ハンナラ党が韓米自由貿易協定(FTA)を突然批准すると民主労働党キム・ソンドン議員が国会本
会議場で催涙弾を爆発させた。ハンナラ党と御用メディアは調子に乗って彼に「テロリスト」という
ラベルを貼った。催涙弾一つで韓米FTA批准を防げるとはキム議員自身も考えなかったろう。
それなら何の実益もないことを知りながら民主労働党(今は統合進歩党)に‘過激’なイメージを植
えつけたキム議員の行動は愚かだった。彼はやりすぎた。ところが彼が国会で行ったことは果た
してテロだろうか?その催涙弾のため涙を流した国会議員はいたが、ケガしたり死んだ議員はひ
とりもいなかった。もしその行為がテロならば、夜道を歩いた女性が路地であった痴漢の頬を叩い
てもテロであろう。実際、零下の天気で市民に水大砲を撃った警察の行為こそテロに近かった。
テロは本来、国家暴力と密接な関係にある。この言葉が広く使われ始めたのはフランス革命期に
ロベスピエールらが‘恐怖(=テロ)政治’を実践した後だ。今日、テロは政治的・軍事的弱者が大義
のために行使する暴力を主に示す。地球的次元で見れば、この頃のテロの主体はたいていイスラ
ム原理主義者などで、その対象は米国をはじめとする西側国家の政府機関や市民らだ。
2001年9・11事件がちょうどこの脈絡の代表的テロだ。そのようなテロは当然批判されなければな
らず、その主謀者ビン・ラディンが隠れて生きたアフガニスタンだけでなく、そのテロと何の関連が
ないイラクもその何百倍もの代価を支払った。
ところがすべてのテロは悪だろうか?テロという言葉が否定的ニュアンスを持ちテロの主体、すな
わちテロリストや彼を支持する人々もこの言葉を好まない。例えば伊藤博文を暗殺した安重根(ア
ン・ジュングン)をテロリストと呼べば、韓国人は大きな拒否感を示す。ところが、アン・ジュングン
がテロリストでなければなんであろうか?自由の闘士?そうだ。安重根は自由の闘士であった。そ
の一方、彼は民族の自由のためにテロという手段を使ったテロリストでもあった。
「片方のテロリストは他方の自由闘士」という格言がある。この格言もやはり‘テロリスト’という言
葉の否定的意味を前提にする。しかし‘テロ’や‘テロリスト’という言葉自体を価値中立的に受け
入れることもできる。アルベール・カミュはある戯曲で帝政ロシアの暴政に反してツァー政権の‘人
間屠殺者’を殺害したテロリストを‘正しい人々’と呼んだ。テロリストはお金を目的にする‘キラー’
や‘ヒットマン’でない。職業的‘キラー’は大金を儲けようと人を殺すが、‘テロリスト’は民族や民
衆の解放または、どんな理念の実現に献身しようと人を殺す。
もちろん大義の実現が目的でもすべてのテロが容認されるわけではない。例えば9・11事件のよ
うに一般市民を無差別に殺害するテロは容認できない。しかし、ここにも一線をひくことの困難が
作用する。米国の軍事主義・帝国主義政策は米国市民の同意と黙認の下なされているからだ。
戦争行為、すなわち軍事的侵略こそ最も残酷で巨大なテロだ。
安重根のテロは対象が明確だった。一部論者らは伊藤が朝鮮侵略と併合問題で穏健派であった
とし、彼を殺したのは賢くなかったと主張するが、伊藤が殺害されなかったとしても日本は朝鮮併
合をあきらめそうになかった。その上、安重根は東アジア平和を成し遂げるための方策を構想した
知識人テロリストであった。彼が伊藤に行ったテロは平和主義・反植民主義という普遍的大義次
元でも正当なことであったし、特に当時の朝鮮人の立場から見ればより一層正当なことだった。
安重根を‘テロリスト’と呼ぼうが‘自由の闘士’と呼ぼうが、彼はカミュ戯曲の主人公らのように
‘正しい人’だった。もしも10万ウォンの紙幣が出きれば、私は彼の肖像がそこ刷り込まれるよう
願う。この国の貨幣はすべて李氏一族の人々(申師任堂を含む)で満たされている。私たちの境遇
では侵略の元凶である伊藤博文も一時、日本の円紙幣の肖像になったというのに、安重根義士
の肖像を韓国ウォン紙幣に入れない理由は何か?
http://www.sisainlive.com/news/photo/201112/11910_24642_196.jpg コ・ジョンソク(ジャーナリスト)
ソース:時事IN(韓国語) ‘テロリスト’アン・ジュングンのために
http://www.sisainlive.com/news/articleView.html?idxno=11910