http://image.chos国連.com/sitedata/image/201208/25/2012082500193_0.jpg ▲日本軍大元帥ヒロヒト日王が1938年東京陸軍士官学校卒業式に白馬に乗って入るところ。
今月中旬、李明博(イ・ミョンバク)大統領の独島(ドクト、日本名:竹島)訪問と日王謝罪発言で日
本列島が沸きかえった。次期総理1位に選ばれる民主党、前原誠司政調会長は「テンノウ(天皇・
日王)は国家元首」と主張した。日本敗戦後、米占領当局の統治的必要により生き残った'天皇制'
という日本の保守化ないし極右化をあおる時限爆弾のような存在だ。
日本は終戦67年間、自分たちが戦争中犯した悪行について心から謝ったことがない。反面、ドイ
ツは第二次大戦敗戦後、戦犯の責任を徹底的に問うた。ドイツ指導者は機会があるたびに過去
の悪行について謝り、最近はナチ収容所で雑事をした人の子孫までこの謝罪の列に加わった。
来る29日は日帝が韓国を強制併合した庚戌国辱102年目になる日だ。日王の戦争責任を探りな
がら同じ戦犯国家の日本がドイツと異なる道を歩くことになった過程を糾明してみる。
「朕は米国および英国に対し戦争を宣言する。朕の陸海軍将兵は全力を尽くして交戦に臨み…。」
1941年12月8日ヒロヒト(裕仁)日王は開戦の詔勅を出した。植民地朝鮮には徴兵と徴用、日本軍
慰安婦の出現を知らせ、数千万人のアジア人を死に追いやった太平洋戦争開戦の詔勅だった。
ヒロヒト日王は1975年のインタビューで「戦争開始時はすでに閣議で決定が下された状態であり
私はその決定をひっくり返せなかった。これは日本憲法の条項に合致すると信じる」「戦争終結当
時、私は自らの意志により決めた」と話した。太平洋戦争の責任は否認しながら、戦争を終わらせ
た平和主義者として振る舞ったのだ。
だが、ヒロヒト日王は明治憲法により軍統帥権者を行使する大元帥(11条)であり、代行の補助を
受けて権力を行使する最高権力者(55条)であった。宣戦布告もまた、憲法上日王に属した権限だ
った。海軍侍従武官、城英一郎は開戦詔勅を発表し真珠湾を攻撃したこの日、ヒロヒト日王の日
程を時間単位で整理した日記の最後にこのように書いた。「今日一日中、海軍服姿でほほえましく
拝謁を受けられる。」
太平洋戦争当時、引きずられて行った日本軍慰安婦ら。日本は最近、歴史教科書で日本軍慰安
婦関連内容を削除している。戦争を終わらせた平和主義者ヒロヒトのイメージも事実と違う。敗色
が濃厚だった1945年2月14日、ヒロヒトは戦争終結のために直接乗り出すことを建言した近衛
文麿前総理の提案を「(戦争終結は)もう一度戦果を上げた後でなければなかなか話しにくい」とし
て拒否した。ヒロヒトは同日「この戦争は最善を尽くせば勝てると信じるが、その時まで国民がこの
ように持ちこたえてくれるのか、それが心配だ」と話したという。
(続きは
>>2-5のあたり)
キム・キチョル記者
ソース:朝鮮日報(韓国語)[土曜問題]庚戌国辱(1910年8月29一日の韓国強制併合)102年…日本はなぜドイツとは他の国
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2012/08/25/2012082500198.html 前スレ:
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1345869368/ ★1の立った時間:2012/08/25(土) 13:36:08.90
>>1の続き
ヒロヒト日王は1931年9月中国侵略の序幕を開いた満州事変からも自由ではない。内閣の同意
なしに軍事行動に出た関東軍を制止するどころか、「今回は仕方ないがこれから注意しなさい」と
だけ言った。ヒロヒトは翌月、要衝地の遼寧省、錦州爆撃を裁可した。第一次大戦後、初めて実施
された都市爆撃だった。ヒロヒトに仕えた奈良侍従武官長はヒロヒトが「錦州付近で張学良軍が再
組織される場合、事件が大きくなるのは仕方ないか?ひょっとして必要なら私は事件が拡大する
のに同意できる」と話したと記録した。
進んでヒロヒト日王が中日戦争と太平洋戦争の捕虜虐待と毒ガス使用に対する責任があるという
主張も出ている。ヒロヒト評伝(邦題:昭和天皇)でピューリッツァ賞を受けたハーバート・ビックス教
授はヒロヒトが日本が1929年、戦争捕虜虐待を禁止したジュネーブ協約に調印したことを知りな
がらも大量虐殺と捕虜虐待を防止するよう軍に命令を下さなかったといった。
ヒロヒト日王は1937年9月11日付で参謀総長を通じて化学兵器特殊部隊を上海に配置する命
令を下した。1938年に入るとすぐに中国とモンゴル主要戦闘地域で大規模に毒ガスが使われた。
ハーバート・ビックスは「毒ガスは中日戦争期間ずっとヒロヒト・大本営・統帥部が徹底的に管理し
た武器」として「通常、日王の裁可が下された後、参謀総長指示が発令されて大本営陸軍部を通
じて現地軍に送られた」とした。
以上。