【東京】「在日60万人の戦後たどる」〜新宿・高麗博物館で企画展[05/04]
承前。「三国人」という言葉の歴史的事実と時代の背景を検証しておきたい。この言葉は、
使われはじめたころのニュアンスとしては、軽蔑(べつ)や嘲(ちよう)笑でなく、畏怖や敬遠
に近い。むしろ恐怖の対象であった▼「三国人」は敗戦後の一時期、日本に居住していた
朝鮮半島や台湾出身者をさす俗称で、約九十万人の朝鮮人と約四万人の中国人をいう。
二十年十一月三日、占領軍総司令部はこの人たちを「解放国民」と指定した。それは「治外
法権」と同義語だった▼解放国民は肩で風を切る勢いで街を行く特権階級だったのである。
東京焼け跡ヤミ市を記録する会編『東京闇市興亡史』(草風社、昭和五十五年)によると「彼
らは民族的団結心を結集しつつ、都有地や公有地を占拠し“解放区”を形成した」▼どぶろく、
カストリ、ばくだんなどの密造酒を造り、進駐軍物資の闇市を設けたが警察も全く歯が立た
ず、ヤクザやテキヤを結集して対抗させた。「警視庁年表」をひらこう。二十一年一月、朝鮮
人二十人が富坂署を襲撃し、留置中の朝鮮人を奪還した。同年七月、台湾人百五十人が
渋谷署を襲い、巡査部長が殉職した▼同じ年の十二月には朝鮮人二千人の首相官邸乱入
事件というのも記録されている。だからといって、外国人だけが悪かったのではないのはも
ちろんである。社会全体が混乱と騒擾(そうじよう)のただなかにあった。それは敗戦日本の責
任なのだった▼重ねて書くが「三国人」という言葉は現代では“死語”であって、使うべきで
はない。しかしそれが生まれた時代の背景には、そんな昭和史の一ページがあったことは
忘れたくない。関東大震災などを引き合いに出すのは筋が違うのである。
――「産經抄」、産經新聞4月15日付朝刊。
●昭和21年12月20日首相官邸乱入事件
昭和21年になると、在日朝洋人らが「生活権擁護委員会」を結成し、生活物資の”優先”配給を要求して、
全国各地で関係機関に対する波状的集団筋争をはじめた。そして12月20日には、全国からー万人を東京に集め、
皇居前広場で全国大会を開催した。名目は在日朝鮮人の生活権擁護だが、「吉田内閣は日本の敵だ」といった
プラカ−ドでも明らかなように、倒閣運動にも鉾先を向けて気勢をあげた。大会は午後一時ごろ閉会したが、
一行のうち約二千人は朝鮮民主青年同盟荒川支部を先頭に、デモ行進に移り、首相官邸付近で突然、
警戒線を突破し、邸内に乱入した。彼らはプラカードをふるって警戒員に襲いかかり、投石し、手のつけられない
状態となった。米軍憲兵隊の協力でようやく邸外に押し出したが、この騒ぎで警官二十三人が負傷、けん銃二丁
が奪われた。この事件で警視庁は十名を逮捕し、米軍東京憲兵司令部に身柄を引き渡した。同米軍憲兵司令部は
「右の十名は約一万人の群集とともに暴動を起こし、暴力と武器を持って、非合法または暴動的行動をした。
そして狂暴かつ激烈な方法によって混乱を起こし、日本政府の財産たる首相官邸に侵入して警視庁警察官を
襲撃して、麹町区民を恐怖と混乱の中に陥れたことは占領目的の違反行為である」として起訴し、第8軍の
軍事裁判に付し、同年12月26日、朝鮮人生活権擁護委員会李委員長ら全員に、重労働五年などの刑を言い渡した。
ttp://81.xmbs.jp/piroshigogo-222215-ch.php?guid=on
GHQ公文書記録1947年〜50年間だけでも約4600人もの日本人殺害
■ 終戦後 「朝鮮進駐軍」部隊と名乗る武装集団が各地に出現 B
通りすがりの市民に言いがかりをつけ、目が合えば気にいらないと言っては集団暴行、
飲食店に入っては無銭飲食などは当たり前、また白昼に目に付いた婦女子を路上で
集団強姦など日常茶飯事に繰り返される戦後があった。
バスや電車列車では駅員を殴り倒して乗り込み、乗客を殴り金品や荷物を奪い取るなど
やりたい放題だった。 日本の丸腰警察をいいことに、白昼堂々と警官狩と称す「殺し」も
全国で多発した。武装した「朝鮮進駐軍」が日本の警察署を襲撃する事件が全国各地で
多発していた。彼らは、当時米軍と同じ外国人扱いで、国内の治安法律等は外人の彼ら
には一切及ばなかった。日本人を殺しても一切罪にならなかった。この間に一万人以上の
日本人市民が殺害されてたと見られている。GHQの記録として残っている分だけでも四千
人以上の日本人が殺害されている。
やりたい放題で日本人支配が進み、「朝鮮進駐軍」による軍事行動が起きた。日本政府
乗っ取りクーデターが、1946年の「首相官邸暴動事件」。約2000人の武装した「朝鮮進
駐軍」が「戦勝国民」の権利を掲げ首相官邸に突撃、「朝鮮進駐軍」は日本の警官隊や米
軍憲兵隊との銃撃戦となった。
この日本全土で暴れまくる「朝鮮進駐軍」の襲撃殺人は、工場施設や企業、官庁の破壊
活動と次第に共産軍化し、ついに米軍施設も襲撃されたことから、最高司令官ダグラス・
マッカサー元帥が、米軍第八軍団に重装備させ日本各地の「朝鮮進駐軍」武装集団の鎮
圧に動き制圧し彼らを解体し終った。しかし、この人殺し朝鮮人達は処罰を受けることなく、
今ものうのうと日本で暮らしている。
★☆★『在日の「自分たちの物語」終戦後に横暴の限りを尽くした“朝鮮進駐軍”の非道』★☆★
在日朝鮮人は日本と戦争をした事実は無いにもかかわらず、
終戦と同時に『朝鮮進駐軍』を自称し、日本各地において婦女暴行、暴行、略奪、
警察署の襲撃、土地・建物の不法占拠、鉄道の不法乗車等、横暴の限りを尽くした。
戦後の在日朝鮮人は、なんの国際法上の地位もないにも関わらず、
勝手に自分たちを「戦勝国民である朝鮮進駐軍」であると詐称し、
三万人もの武装集団となって全国主要都市に出現し暴れまくった。
在日朝鮮人集団は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し、
勝手に「朝鮮進駐軍」と名乗り、無差別に多くの日本人市民を殺害した。
GHQの 記録に残っているだけでも四千人以上の殺害記録が残されている。
戦後の治安が整っていない空白を良いことに、「朝鮮進駐軍」と名乗った在日朝鮮人は、
土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くした。
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「朝鮮進駐軍」と名乗る暴徒たちは、個々に部隊名を名乗り、各地で縄張りを作り暴れた。
これら「朝鮮進駐軍」 元締め組織が「朝鮮総連」、“ヤクザ”などになっていった。
国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。
そしてそのまま、パチンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、
そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。
農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、食料や商品を根こそぎ奪って行き、
それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成したのは彼らであった。
http://nezu621.blog7.fc2☆.com/blog-entry-748.html (☆←トル)
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で集団で
婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。こういった不良分子(朝鮮人)は
旧陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に巻きつけ、
肩で風を切って町をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげたかれらの
略奪、暴行には目にあまるものがあった。警官が駆けつけてきても手も足も出ない。「俺たちは戦勝国民だ。
敗戦国の日本人が何をいうか」警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
「田岡組長が神戸の静かな住宅街を歩いていると、小さな子供が一人で歩いてきた。
不審に思ってその子供に問いかけるとこどもは向こうの方を指差した。
そこには、その子供の若い母親が三人の朝鮮人に強姦 されていた。
田岡組長が助に行くとその朝鮮人が向かって来たが、
二人の眼球をえぐると一人は腰を抜かして逃げていった。
しかし、その若い母親は気が狂っていた。上品な顔立ちの美しい女性だった」
山口組三代目 飯干晃一 著 より
戦後、朝鮮人がやっていたこと 「田岡一雄自伝」より
ttp://www.tamanegiya.com/tyousennjinntohann19.11.26.html <昭和二〇年八月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。人通りもすくない東山病院の
裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の、三国人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。女は狂ったように絶叫していた。
<汚ねえ・・・・>
うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。>
●在日朝鮮人はどのようにして日本に来たか?
朝鮮半島の南に浮かぶ火山島・済州島で1948年4月3日、
米軍政下で南朝鮮での単独選挙に反対した共産主義の島民が武装蜂起したことを
きっかけに、軍、警察などによる一連の島民虐殺事件が起きた。
いわゆる「済州島4.3事件」の勃発である。
朝鮮民族同士で殺しあった「4.3」事件の際、
「3万人から6万人の一般人を巻き込んだ島民が虐殺され、
4万人以上が日本に密入国して逃れたという」
(米国公文書の秘密文書を調査したブルース・カミングス・シカゴ大学教授)
◆「密航4ルートの動態 日韓結ぶ海の裏街道 潜入はお茶のこ 捕わる者僅か2割」
朝鮮南北戦争の拡大によって憂慮されることは、南鮮避難民の日本への殺到だ。終戦以来、“悩みのタネ”
となっているこの密入国は、今次の戦乱で明日にでも、どっと押寄せてくる危険がある。
(略
これら4ルートを通じて終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、
在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているとさえいわれる。
昭和25年(1950年)6月28日(水)付産経新聞朝刊
ttp://www.clash-j.net/memo/korea06.html ■「コリアン世界の旅」(講談社)より抜粋
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済州島出身の在日韓国人から、こんな話を聞いたことがある。
「朝鮮の地域差別は、日本人にはちょっとわからないと思うくらいひどいんですよ。
『陸地』でも慶尚道の人間は全羅道の人間を差別するけれど、それは『人間として』差別するんでね。
慶尚道の人間も全羅道の人間も、済州島の人間を人間扱いしなかった。
牛や豚の同類として差別したんです。
済州島ではむかし人糞をえさにして豚を飼っていたから、僕らは『くそブタ』と呼ばれていたんですよ」
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済州島
歴史的経緯から地域差別が酷く、1948年4月3日に起った済州島四・三事件では、
少なくても死亡者3万人にのぼり、それから逃れる為に、自ら日本に渡って来た
在日コリアンが居るが、その人々は、現在において、その事を隠すために、
「日本に強制連行されて来た」と偽る者も多い。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%B7%9E%E5%B3%B6
● 過 去 に 悪 用 さ れ た 例 1954年(昭和29年)
(韓国併合1910年〜期間35年、終戦は1945年8月15日、韓国建国1948年8月13日・北朝鮮建国1948年9月9日、
朝鮮戦争勃発1950年6月〜)
一時期 小さい子は気の毒だからと認めた結果、あっちを認めたならこっちも認めろと、
前例に使われ集団密航が急に増えたそうです。
●議事録より引用
昭和二十九年 衆議院会議録情報
第019回国会 法務委員会 第4号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/019/0488/01902030488004c.html (朝鮮人の)小さい子供は気の毒だからいい、あるいは夫婦であればどつちか
一人はひとつ認めてやろうということになりますと、一時そういう時期があつた、
お話のような基準で一時やつたことがございました。
その際に結果として現われましたことは、女と子供の集団密航が急にふえた、
それはあれが許されたから、おれも許さるべきであるということで、一つの標準が
与えられますと、それを上手に使つて入つて来るということが往々にしてございますので、
実はその点につきましてはわれわれとしては非常に苦しんだのでございます。
第23号 昭和30年6月18日
第022回国会 法務委員会 第23号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/022/0488/02206180488023a.html それで私は少し素朴かもしれませんけれども、今六十万の朝鮮の方々がいる。そしてその方々が日本の
失業状態のあおりを食って、なかなか仕事が得られない。仕事が得られないために犯罪をたくさん犯す。
これは私憎みたくないけれども、いろいろの新聞その他に出ております犯罪にとても朝鮮の人が多い。
一体そういう状態にほうっておいていいか。私ども日本人としても因るし、
あの方々も、自分の民族の間に帰ればあれだけ思い切った犯罪はないと私は信じております。
というのは自分たちの婦人と自分たちの子供には非常に親切で、そして絶対に
手をつけない。異民族である日本人にこれが襲いかかっているという傾向が明らかなのです。
日本に住まいたい者を住まわせて、韓国に帰りたい者は返す、こういうふうに参りますと事は最も簡単で、
いろいろの難問題が漸次解決をするのでありますが、問題はそう簡単でなく、極端かもしれませんけれども、
六十万と推計をせられる朝鮮人のうち、日本から母国に帰りたいという者は一人もいないといっても大した
言い過ぎではない。一方向うからは、入れれば、それこそ手段方法を選ばず、命がけでも密航をして、
方法さえつけば怒濤のごとくどんどん入ってくる。そしてこちらから強制送還をしようといたしましても、
韓国の政府がこれを容易に受け付けないというところに、人道問題だけでは解決しない大きな国と国との
外交問題と申しますか、もう入国管理局だけでは手に負えない大きな外交問題となってここに横たわっておるのは、
私が申し上げるまでもなく、御理解をいただいておると思うのであります。ですから、要するに、こちらは国際的な
いわゆる紳士としての態度をもって韓国に接しましても、韓国の方は、紳士的でないとは申しませんが、
御承知の通り李承晩ライン、その他漁船の拿捕の問題、こちらから、密航した者を密航したという確証をあげて
韓国に申し入れましても、その送還を容易に受け付けない、こちらは向うから出てきた者を受け入れっぱなし、
不法入国であろうが何であろうが、返すことができないで、大村収容所にはますます人員がふえていく、
それをみな国費で、国民の血税で養ってやらなければならない、その取扱いについても、きわめて懇切丁寧に
しなければ、人権じゅうりんというような問題まで起きてくる。これを大まかに考えますと、一体日本のために
やらなければならないのか、日本国民の血税の犠牲において、韓国人をまず第一義として大事にしてあげなければ
ならないかというようなところまで、考え方によっては行く問題であると私は思うのであります。
最近において法務大臣も申し上げました通り、何とかこの問題を根本的に解決しなければならないと思います。
私が政務次官に就任をいたしましてからも、一、二の有力な韓国人の団体の長の方で、私に、密入国者を
送還するとかしないとかは問題ではなくて、六十万人という朝鮮人が日本に在留して現存しているというこの現実
に立って、在留朝鮮人の問題やこれから入ってくる人々の問題について、出入国管理令というようなこまかい規則
を越えた根本的な対策を政府は立てる必要があるではないかというようなことで、非常に傾聴すべき御意見を
言ってこられた人もございます。