を武力攻撃。任那は滅亡した。
【第三次侵略=660年】 新羅が、唐軍と共に日本領=百済を侵略。百済は滅亡した。
【第四次侵略=811年・12月】 新羅の賊船が対馬近海に出没するので、警備させる。
【第五次侵略=813年(弘仁4年)・2月】新羅人百人余、肥前小近島に来て島民を殺傷する。
【第六次侵略=869年(貞観11年)・5月】新羅の海賊、博多で掠奪する。
【第七次侵略=893年(寛平5年)・5月】 新羅の賊、肥前・肥後を襲う。
【第八次侵略=894年(寛平6年)・4月】 新羅の賊来る。大宰府に討たせる。
【第九次侵略=997年(長徳3年)】 高麗の賊が大挙して侵寇。多数の日本人を虐殺。
【第十次侵略=1014年(長和三年)】 高麗の賊が攻め寄せ、大宰府が討伐する。
【第十一次侵略=1019年(寛仁三年)】
50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、志摩・早良諸郡を荒らして物資を奪い、
家屋を焼き払い、老人子供は殺して丈夫な者だけを拉致。ついに博多に迫る。
日本側は、大宰権使=藤原隆家・大蔵種材や在地の豪族らが応戦撃退。
逃げる敵を追って船三十艘で追撃。ついに追い払った。十数日間に渡る戦闘だった。刀伊の侵略。
【第十二次侵略=1097年(承徳元年)】
異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せる。大宰府官兵・九州軍士大いに守り、賊船
を撃破し賊徒数万を海没させた。元寇に至る外国からの侵略事件の中でも最大規模のもの。
【第十三次侵略=1274年10月(文永11年)】
忻都、金方慶らに率いられた、高麗人・モンゴル人数万人が朝鮮の月浦(現在の馬山)
を出発。10月5日に対馬を、10月14日には壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させた。
【第十四次侵略=1281年(弘安4年)】
高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍十万、計14万の軍が日本を侵略。
【第十五次侵略=1419年(応永26年】
朝鮮が、日本領=対馬を、倭寇征伐の名目で侵略する。朝鮮では己亥東征という。
太宗は「倭寇の根拠地は対馬だ」と言いがかりをつけ、対馬を侵略した。
これにより6月19日、李従茂指揮の227隻、1万7258人からなる船隊が、
朝鮮の巨済島から対馬にむかい、翌20日に対馬浅茅湾の土寄崎に停泊。
当初、朝鮮軍は対馬の民家1939戸を焼き、多数の日本人住民を虐殺した。
しかし、同年26日に仁位郡に進攻した頃から対馬の伏兵に反撃され、朝鮮軍は
2500余人の損害を出した。そして、宗貞盛の撤兵要求を受け入れて7月3日に巨済島に引き揚げた。
【第十六次侵略=1956年(昭和26年】
島根県隠岐郡竹島を不法占拠。隠岐島の漁民を44人拉致・5人を殺害。現在に至る。
朝鮮人は日本を侵略しました!
http://kankoku-020115.tripod.com/tyousenjinnosinryaku/miscellany/nihonwosinryaku.html 対馬重要歴史年表
西暦 藩主 事項
894 新羅の賊船大小100隻、約2500人来寇、国司文室義友らの活躍により撃退。
1019 刀伊の入寇。女真族の賊船約50隻か来襲し、島民36人を殺害、346人を連れ去る。
1274 @資国 元寇(文永の役)、元・高麗軍4万人が小茂田浜に 来襲、対馬守護代宗資国以下
80余騎戦死。島民被害甚大。
1281 A右馬太郎 元寇(弘安の役)、元・高麗・漢軍連合の東路軍が 日本世界村(峰町佐賀)に来襲とあるが、
被害不明。
1419 G貞盛 応永の外寇(世宗己亥の東征)。李氏朝鮮国の李従茂に率いられた1万7千人の大軍が
倭寇の活動を
封じるため対馬の浅茅湾に来襲、仁位郡の奴加岳付近で合戦。
1510 K義盛 朝鮮で三備の乱が起こり、国交が断絶する。三浦倭変:日本人居留民の反乱
1599 R義智 義智、徳川家康より朝鮮との国交回復を命ぜられる。家臣を朝鮮に度々派遣するも
全員帰国せず。
(注)島主・藩主欄中○内番号は宗家歴代順位
忘れられない悲劇
対馬はまた半島に近いため、たびたび異国から侵略を受けるという悲惨な歴史がくり返されました。
寛仁3年(1019)の、高麗の海賊・刀伊の入寇。
また文永の役(1274)・弘安の役(1281)と続く2度の元寇で、対馬は筆舌につくせない甚大な被害を受けました。
376 :
375:2013/01/23(水) 13:32:12.22 ID:h8D24xAl
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1274年(文永の役)
文永の役の戦闘経過
紀元1274年 900艘の船に分乗した元軍の3万人(元軍2万人、高麗軍1万人)が10月3日に朝鮮半島の合浦の
(ガッポ)を出発し、途中、すでに5日に対馬、14日に壱岐を襲った。
両島とも守備の武士が奮戦したが衆寡適すべくもなく一蹴された。
対馬、壱岐では、老人、男は皆殺しにされ、女は集められて手の平に杭で穴を開けられて縄を通され数珠つなぎ
にされ船縁に吊るされ、連行され、子供は高麗軍に連れ去られ、忠烈王に献上された。
対馬、壱岐での元軍の残虐さは凄まじく、島民は全滅。
「ムゴイ」という言葉はこの時できたということである。
対馬、壱岐、鷹島を攻め、今津湾から大宰府攻略にやってきた。
一部は、志賀島に上陸して来たので、志賀島の住民は、和白、立花を経て、宇美、太宰府方面に避難したが、
逃げおくれた者は、惨殺されたらしい。
開戦当初の九州の軍勢は5000から10000であった。
日本軍の消耗は激しく、一旦後退して陣営を立て直すことになり、全軍博多を放棄して水城に立てこもることになった。
周辺の人たちがかき集められ、昼夜兼行で壕を掘り直し、堤を修復したと記憶されている。
当初造られた時は異国来襲時、博多を水浸しにする予定であった。
610年後、博多は水浸しでなく、火まみれになってしまったのである。
10月20日の夜半から翌朝にかけて神風が吹いた。
元軍の大宰府への総攻撃を覚悟していたが、海を見ると博多湾を埋めつくしていた900艘の軍船がいない。
神風と人々が信じたのは当然のことだったろう。
蒙古軍は皆、交通の要所を狙って上陸している。
このことを鑑みるに、蒙古軍は侵攻路について情報収集を行なっていたものと思われる。
高麗からの情報や、趙良弼の事前調査が役に立ったものであろう。
この後に蒙古から派遣されてきた使者が次々に斬られることになるのだが、おそらくは此処に原因があるものと
思われる。
高麗から日本への使者が地理を詳しく調査したので、元軍は北九州各地を始め、周防にも上陸。
元軍が退却したのは、威力偵察のためと言われている、また、その帰りに暴風雨に遭ったとも言われている。
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1281年(弘安の役)
弘安の役の戦闘経過
東路軍(合浦より侵攻):蒙漢軍一万五千、高麗軍一万、非戦闘員一万七千
江南軍(寧波より侵攻):旧南宋軍十万
東路軍の元軍・高麗軍は、五月二十九日に出港し、瞬く間に壱岐対馬を呑み込んだ。
彼らは悪虐の限りを尽くした後、沖に停泊して江南軍の到着を待った。
しかし、二週間ほど待っても、江南軍の姿は見えない。
六月六日、元軍は博多湾に姿を現した。
東路軍は、単独で、博多への侵攻を開始した。
しかし、日本側は文永の役の後、博多湾南岸に全長約二十キロもの高さ約二メートルの石垣を築き、九州、四国、
関東などの武士、従者おそらく三万人程度が待ち構えていた。
元軍は各地で日本側の反撃に遭い上陸に失敗し、鷹島から壱岐まで退き、江南軍の到着を待った。
だが、海上の元軍に、日本側が攻撃をかけた。
戦いは六月二十九日から翌月二日まで続いた。
元軍は更に平戸まで退き、そこで江南軍の到着を待つ事にした、
しかし、江南軍は来ず、水と食料が腐り始め疫病が流行り出したため蒙古武将は退却を主張したが、高麗武将が
あくまでも日本侵略を主張したため議論は平行線をたどり、江南軍が合流するまで停泊する事になった。
そして、八月二十三日、江南軍が合流した直後に暴風雨が発生し、元軍は暴風雨によって海底に沈んだ。
【蒙古襲来・英霊に感謝】_日本人再生(元寇と、韓国朝鮮の侵略)
http://www.youtube.com/watch?v=unaDZyn_0s0
378 :
377:2013/01/23(水) 13:33:49.53 ID:h8D24xAl
6 : ヤッホー007 : 2005/10/03(月) 17:00:43
>>5 江南兵の数が一番多いものの、彼等は島民の虐殺には係わっていない。それ故、東路軍の捕虜は皆斬首に
処せられたが、江南軍の捕虜は皆許されて、日本で土地を与えられ、百姓として暮らした。
↑
高麗兵全員斬首、宋人全員許されるで、ファビョった某在日が中国人は偉いから全員許され、朝鮮人は
偉くないから全員斬首になったと喚いていた。差別ニダ!という訳。
7 : ヤッホー007 : 2005/10/03(月) 17:03:40
>>4 順番が前後しましたが、
元軍の人員構成(2)
http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub203.htm 弘安の役(1281年)
東路軍船舶数 4400隻(高麗が建造)
東路軍兵力
高麗人 25000人
漢 人
女真人
遼 人
トルコ人
安南人
モンゴル人 150人
総 数 50000人
江南軍兵力
旧南宋人 100000人
8 : ヤッホー007 : 2005/10/03(月) 22:39:55
高麗兵の残虐行為
高麗兵が行なった残虐行為とは具体的にどのようなものだったのだろうか。これは、「伏敵編」所取の「高祖遺文録」
に、 次のように残っている。この「遺文録』は日蓮の遺文を集めた記事集である。
「伏敵編」抜粋
《去文永十一年(太歳甲戊)十月に、蒙古国より筑紫に寄せて有しに、対馬の者かためて有し。総馬尉(そうまじょう)等
逃ければ、百姓等は男をば或は殺し或は生取(いけどり)にし、女をば或は取集(とりあつめ)て、手をとをして船に
結付(むすびつけ)、或は生取にす。一人も助かる者なし。壱岐によせても又如是(またかくのごとし)。》
《按(あんずるに)索(さく=ひも)を以て手頭と手頭とを連結したるに非ずして、女虜の手掌(たなごころ)を穿傷
(せんしょう)し、索を貫き舷瑞(ふなべりはた)に結着したるを謂(い)ふなり。日本書紀天智帝二年紀に、(百済王
豊璋嫌福信有謀反心、以革穿掌而縛(かわうがちたなごころしばる)、)とあり、以て證すべし、》
------------
ここでは、高麗の前身の国家である「百済」を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけ
てそこへ縄を通す」の意)云々のやり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としている。
まさに、この残虐行為を証拠として高麗人の仕業、と編者は判断している。日蓮は、対馬や壱岐、ある
いは九州本土における惨劇を『高祖遺文録」の各個所で言及している。
朝鮮襲来!「元寇」(日本征伐)の真実
http://blogs.yahoo.co.jp/junkey_junkjp/45061758.html 朝鮮半島の歴史上、朝鮮人は一度も他国を侵攻したことがない平和を愛する民族である。
これが韓国の謳い文句であり、今なお多くの韓国人が信じて止まないものである。
さてここに来る日本人ならば大抵の人は「ちょっと待て」と横やりを入れるだろう。
元寇(韓国では無礼極まりない名称で「日本征伐」と呼ぶ)である。
簡単に元寇の歴史的事実を述べておこう。1260年、ジンギスカンの孫、クビライが大帝国の王に即位し蒙古は
中国全土をその手中におさめた。1268年、蒙古国書が初めて大宰府に到着したものの、日本側は返書も送らず
元の皇帝クビライの要求を無視した。1274年10月、元と高麗の大軍は、対馬、壱岐を占領し、博多湾から上陸した。
かくして、おしよせた文永の役である。日本軍は長槍と弓と太刀で日没まで死力を尽くして戦ったが、思いの他強い
短弓と、毒矢、鉄砲のような最新武器と戦術の相違で全く勝ち目はなかった。
ところがその夜、突然の大嵐となり一夜にして元の船を沈めてしまったのである。二度目の遠征は、それから七年後
のことであった。弘安の役という。東路軍、江南軍を合わせると十四万にもなる大軍である。ところが、またも台風に
合ってしまう。
蒙古の船団はその七、八割を失い、日本軍に追いまくられて逃げ帰ったのである。
ここにも見えるように、元寇(日本征伐)に際し朝鮮(高麗)は日本への先兵となって侵略しているのである。
では韓国の教科書ではこの元寇(日本征伐)についてどのように記述しているのであろうか?
「元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵糧の供給、兵士の動員を高麗に強要した。
元はこうして二次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征が断行されたが、すべて失敗した。元は日本征伐のため、
高麗に征東行省という役所を置いた。征東行省は、日本遠征が失敗した後には元と高麗との公共連絡機関として
運営された。」
これだけである。豊臣秀吉の朝鮮出兵など日本からの侵略行為については何ページにも渡ってその非道さを
喧伝しているのに、いざ自分たちが加害者の立場になるととたんに「元に強要されて仕方なく日本へ出兵した」
で終わりなのだ。
ところが、これすらも大嘘であったのだ。
「高麗史」によれば、元寇の発端は高麗の忠烈王が元の世祖にしきりに働きかけ、執拗に東征を勧めたことによる
とある。
何と、朝鮮側の資料に自分たちが元寇(日本征伐)の発端を作ったことが記載されているにも関わらず、それを
無視しての嘘八百なのだから恐れ入る。
さらに、もっとたちが悪いのはこのときの高麗軍の非道極まりない行為である。
最初に侵略を受けた壱岐・対馬の二島では、住民は男はことごとく殺され、女は手に穴をあけられて数珠つなぎ
の捕虜にされた。二百人の童男童女は高麗軍に連れ去られ、忠烈王に献上された。
今も泣く子を黙らせるため、母親が子に「モッコ(蒙古の訛り)来るぞ」とあやす言い方が全国各地に残っているが、
元寇(日本征伐)から七百年を経過した今なお、日本人の蒙古・高麗に対する潜在的な恐怖心は消えていないの
である。
当時の日本人の恐怖は、想像するだに余りある。
余談ではなるが、この恐怖心が後の「倭寇」や「朝鮮出兵」に繋がったと李朝後期の安鼎福などがその文献に記している。
悪逆非道・強制連行まさに韓国で言われる「日帝の悪行」そのものではないか。
これを見て驚く韓国人も大勢いるだろう。
だが、これが真実である。自分たちの歴史に目を閉ざし、他国の歴史を捏造し卑下するに至ってはもはや病的
ナショナリズムの発露とも言うべきで滑稽でみっともないだけである。
韓国人よ、自国の歴史をもう一度冷静に振り返ることだ。
【韓国/東亜日報】日本に対する認識[04/09]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1333932880/ 壬辰倭乱は韓国人にトラウマとなった。小さな島国と見くびっていた日本に「してやられた」からだ。
問題は、壬辰倭乱の前も後も日本を見くびる意識が大きく変わらなかったという点だ。
今日、韓国人は、当時の先祖が日本の国力と情勢を十分に把握できず、戦乱を未然に防ぐことができなかったことを痛烈に批判する。
日本が、韓国より領土も広く、人口も多いという点を承知している。
しかし、経済大国としての日本の認識は、明治維新以降に限定される。
過去の日本に対しては、韓国に文物で後れをとった小国という発想から容易に抜け出すことができない。
◆
これは錯覚だ。壬辰倭乱当時、日本はすでに軍事上、世界最強国だった。当時、日本が保有していた火縄銃は50万丁だった。
ヨーロッパ大陸が保有する全体銃器を凌駕する数だ。長年の戦国時代を経て、戦闘力を備えた正規軍が30万人にのぼった。
壬辰倭乱当時、朝鮮に投入された兵力はその半分の15万人だった。一方、朝鮮の正規軍は5万〜6万人しかなかった。
当時、朝鮮の人口は1000万にも満たなかったが、日本はその倍を上回る2000万に迫った。
日本の人口が韓国に追いついたのは統一新羅時代だった。
◆
韓日の格差は壬辰倭乱後さらに広がる。徳川幕府になって日本の首都となった江戸(今の東京)は、
18世紀には人口100万の世界最大都市となった。当時、清の首都の北京やフランス・パリの人口が50万、
英ロンドンの人口が80万だった。漢陽の人口は30万にすぎなかった。日本は、この時すでに歌舞伎で世界初の回転舞台を発明し、
「そば」や「すし」といった世界初のファーストフードを作った。日本が近代化の模範生になった背景には、
このような国力が隠れていた。韓国が傷ついた自尊心を慰めることもいいが、実情以下に日本を蔑むことも慎む時がきた。
朝鮮
ttp://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/7712/antij_kore.html 1952〜1965年、南朝鮮統領李承晩が「一国の領海は干潮時の海岸線より三海里を限度とする」という当時の
国際法上の慣行を無視して朝鮮半島周辺200マイルを領海とすることを一方的に宣言し、公海上に引いた
「李承晩ライン」を根拠として日本漁船の拿捕を実施し、乗組員を最長13年間に亘って抑留。
南朝鮮が「李承晩ライン」廃止までに日本に与えた損害
抑留者:3,929人
拿捕された船:328隻
死傷者:44人
1953年1月12日、南朝鮮統領李承晩が公海上に根拠もなく引いた「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。
同2月4日、漁船に偽装した南朝鮮船第一・第二昌運号(乗組員12人に加え、憲兵1、特務隊員1、情報隊員1、
警邏5人乗組)が公海上で操業中の第一大邦丸を銃撃し、漁労長瀬戸重次郎(34)を射殺(第一大邦丸事件)。
→南朝鮮は漁船員を脅迫して「領海侵犯した」という嘘の調書に捺印させ、これを根拠として「済州島から脱出
するのを追跡し銃撃した」と虚偽の説明を行い、「日本漁船の李承晩ライン侵犯に対する警告」と正当化を
図るも、公海上で操業中の銃撃と判明。朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将が公海上で一般人を
射殺した南朝鮮軍を非難。
同2月7日、南朝鮮が竹島の「領有」を宣言し、翌年これを占拠。
1957年、南朝鮮政府が、1956年に日本に密入国した南朝鮮人の強制送還を拒否するとともに、「李承晩ライン」内
で不法拘束した日本人漁師解放の交換条件として密航南朝鮮人を「日本国内で釈放せよ」と要求。
日本人が忘れてはいけない歴史
李承晩ライン 〜侵略、殺戮行為を正当化する韓国の思考〜
ttp://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/50327395.html これは国際法無視もはなはだしい韓国の暗黒の歴史の一ページです。この結果、多くの日本漁船が韓国に
不当に武力攻撃され、328隻が拿捕され、漁民44人が死傷しました。しかも、拿捕された日本の漁民を解放
する条件として韓国が出してきた要求は、収監されている凶悪犯を多数含む、大量の在日韓国人犯罪者を
無条件に釈放することと、在日韓国人全体に在留特別許可を与えることでした。
【竹島問題】米国、朝鮮戦争直後に『竹島は日本の領土』と一方的に結論[3/27]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1143428095/ (一部抜粋)
『バン・フリート特命報告書』
報告書によれば、アメリカと日本が平和協定草案を作る際、韓国が独島領有権を主張したが、アメリカは独島
の統治権は日本にあると結論を下した。これにより日本が所有権を放棄する島々の中に独島が含まれ
なかったと言うのだ。
報告書は「アメリカはこの島を日本の領土だと思っているが、論難に介入されることを避けて来た」とし、
「アメリカはこの論争が国際司法裁判所(ICJ)に回附される事が適切であると言う立場を韓国政府に非公式的
に伝達した」と記録した.
報告書はこれと共に、我が政府が独島領有権主張の根拠にしている『マッカーサーライン』に対しても
認めていないと記録している。
報告書によると、韓国政府が1952年に日米平和協定(サンフランシスコ講和条約)にマッカーサーライン
を含ませて、独島付近での日本漁船の操業を永久に阻もうとしたが、この様な措置はアメリカが支持
する国際法の原則と矛盾して(てっく注:「するので」の間違い)韓国政府の要求を拒否したと言うのだ。
アメリカは韓国政府に操業線の有効性を認めないと言う立場を通告し、国際法違反だと抗議したと言うのだ。
何故、竹島問題が生じたのか(1)
ttp://blog.goo.ne.jp/charotm/e/132db4b15159e77377e9ed20d7e0f84d 李ラインは、設定後から米国、英国、中華民国により国際法違反と批判されたが、・・・
実に悪名高い国際法違反の李ラインであるが、韓国側はこれを今もなおも正当化している。
■ 投稿:マッカーサー2世が駐韓大使に送った長文電文の翻訳
http://www.nikaidou.com/archives/28457 以下は、米国が竹島を日本領であると古くから認めているという証拠文章の和訳投稿である。
私は訳してないしアホなので英語は不得意。(外国で外人相手に英語でケンカはできますが、
文章はダメです・笑)
http://www.nikaidou.com/archives/28275 (↑原文)
<一枚目和訳>
1960年4月27日
マッコーニー駐韓大使宛て
韓国に新しき民主主義体制の誕生が予期される今、私は、日韓間に存在する論争を永続的に
解決する機会をできるだけ早く確保しておかれるようお勧めします。
李(承晩)氏が権力の座にあった間、それらの解決の機会はほぼ無きに等しいものでしたが、
今や、全く新しい局面を迎え、韓国と日本間の論争を清算へと導ける可能性があります。
韓日の関係は、単なる日本国政府と韓国政府の二国間関係にとどまらず、我がアメリカおよび
我々の東北アジア地域における不可避の責任に、深くかつ直接影響を及ぼすものです。
現実問題として、合理的な解決策が見つかるものならば、我ら当局者が、韓国政府および
日本政府の双方と緊密に連携することでしか生み出されないと考えます。最も重要なことは、
我々が、険悪な論争を基本的な解決に向かわせることを妨げている、韓国政府と日本政府間に
存在する諸問題を特定し、その解決に向けてすみやかに動く準備をすることです。
<2枚目3語目から和訳>共産主義者らが新しい韓国政権に対し、いかなる反応を示すものか
わかりませんが、韓国政府と日本政府の関係を一刻も早くあるべき状態にすることが必須と考えます。
李政権は、韓国の人々に押し付けた独裁主義的なやり方で、民主主義の基本的な教義をほとんど
踏みにじってきましたが、過去にも、李承晩ライン周辺の公海上で海賊行為を働き、日本人の漁師ら
を政治的な捕虜として収監し、韓国外の領土を武力により強奪する形で、国際規範および倫理の
最も基本的な原則を破壊した経緯があります。野蛮な人質外交の慣行は、共産主義国家中国に
対する我々の重大な告発の一つであり、韓国がこれに続くようであれば、それは韓国の新民主主義体制
にとって重大な負荷となります。
従って、私は、韓国新政権は、その支配体制(暫定的なものであると否とを問わず)が整った
できるだけ早い段階で、(1)李政権の野蛮かつ圧政的な取扱いにひどく苦しめられてきた日本人漁師
の人質たち(判決確定前の段階にある者らを含む)すべてを解放し、日本に返すこと、
(2)公海上での日本漁船の拿捕をやめること、を説得するよう強くお勧めします。これは、
新韓国政権から、人質外交の慣行に対する責任を除外してやれるのみではなく、
384 :
383:2013/01/23(水) 14:28:19.03 ID:h8D24xAl
<3枚目和訳>また何よりも、真に実りある交渉のための礎を日本に築くことでしょう。同時に、
私は、漁師の送還と引き換えに、韓国と日本の間で漁業保全協定の締結を協議する合理的な機会が
得られるまで、日本人は韓国の海峡での操業を自制するよう岸(信介)および日本政府に圧力を
かける用意があります。
李政権は、公海上で日本の船を拿捕し、人質外交を展開するのみならず、常に日本の領土と
みなされてきた竹島を、武力により、違法に占有しています。これは、韓国と日本の関係に
非常に深刻かつ長期的な刺激となるものであり、この日本の島が日本に返還されることなくしては、
日韓の根本的な和解はありえません。したがって、我々はまた、竹島を日本に返すよう、
新しい韓国政権に圧力をかける必要があります。
<3枚目終わりのほう>もし、日韓包括交渉に満足の行く結論が出るまで返還を行う意思がない場合、
新政権は、少なくとも、二国間の他の懸案事項の相互和解の一環として、竹島から撤退する意思を
表示すべきです。日本に竹島を返還するよう強く圧力をかける必要がある一方、仮に、新政権が
それに同意を渋る場合、我々は、
<4枚目和訳>最低限、国際司法裁判所に仲裁を求めて問題を提起することに同意するよう
主張すべきです。
最後に、我々は、外交上の任務や、ビジネスマンやジャーナリスト、商取引上の訪問といった
相互主義の観点から、日本との関係を調整するよう準備しなければならないことを新政権に
はっきりと通知する必要があります。日本人は、李氏の占領政策の被害を8年間にもわたって
被り続けており、李氏の後継者からそのような防ぎようのない取扱いを受け続けることは望むはずが
ありません。新政権は、自身の利益のために、通常の国際行為規範に準拠して始動すべきであり、
韓国大使館が日本で機能するのと同様の条件で、日本の外交使節団が韓国に入国し活動するのを
許可することなくしては、最も価値ある形(日本および他の自由世界の観点から)で始動する
ことはできないでしょう。
<4枚目最後のほう>今、我々が、新韓国政権と迅速に行動を共にするならば、彼らは、私どもの
助言に耳を傾けてくれやすいと思いますし、我々は、日韓問題に、我々の影響を与えるための、
二度と来ないかもしれない最初の機会を持っているのかもしれません。日本人はきっと、
日本に対し「新しい視点」を取る新韓国体制の方策を歓迎し、恩に報いてくれるものと思われます。
ダグラス・マッカーサー(2世)
新潟日赤センター爆破未遂事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E6%97%A5%E8%B5%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E7%88%86%E7%A0%B4%E6%9C%AA%E9%81%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6 新潟日赤センター爆破未遂事件(にいがたにっせきセンターばくはみすいじけん)とは、
中国地方各地における韓国工作員による密出入国と1959年12月4日に企てられた新潟県での暗殺・爆破テロ未遂事件。
事件の背景
金日成朝鮮戦争が膠着状態となり、1951年7月から休戦会談が開始されると、韓国大統領・李承晩は1952年1月18日
に李承晩ラインを宣言し、竹島を占拠するとともに対馬は韓国領であるとして日本に「返還」を要求するとともに
日本の漁民数千人を抑留し、第一大邦丸事件のような日本人殺害事件も引き起こした[2][3][4]。
1959年8月、カルカッタで日朝赤十字社間で帰還協定が締結。在日本大韓民国居留民団は
韓国政府の意向で北送反対闘争委員会を結成[16]。
1959年8月25日、在日本大韓民国居留民団員たちが日本赤十字本社に乱入[16]。
1959年12月14日、北朝鮮への帰国船の第一陣が出発する。北朝鮮へ帰国した朝鮮人には、
韓国政府による済州島4・3事件や麗水・順天事件などの虐殺を逃れて日本に密入国した韓国人などがいた[18]。
北韓送還阻止工作員の結成
危機感を募らせた韓国政府は日本に大量の工作員を送り込むことを決定した[19]。
1959年9月、韓国政府は日本に戻ることなく韓国に帰還したままであった在日義勇兵
(在日朝鮮人の韓国軍への志願者)たちに、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために
日本に潜入して妨害工作活動を行う工作員となるよう要請した[20]。韓国政府は在日義勇兵41人・
韓国軍予備役将校・韓国警察試験合格者24名からなる北韓送還阻止工作員を結成した[21][1]。
また、韓国政府が日本国内で組織した工作員も妨害活動を行うことになる[22]。
韓国工作員のテロ計画
在日朝鮮人帰国事業担当の日本側要員の暗殺[1]。
日本赤十字社の破壊[1]。
新潟港に通じる鉄道線路を破壊[1]。
韓国民団にKCIAの工作員を偽装入会させ、日本側の警戒を受けずに政財界へ浸透する。
新潟日赤センター爆破計画発覚
1959年12月4日、警視庁外事課は新潟県新発田市内のバーで密談を行っていた工作員2名に任意同行を求め、
新発田警察署で取り調べを行った。工作員の鞄の中からは雷管を装てんした4本組のダイナマイト3束の計12本
が発見され、爆発物取締罰則現行犯で逮捕された。さらに、新潟駅では工作員が駅に預けたガソリン1?缶4本を
隠したウィスキー箱が発見され、工作員たちは新潟日赤センターを爆破しようとしていたことが判明した[25][26][27][28]。
また、この工作事件は韓国代表部(領事館)の金永煥三等書記官と来日中の韓国特務機関の幹部が指揮をとって
いたことも明らかにされた[22]。この時逮捕された工作員は、日本国籍を取得した在日韓国人と在日義勇兵として
朝鮮戦争に参加した韓国治安局所属の在日朝鮮人である[22][5]。日本国籍を取得している在日韓国人は事件前
には、新聞記者と称して日本赤十字社本部の周辺に入り浸っており、日本赤十字社からは出入り禁止とされていた[5]。
事件発覚後、警察は次々と韓国の工作員を摘発した。この爆破未遂事件は日本社会に衝撃を与え、韓国政府や
在日大韓民国居留民団に対しての日本世論が硬化した[29]。