【チャイナネット】日本人の「南京大虐殺」に対する認識(1) 東京審判での日本側弁護士は歴史の真相を分かっていた[03/04]

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236<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
【レコチャ広場】中国人が南京大虐殺をどう歪曲しているのか、とくと見てみよう―中国[03/03]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1330752569/
2012年3月2日、中国のジャーナリスト、王錦思(ワン・ジンスー)氏は「中国人が南京大虐殺をどのように歪曲しているのか、
とくと見てみよう」と題した記事を中国のブログサイトに掲載した。以下はその内容。


河村たかし名古屋市長が堂々と「南京事件はなかったのではないか」と発言し、中国各界から怒りと抗議が噴出している。
だが、実は中国人自らが南京大虐殺を歪曲していることは、ずっと見過ごされてきた。
まずはこうしたやり方を直さなければ、われわれが日本人を責め立てることはできない。

新中国成立後、最初に南京に建てられたのは、蒋介石に処刑された20万人の共産党員を祀る「雨花台烈士記念館」だ。
南京大虐殺記念館が建てられるのは、その30年後になる。いわゆる「文化大革命」の時代には
国民党に虐殺された革命烈士への追悼がブームだった。

当時、中国人は広島の原爆犠牲者に祈りを捧げに行ったが、誰も南京大虐殺の犠牲者を弔おうとはしなかった。
紅衛兵は「南京大虐殺は『国民党を殺した』もの」だと言い、遺跡を破壊し尽くした。学術界でも、南京大虐殺の研究はタブーだった。
そんな中、立ち上がったのが南京大学歴史学部の高興祖(ガオ・シンズー)教授だ。

1972年、鈴木明氏が「『南京大虐殺』のまぼろし」などの文章を発表。1982年6月、文部省が教科書の記述を改めさせる。
これに刺激を受け、中国の学者たちがようやく南京大虐殺研究を正式に申し出た。
1983年、南京大虐殺記念館の建設案が浮上、1985年に完成。

だが、初期の研究は民族感情が入り込み過ぎていて、とても研究と呼べるものではなく、
「民衆に偏った歴史観を植え付けることになる」と警鐘を鳴らす学者もいた。2007年、台湾の教科書から「南京大虐殺」の文字が消える。

中国人は、侵略行為を否定する日本に対し、常に感情論で反撃してきた。
例えば、日本人が犠牲者の数を30万ではなく20万ではないかと問えば、「30万より少なければ、虐殺がなかったというのか?」
「1人でも殺していれば殺人だ」などと巧妙に回答をはぐらかす。

だが、戦後間もないころ、日本の戦犯の公判でレイプされた女性が出廷した時には傍聴席から笑い声さえ聞こえてきた。
南京大虐殺をテーマにした映画を放映した時には観客から「看護士がレイプされるシーンが短すぎる、肌の露出も少ない」と苦情が上がったほどだ。

(以下略
237<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2012/03/05(月) 04:16:56.53 ID:9VPjvGPu
19 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2012/03/03(土) 14:45:56.10 ID:BnrPHqPB
中国史から見た「南京大虐殺」は、実に凄まじいもので、東晋時代の王敦によるもの以来、南京大虐殺は王朝交代や内訌、内乱のたびに発生し、
多くの城民が殺されてきた。就中、南朝時代の宋のときは、皇族間の殺し合いだったため、皇族一族は断絶した。
梁の時代の候景による南京大虐殺は史上最多の死者を出し、日本軍の「百万虐殺」説は、これのコピーではないかとも思われる。
南朝の中で、官軍王僧弁軍の南京への逆襲やら、隋の陳王朝攻滅の大虐殺も有名だ。隋以降、南京城は一事廃城にもなった。
 その後も「南京大虐殺」は続き、十九世紀にも、太平天国の乱における曹国センの大虐殺、二十世紀に入ってからは、
辛亥革命直後に張勲による大虐殺が起こった。曹国センの大虐殺当時、天京(南京)から財宝を搬出する車列は延々三ヶ月間も続いたと
、趙烈文の『能静居士日記』に記録されている。
 このように「南京大虐殺」は、中国で騒乱があるたびに欠かせない、いわば中国史の恒例行事のようなもので、もちろん大虐殺は、南京だけにとどまらず、
長安、洛陽、開封、北京、揚州といった都市でも、歴代王朝の交替、変動のたびに行われていることは、『史記』をはじめとする「二十五史」など、
この国の正史がはっきりと記録するところだ。
 つまり中国の史例をモデルに創作されたのが、日本軍による「南京大虐殺」であるというのが、私が中国史研究を通じて得た結論である。
 もちろんこれまで上梓された、優れた「南京大虐殺研究」からも、少なからざる教えを受けてきたが、今回私は松尾一郎氏の『プロパガンダ戦「南京事件」』のゲラを読み、
これが真相の解明に対し、実に多くの示唆に富む研究成果であることを知った。またことにニセ写真の分析に精力的に取り組むなど、事件究明の上で実に核心をついている。
 本書の上梓によって「南京大虐殺」の嘘の解明がさらに進むことを期待するとともに、これがより多くの人に読まれ、歴史の真実が広く伝えられることを願ってやまない。
プロパガンダ戦「南京事件」 秘録写真で見る「南京大虐殺」の真実
平成十六年一月二十一日 光人社
238<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2012/03/05(月) 04:17:29.11 ID:9VPjvGPu
22 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2012/03/03(土) 14:48:40.10 ID:BnrPHqPB
黄 文雄 氏
・中国はその「国のかたち」といい、国家原理といい、近代国家とはとてもいえない人治の国。
・「馬上天下を取る」「銃口から政権が生れる」との古来の易姓革命が、今でも基本原理。
●日本に求める「歴史認識」とは、明治維新から第二次大戦終結までの日本の歴史に関するものだが、同時期に日中戦争以上の犠牲と破壊をもたらした国内の軍閥内戦や国民党内戦、国共内戦についての反省などまったく度外視している。
 さらに人民共和国成立後のチベット侵略や三反五反運動、反右派闘争、大躍進、そして文化大革命などの「社会主義建設」が引き起こした政治闘争、戦乱、自然災害によって5千万〜7千万とも推定される犠牲者を出したという血に塗られた歴史についても、
敢えて正視を避けている。
●日本人は、元寇の戦いでも元側の戦死者のために慰霊塔を建立し、豊臣秀吉の朝鮮出兵でも朝鮮戦役兵士の慰霊塔をたて、従軍僧侶が読経をあげている。敵軍の慰霊塔なら日露戦争でも建てられたし、シナ事変でも大東亜戦争でも、
戦死した敵兵の供養は戦地のいたるところで行われていた。靖国神社でも明治天皇の「四海同胞」の精神が貫かれ、鎮霊社で世界平和に殉じた世界の人々が祀られている。こうした高潔な慰霊の心は、中国人の伝統文化には見られない。
●中国の反靖国政策を励ましているのが、これら売国勢力である。このようにして見れば、左翼思想の問題は、戦後日本人の道徳、品性の問題であることがわかる。靖国神社という高潔な魂の結晶は、
いまや国内外の邪悪なる勢力に汚されようとしているのである。靖国神社の問題は宗教論、学術論、外交論より、まずは『人としての道徳論』から論議すべきだ。



27 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2012/03/03(土) 14:53:13.66 ID:BnrPHqPB
昭和41年9月に岸信介元首相の名代として5名の日本人台湾使節団が訪台し、蒋介石と面談している。そして面談の最、その5名の中の一人である田中正明氏が松井大将の秘書であったことを思い出した蒋介石は、田中氏の手を堅く握り締めて涙を流しながら

「南京に虐殺などなかった。松井閣下にはまことに申し訳ないことをした」

と告白している。この蒋介石の涙の謝罪は、日本人訪台団、通訳、蒋介石の側近らが全員耳にした歴然なる事実であり、南京事件なるものは一切存在しなかったことを当事者が認めた貴重な証言である(72頁)。

『日本人の知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』深田匠著 高木書房
239<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2012/03/05(月) 04:17:52.35 ID:9VPjvGPu
29 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2012/03/03(土) 14:54:16.33 ID:BnrPHqPB
中国が答えることが出来ない胡錦濤国家主席閣下への公開質問状
http://melma.com/backnumber_45206_5500369/

一、故毛沢東党主席は生涯にただの一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした。

二、南京戦直前の1937年11月に、国共合作下の国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。
しかし、この300回の記者会見においてただの一度として「南京で市民虐殺があった」
「捕虜の不法殺害があった」と述べていないという事実について閣下はどのようにお考えになられますか。
もし本当に大虐殺が行なわれたとしたら、極めて不自然で不可解なことではないでしょうか?

三、南京安全区に集中した南京市民の面倒を見た国際委員会の活動記録が『Documents of the Nanking Safety Zone』として
国民政府国際問題研究所の監修により、1939年に上海の英国系出版社から刊行されています。
それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前20万人、その後ずっと20万人、占領1ヵ月後の1月には25万人と記録されています。
この記録からすると30万虐殺など、到底ありえないとしか考えられませんが、閣下はいかがお考えでしょうか?

四、さらに『Documents of the Nanking Safety Zone』には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されておりますが
殺人はあわせて26件、しかも目撃されたものは1件のみです。その1件は合法殺害と注記されています。
この記録と30万虐殺という貴国の主張とは、到底両立し得ないと考えますが、閣下はいかが思われますか?

五、南京虐殺の「証拠」であるとする写真が南京の屠殺記念館を始め、多くの展示館、書籍などに掲載されています。
しかし、その後の科学的な研究 (『南京事件の「証拠写真」を検証する』(東中野他・草思社)など) によって
ただの1点も南京虐殺を証明する写真は存在しないことが明らかとなっております。
もし、虐殺を証明する写真が存在しているのでしたら、是非ご提示いただきたいと思います。そのうえで検証させていただきたいと思います
240<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2012/03/05(月) 04:18:08.97 ID:9VPjvGPu
32 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[] 投稿日:2012/03/03(土) 14:57:19.26 ID:BnrPHqPB
中国史から見た「南京大虐殺」は、実に凄まじいもので、東晋時代の王敦によるもの以来、南京大虐殺は王朝交代や内訌、内乱のたびに発生
1947年 人民解放軍 南京へ侵攻 ”南京大殺戮”起こる。国民党台湾へ退避
1949年 中華人民共和国成立、同年中国はウイグルを侵略
1950年 中国”義勇軍”48万が朝鮮戦争に参戦し国連軍を攻撃 (正規軍である。停戦まで北朝鮮と合わせて100万の損害を被った)
1951年 中国がチベットに侵略し現地民数百万人を虐殺
1958年 大躍進政策始まる。2年間で2000万人が餓死または失脚死 
1959年 中国がインドと国境紛争、カシミール地方を占領
1960年 文化大革命始まる・中国国内外で以降粛清・民族浄化及び餓死で6500万人以上が死亡
1964年 東京オリンピック開催中の10月中国はウイグルで初の原爆実験を行う
1969年 珍宝島で中国軍がソビエト軍と衝突 事実上国交断絶
1972年 日中国交樹立  (新しいパトロン
1978年 米中国交樹立  (新しいパトロン
1979年 中越戦争 ベトナムを武力侵略。懲罰戦争と表明
1989年 天安門にて発生した学生による民主化運動を軍隊で強行鎮圧し死者300人以上
米国との武器共同開発停止。武器禁輸制裁発動
1992年 資源埋蔵に目が眩み、南沙諸島と西沙諸島の領有を宣言
1995年 フィリピンの領有してきたミスチーフ環礁を占領
1996年 台湾海峡でミサイル発射し台湾を恫喝
1997年 フィリピンが歴史的に領有してきたスカーボロ環礁に領有権を主張
  同年 日本が固有の領土として主張してきた尖閣諸島の領有を主張
2000年 中国の軍艦が日本列島を一周。中国が尖閣諸島付近で日本の領海内の海底油田調査を敢行
2004年 沖ノ鳥島は岩であり日本の領海とは認めないと主張
  同年 中国の原子力潜水艦が石垣島の日本の領海を侵犯
2005年 反分裂国家法を制定し台湾に対して武力行使を明言
  同年 日本の資源盗掘を開始
  同年 低民度集団の暴動により、在中日本大使館が破壊
  同年 台湾問題に介入するなら核攻撃を行うとアメリカを恫喝
  同年 アメリカが中国の巨大軍事国家化を指摘
  同年 沖縄の日本帰属に疑問を示し沖縄は歴史的に中国のものと主張
 同年国内暴動発生8万6千(平均15人)失業農民4000万人、腐敗官僚処刑5000国外逃走3万