【書籍】 小さな疑惑でも「水拷問…裸にして…」〜日帝下の生活描くヒルディ・カン著「黒い傘の下で」[07/24]
1 :
蚯蚓φ ★:
http://www.mediatoday.co.kr/news/photo/201107/96505_84983_311.jpg http://www.mediatoday.co.kr/news/photo/201107/96505_84984_3143.jpg 日帝植民地時期、私たちのおじいさんとおばあさんはどのように暮らしていたのだろうか。日帝時
代、満州と間島(カンド)の独立軍を捕えた間島特設隊に服務した親日派、白善Y(ペク・ソンヨプ)
氏が朝鮮戦争前後で韓国軍将軍として常勝疾走した事例は残酷な時代の私たちの歴史の悲劇
的屈折であり劇的な反転に過ぎない。実際、歴史の中に埋もれた数多くの私たちのおじいさんお
ばあさんたちの当時の人生は想像以上に苦痛だったが多様だった。共通的にいうならば数多くの
人々がとても小さい疑いでも日帝の監視と差別に苦しまなければならなかったという点だ。
カリフォルニア大バークレーおよびデービスキャンパスで招へい講師として活動中のヒルディ・カン
(Hildi Kang)氏が2001年発行した「黒い傘の下で」が11年ぶりに韓国語で翻訳出版された。ヒル
ディ・カンは米国サンフランシスコベイ地域に居住している51人の韓国人のインタビューを通じて
日帝強制占領下朝鮮人の人生の軌跡を追跡した。ここには彼らの解放後の行跡も含まれている。
故キム・チャンド(1911年平安北道出生)氏と夫人故イ・オクヒョン(1907年黄海道生)氏は日帝の厳
しい監視にもかかわらず、農村で民族運動を行った夫婦であった。ヒルディ・カンはサンフランシス
コで彼ら夫婦に会おうとしたがキム氏が病気で死亡しイ・オクヒョン氏だけインタビューした。
牧師の娘イ氏はウォンサン女学校で1930年3月光州学生運動(1929年11月)同調デモを行って
警察に捕まったことを覚えている。女子学生を受け入れる所がなくて警察本部まで引きずられて
行ったがそちらでも彼らはずっと万歳を叫んだという。彼らの両親が危険に思いながらも多くの関
心を見せたことに興味と面白みを感じていたとイ氏は回顧した。
そうするうちに会ったキム・チャンド氏。同じキリスト教の家の息子のキム氏は1926年水原コドン
農林学校に入学したが農村啓蒙運動に参加すると‘意地’を働かせた。その後キム氏は卒業予備
生だった頃、農夫らに一日中話しかけて‘歴史’、‘農業’、‘反日思想’を教えるなど農村運動に出
た。キム氏は1928年警察に逮捕され、農村運動の主導者級だったキム氏は多くの拷問にあった。
(中略)1990年になってキム氏は韓国政府から抗日活動に対する補償で勲章を受けた。
(中略
>>2-5のあたり)
この本にはこの他にもハム・ソコン先生を尊敬して秘密集会を共にし水拷問で裸で労役するよう
強制されたイ・ハジョン(1921年平南生)等多様な履歴の日帝下生活像が生き生きと記録されている。
当時大部分の朝鮮人は単に朝鮮人という理由だけで職場と日常で‘差別’と‘蔑視’を受けなけれ
ばならなかった。単に朝鮮人という理由だけで、朝鮮の語り口が残っているという理由で軽蔑され
て、左遷されなければならなかった彼らの‘記憶’が明確な‘記録’として残っている。
「生き残るために大部分の人々は迫害にあってもそうしようと思ったがそれは朝鮮人の情緒に非
常に大きな傷であった。」
ソース:メディアトゥデイ(韓国語) 小さい気配にも「水拷問…裸にして…」ヒルディ・カン'黒い傘下で'
http://www.mediatoday.co.kr/news/articleView.html?idxno=96505
2 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 12:34:50.00 ID:o8WFJopd
>>1の中略部分
故ホン・ウルス(1905年梁山生)氏の話は日帝下貧家出身の立志伝的人物の行路をよく見せる。
彼は貧困から脱っしようとして若い頃、日本に行った。彼はヤクザが運営する市場で‘さくら’商法
を習って金を儲け大学に進学した。一時、日本人共産主義グループに参加し1929年3・1運動10
周年記念式計画中に警察に捕まって投獄された。彼は共産主義を放棄(転向)すると監獄から解
放されて青山大学で教師資格証を取得して帰国した。
しかしすでに日帝の監視対象に上がった彼の帰国後の人生も順調ではなかった。ホン氏は培花
女子高等普通学校教師に就職したが、刑事の監視と教師職を止めろとの脅迫で結局止めるほか
なかった。ホン氏は釜山で日本に綿花を輸出する事業を始めた。彼は一方で‘三六会’という秘密
集会を作って啓蒙運動も併行した。
しかし彼の歯のような‘二重生活’は長くは続かなかった。事業が自ら根をおろしたが、事業関係
で親しくなった日本高等警察からブラックリストに自身も含まれているという話を聞いて彼はまもな
く自分の過去を誰も知らない田舎(慶北慶山))に行って農作業をした。田舎では珍しく朝日新聞を
購読して性能の良いラジオを持っていた彼はまもなく日本が崩壊することを予想できた。
以上。
真実:李氏朝鮮で行われた凄惨な拷問を朝鮮総督府が廃止しました
4 :
ヒンヌー教徒:2011/07/24(日) 12:36:50.31 ID:mJiXBd59
5 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 12:39:14.37 ID:s4i4SDNE
>>1 その割には受刑者には太るほどの豊富な食料が与えられていたそうだがwww
捏造作業乙
>>2 ヤクザの使いっパシリして大学行ったって…。
で、その後アカく成っちゃったなんて…。
クズじゃん。
8 :
国民は怒っています:2011/07/24(日) 12:39:57.44 ID:95XhaH00
9 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 12:40:33.19 ID:WC759np+
>>7 そうそう。
しかもすぐに転向してやがんの。
>彼はヤクザが運営する市場で‘さくら’商法を習って金を儲け大学に進学した。
…
>日本人共産主義グループに参加し1929年3・1運動10周年記念式計画中に警察に捕まって投獄された。
…なぁ
>ホン氏は培花女子高等普通学校教師に就職したが、刑事の監視と教師職を止めろとの脅迫で結局止めるほかなかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
…絶対朝鮮人の国技があったんだろうなぁ…
また一方的な証言だけか
韓国の法廷での偽証率とかちゃんと調べて研究しろよ
12 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 12:46:47.65 ID:z583Y5R5
朝鮮名のまま中将になった人、朝鮮人女性舞踏家、
朝鮮人映画監督とハングル文字広告、日帝時代の街並みの写真
暗黒の李氏朝鮮より解放されて発展の黄金期を迎えていた証拠は
いくらでも残っているのだが
基地外鮮人には見えないらしい。世界中が見て認めるのに。
朝鮮人ってだけじゃなく、朝鮮人の犯罪者だっただけじゃねえかw
>>13 韓国人から犯罪を引いたら何が残るって言うんだ
ヤクザの手口で金儲けして、共産主義者として捕まった朝鮮人が大学入って教師の資格とれるのかよw
日帝ちょろいなw
16 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 12:50:04.39 ID:p5Hi7sz5
日本の男は精子の薄い哀れなオカマだ。
韓国の男こそ本当のサムライ(勇者)だ。
韓国人男性の精子の味はマッコリの味、オカマだらけの日本人の男の精子
はトンスルの味。(大爆笑)
私の学校では韓流ブームの話題で持ちきりです。
結婚するなら韓国男性に限ると皆が言っています。
韓流ブームのおかげで解ったことは、韓国男性は
勇者のサムライで日本の男性は、臆病でブザマなオカマだということです。
韓国男性は徴兵制と愛国教育で愛する国と愛する女
の為に、命を捧げて戦う命知らずのサムライです。
日本の男性はジェンダーフリーと反日教育で、戦争になったら
女達を捨てて、自分だけ逃げ出すブザマなオカマです。
しかもオカマ化教育の徹底で精子の数も減少したんですよね。(笑)
女の本心は命がけで自分と子供達を守ってくれる韓国人サムライの
お嫁さんになって、優れた子孫を残したいと願うのです。
間違っても日本のオカマ達の負け犬劣根性だらけの、劣等種の子供を生みたいとは
思いませんよ。 (笑)
サムライや武士道は日本の文化でしたが、それは過去のことです。
日本は自ら戦後にサムライと愛国心を封印した結果。
今ではサムライや武士道や剣道は、韓国の文化と言えるようになりました。
放射能で汚染された日本のオカマの薄汚れた精子で子供を作ると、一つ目の赤ちゃんが
生まれるで。(大爆笑)
これからの日本にはグロテスクでブザマなオカマ文化と放射能汚染が残るだけ。(爆笑)
韓国人男性の濃い精子で子孫を残そう日本女性の会。
日本のオカマから日本女性を解放する女性の会。
世界に広めよう日本のオカマ文化。
平常運転
やっぱり今日も朝鮮人は朝鮮人だった
チョクトゥ・カンは反日捏造本までだしてたのか
>>1 ちゃんと翻訳したのか、あやしいw
Under the Black Umbrella: Voices from Colonial Korea, 1910-1945
Hildi Kang (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/0801472709/ カスタマーレビュー
5 人中、3人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 アメリカの韓国人の証言, 2003/2/26
By カスタマー
レビュー対象商品: Under the Black Umbrella: Voices from Colonial Korea, 1910-1945 (ハードカバー)
アメリカ在住のコリアンはだいたい帰化してアメリカ人になるようだが
そういうコリアン・アメリカンに取材して併合時代の体験談をまとめた本がアメリカで出版されている。
韓国国内や日本国内在日のものに比べて、遥かに平和で調和のある生活が証言されている。
Google Books で読める
英語が苦にならない人は読んでみてね
Under the black umbrella: voices from colonial Korea, 1910-1945 著者: Hildi Kang
http://books.google.co.jp/books?id=MBMBnWHZhIcC 日本語版はこちら
黒い傘の下で―日本植民地に生きた韓国人の声 [単行本]
ヒルディ カン (著), Hildi Kang (原著), 桑畑 優香 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4860201892/
ヒルディ菅www
>>1 すべて捏造だからな 嘘ツキ朝鮮人
死ねばイイのに。
24 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:00:56.71 ID:6lu29QSe
戦争してた国でも植民地支配されてた国でもここまで粘着してる国って朝鮮以外無いよな
25 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:02:37.01 ID:Q58a3jB4
韓国の教科書に採用だなwww
もっと、エロ要素が必用かもな
26 :
タカさん:2011/07/24(日) 13:02:46.47 ID:sY28cPQq
>>1 職場で差別されたという事は、普通に就職出来たんだなぁ。
28 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:05:44.80 ID:1N9ic1hc
逆恨みじゃねーか
朝 鮮 人 労 働 者 を 賞 賛 す る 当 時 の 新 聞
***************************************
1945 年1 月12 日 神戸新聞
生 産 へ こ の 特 攻 魂/(朝鮮)半 島 同 胞/ い ま ぢ や 職 場 の 大 黒 柱
粘 り と 純 情 で 明 朗 敢 闘 ご 奉 公/ 配 置 の 競 願
川 崎 重 工 業
共に米英を撃とう、航空兵として、また設備隊員として前線に奮戦している半島同胞は
兵庫県下の軍需工場に在っても半島生産特攻隊員となって生産増強に涙ぐましく敢闘を続けている、
温情の寮長に続きまた親子、兄弟が生産現場に挺身し、さらに職場においては
「一日も早く重要作業に配置して下さい」と嘆願するなど生産戦場に内地と同胞と一体となり
逞しい増産意欲を盛りあげ、特有のねばり強さを通し素晴らしい能率をあげ工場の人々を
いたく感激させているが、いま半島生産隊の力強い姿にふれて見よう。(後略)
***************************************
つまり・・・
× 戦時中、朝鮮人は日本に強制連行され無理やり働かされた
○ 戦時中、朝鮮人は日本人と同様に扱われ、普通に働いていた
朝鮮人がやたら「日本人にいじめられたニダ」と叫ぶのには理由があります。
日本に積極的に協力してたことがバレると敗戦国扱いされるからです。
縛って鞭でシバいて蝋燭たらして。
何だただのSMじゃあないか?
何?宗主国中国様々出ないと駄目?
今更代わってやる。
31 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:06:16.56 ID:eawjLQgy
だから親日派の思いを聞かせるなさいよ かたより過ぎだよ 韓国って国自体がおかしい 民主主義でしょ?
32 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:06:27.24 ID:2Qnb+c32
イ・オクヒョン(1907年黄海道生)牧師の娘イ氏はウォンサン女学校で
1930年3月光州学生運動(1929年11月)同調デモを行って
元山を開港させてやったのも女学校を作ってやったのも、
キリスト教の弾圧をやめさせたのも日本なのだが。
33 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:07:42.25 ID:FqX2pcOB
画像はトンスルの実が転がっているものだっけwww
34 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:08:53.68 ID:4CRqP7Oo
でもねぇ
何故か人口が急増なんだよね。・・不思議だよねぇ〜
35 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:10:58.88 ID:xTTjUhq/
>当時大部分の朝鮮人は単に朝鮮人という理由だけで職場と日常で‘差別’と‘蔑視’を受けなけれ
>ばならなかった。単に朝鮮人という理由だけで、朝鮮の語り口が残っているという理由で軽蔑され
>て、左遷されなければならなかった彼らの‘記憶’が明確な‘記録’として残っている。
これって朝鮮国内の話だよな・・・
朝鮮国内で、朝鮮人が朝鮮人という理由で差別とか蔑視とか・・・
しかも“大部分の朝鮮人が”・・・・
話が全く見えない・・・
36 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:13:55.40 ID:4od7uaxL
|┃ ┼╂┼
|┃三 ∩ _┃_∩
|┃ | ノ _, ,_ ヽ
|┃ ≡ / ● ● | デジアナ変換で全部見れるクマ!!
|ミ\___| ( _●_) ミ
|┃=___ |∪| \
|┃ ≡ ) ヽノ 人 \ ガラッ
37 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:14:00.21 ID:kj3nkt+R
>単に朝鮮人という理由だけで
いやだから、抗日活動やってんじゃん
>当時大部分の朝鮮人は単に朝鮮人という理由だけで職場と日常で‘差別’と‘蔑視’を受けなけれ
>ばならなかった。
ちょっと世間見渡しただけでも朝鮮人というだけで充分軽蔑に値するってわかるわ。
朝鮮人には無理だろうが
39 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:17:05.30 ID:aOAeviGM
今は日本叩きと嫌日が流行だからね
40 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:17:47.74 ID:5SF2VdSc
>>3 だよね。
日本の統治時代に拷問したり細かな監視をしていたのは、朝鮮人に間違いないね。
権力を与えなくても、権力者のように振る舞うのが朝鮮人だよ。
創価が同じ行動をしていた。
拷問をする自由は日本にはないので、別の迫害を行ったな。
権力者でも無いのに、命令するのはいつものことだった。
従わないけどさ(笑)
従わないと言って、怒る怒る(笑)
41 :
一国民:2011/07/24(日) 13:18:39.05 ID:5t86bMrp
おっ、また新しい「自称事実」が生み出された!
42 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:21:08.97 ID:A4M2m+Pb
朝鮮人に統治は無理
朝鮮出兵で日本軍が進出した時日本軍に味方した民衆が多かったくらいだし
43 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:21:28.34 ID:5SF2VdSc
>>7 ヤクザも朝鮮人系だろうね。
朝鮮人でつるむ。
黙って、放置していたら、事実として世界中に広めて、映画化して、金くれの嵐になるのが目に見える。
出版差し止めと、慰謝料請求してくれないかな。
カンパするよ。
44 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:22:18.44 ID:Wopn8nE9
韓国人はこんな妄想ばかり言ってないで
ちゃんと保導連盟事件や済州島事件について考えろよ
完全に韓国のアイデンティティー崩壊するだろうけど事実だ
45 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:22:57.83 ID:hWJkY9Id
李朝時代はもっと酷かったので、日本が止めさせたんだけどな
日本が去った後、また苛酷な取調べが復活している
そのことをさりげなくポン・ジュノ監督が映画で表現している
例えば、逆さ吊りとか飛び蹴りとか
46 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:23:11.52 ID:myiug9Cb
47 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:23:34.50 ID:w2+22TPN
当時の日本国内でも取り調べは、体罰。
まして犯罪者なら
48 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:26:07.59 ID:xSeyGA0R
体制維持のための嘘→日本人への憎悪→さらなる嘘→より大きな日本人への憎悪→……→核ミサイルによる攻撃
今の内に、朝鮮はつぶしておくべきだ。
50 :
【東電 65.6 %】 :2011/07/24(日) 13:27:35.01 ID:owgiZCyZ
>>3が正解
真実は未だに拷問が行われている北朝鮮に行けば見ることができるだろう
ある意味北朝鮮は時間の止まってる韓国だから
51 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:29:05.17 ID:rAf+wq+b
まだ日本人がチョウセン人を無理やり 強制的に日本に送ったなんて
いってるやつがいるのか?
前にも書いたが 在日の小説家ヤン・ソギルの「血と骨」を崔洋一
が映画化し、たけしが主演したの見てみ。
映画の冒頭で数百名のチョウセン人が乗り込んだ船がやっと大阪港に
着かんとするとき いっせいに喜びの歓声があがる。
「大阪だ 大阪だ」つまりやっとまともな職にありつけ、安定した生活の
スタートができるという喜びを表したものや。
無理やりつれてこられたヤツらがこんな歓声あげるか?
あれは貧しい祖国で食い詰めたヤツらが希望の日本に着いたという歓声や。
この手の記事を読むたびにお原発村wと同じ構図だなと思う
53 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:30:43.74 ID:xSeyGA0R
>>47 日本がアメリカに負けたあと、反体制派のテロリストや運動家たちが多数、
無傷の健康体のまま刑務所から出てきた。
彼らが大韓民国建国の立役者となった。
これは史実。
妄想の拷問とは違う。
54 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:33:30.36 ID:1l7ZP+he
また日帝さんか。ほんま日帝さんも大忙しやな!
拷問がなかったとは言わんが、どこまで本当なのやら
李朝・大韓帝国と大韓民国の拷問史もちゃんと押さえないとな
56 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:34:28.11 ID:oBPYMJfB
無理やり連れてこられたら、解放されたら故郷の家族の元に帰るだろ。
57 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:36:25.89 ID:Pwrklz0M
差別、迫害、弾圧の日帝支配下の朝鮮において
大学に進学、
教職資格取得、
教師として就職、
まぁまぁいい人生じゃないか?
あれ?差別は?迫害は?弾圧は?
同時期のインド人が聞いたらなんと言うだろうな。
58 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:36:42.07 ID:JkZIAQLs
戦争ネタを見ると毎回思っちゃうんだけどwww
戦争に負けちゃったご先祖様に文句を
言ってる様にしか聞こえないんだけど…
戦争に勝ってれば粘着する必要も無かった訳だしwww
TBS・毎日の朝鮮化理由はこういうこと。
幻想、二重焼き付け、印象操作。
どんどん、日本人が韓国化するね。
幻想に吠える訓練。例:荒川強啓の番組。
徒党を組んで百姓一揆推進。
大正13年 國民報 第44号 1月17日 ハワイホノルル発行 (原文諺文)
日本人巡査____2.050名
韓人巡査又ハ巡補_3.300名
日本人憲兵____2.400名
韓人憲兵補助員__4.500名
ヲ算セリ。
と、ありますな。
あと、気になるひとがいるかもしれないので。
「韓人」について、原文は未確認です(訳文を参照しましたので)。
民族系の反政府勢力は使ってたんですかね。
61 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:37:43.71 ID:FLbr16DF
∧_∧
<丶`◇´>すぅ〜
⊂ ⊃
( )
〈_フ__フ
ウソウソ ウソウソ
ウソウソ ウソウソ ウソウソ
ウソウソウソウソウソウソウソウソ ウソウソ ウソウソ
∧_∧ ウソウソウソウソウソウソウソウソ ウソウソ ウソウソ
<丶`○´>はぁ〜 ウソウソ ウソウソ ウソウソ ウソウソ
人 Y / ウソウソ ウソウソ ウソウソ
( ヽ し ウソウソ ウソウソ
〈_フ__フ ウソウソ ウソウソ
ウソウソ ウソウソ
ウソウソ ウソウソ
62 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:38:00.93 ID:wDf0Ii5S
また嘘ばっか 死ねチョン
63 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 13:39:29.21 ID:PZXHq6Jm
朝鮮人、許さん
>>60 語句の訂正
>韓人巡査又ハ巡補
→韓人巡査又ハ巡査補
巡「査」補
orz
65 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 14:02:30.01 ID:Z9vOmu9i
一戦もする事なく降り続けた腰抜け先祖を持つ民族って
哀れだよね(´・ω・`)
みっともないよね(´・ω・`)
よく自殺しないで生きていられるよね(´・ω・`)
ん?どこに水拷問の件があんの?
留置場で風呂に入れられたのか。
日帝はなんて残虐なんだ!
68 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 14:30:19.02 ID:ASh1CzoZ
一週間くらい風呂に入らなくても平気な韓国人にとって
毎日風呂に入る日本人の習慣は水拷問の名にふさわしい苦痛
69 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 14:42:33.85 ID:IBhyR2zC
当時の朝鮮には風呂とトイレが無かったです。
70 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 14:45:36.81 ID:UjNhaPm0
広島の「黒い雨」だったか・・・
あんまり、こういう風なパクリ風な名前は付けないほうが好いと思うが
それに日本人だって多数特高に拷問されてた時代だろ?
自分達だけがやられてたって考え方は幼すぎる。
71 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 14:56:53.01 ID:6HCzuomA
>>1 こんな事を言えば言うほど,朝鮮人が嘘つきだということを喧伝してるということに
気がつかないバカ。
72 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 14:58:29.89 ID:Bg81zMXa
かってに自分たちの証言だけ集めて勝手にヒステリーを起こして日本にイチャモンつける
朝鮮人。
こんな連中となんで付き合わなきゃ行けないんだ?
国交断絶したほうが日本はずっとよい国になれる。
またカンか
74 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 15:05:42.87 ID:D8n5IwSM
ああ、志村とカトちゃんが長介を拷問台に縛り付けて、
口にバケツ水を延々注ぎ込む、あれかwww
北の同胞の日常生活じゃん、これ
76 :
グレイトフルグレイウルフ:2011/07/24(日) 15:26:31.94 ID:EbPX9+5R
>>71 日本人もさんざやられてたんだろ?
なにかあるたびうそつき扱いするネトウヨの知性が疑われるよ
>>2 >朝日新聞を
>購読して性能の良いラジオを持っていた彼はまもなく日本が崩壊することを予想できた。
(-@∀@) ダウト!
本当にクオリティペーパーの購読者であれば、
一億火の玉後の最終的勝利を確信していたはずでは
ないだろうか。
79 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 15:30:42.26 ID:7GuY/m6m
>>76 嘘で塗り固めた歴史であると、他人も嘘をついてると思い込んでるのですね。
80 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 15:34:24.17 ID:t0f9d0i8
>51人の韓国人のインタビュー
欧米人の反日書籍って全部この手のシロモノ
決して現地で実情を取材していない。
実際に極東アジアに長期滞在していた欧米人の書籍はちゃんと真実を書いている。
欧米諸国にとってはそれらは都合が悪いので悉く冷遇されている
81 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 15:39:56.83 ID:pmAdQ6pP
>故キム・チャンド(1911年平安北道出生)氏と夫人故イ・オクヒョン(1907年黄海道生)氏は日帝の厳
しい監視にもかかわらず、農村で民族運動を行った夫婦であった。
本当に厳しい監視なら民族運動なんてできません。北朝鮮や共産中国を想像せよ。
北朝鮮で将軍様批判ができるか?中国でチベット独立運動ができるか?
現に民族運動ができたと言うことは実際には監視は厳しくなかったということ。
朝鮮人のいつもの自分達を偉く見せるために針小棒大に語る嘘。
>>1 >ウォンサン女学校で1930年3月光州学生運動(1929年11月)同調デモを行って
日帝が建てた裕福な家庭の子女しか通えなかった女学校に入ってたんだね〜
うちの祖母は平壌の女学校を卒業してるけど乗馬やテニスや薙刀やアイススケートとかのクラブもあって
使用人による子女の送り迎えが当然の学校だったらしいよ。
83 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 15:55:37.15 ID:65M4XnP0
カンと言う朝鮮人か
84 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 15:59:02.79 ID:t0f9d0i8
日帝が建てなければ存在しなかった学校ですねぇw ウォンサン女学校
( ´,_ゝ`) ぷっ
85 :
天の川市民(知性派):2011/07/24(日) 16:01:24.18 ID:A1kpMXII
酷いな。暴走したんでしょうかな
86 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 16:03:27.15 ID:pPm/+l/n
従軍慰安婦フンダララも相手が実は朝鮮人てオチなんじゃ、と最近思う。
87 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 16:03:32.34 ID:V4HM3zzL
そうならいい加減
日本と断交しろよ
>>82 貴重な歴史の生き証人が御身内にいらして羨ましいです
是非、お婆様から当時の様子を聞いて、出来れば投下して下さると嬉しいです
ちなみに自分が読んだ、在日ではない韓国人女性が当時のことを(自身の日記を元にして)書いた半生記も、そんな感じでした
その人は父親が独立運動家で、日本の警察に目を付けられ、度々厳しい取り調べを受けたが、肉体的拷問の跡は無く、家にも帰ってきていたとありました
89 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 17:27:12.91 ID:gdxPy68r
成り上がりが許されるなんて、大清国属時代じゃありえなかったんじゃねえのwww
90 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 17:43:36.53 ID:Wz0jYetu
こういう活動家連中がつく嘘に、当時の朝鮮人達は冷笑してた訳だが。
半島史上初めて腹一杯飯を喰わせてくれて寿命を倍に伸ばしてくれた
事を実感として知っていたからな。
まあ、戦争が終わったら全ての朝鮮人は歴戦の抗日戦士に一変したらしいけどなw
あらゆる点で最低だ朝鮮人は。
91 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 17:49:24.47 ID:OhwLqj00
共産主義者が一般人と同じ扱いされるわけ無いだろ
大逆罪もあるし、国家煽動罪もあるし
常識で考えるべき
92 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 17:55:00.38 ID:FLbr16DF
当時フロに入る習慣のなかった朝鮮人を不潔だから、フロに入れたのを水拷問と言ってるだけだろ
93 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 18:01:13.79 ID:8a6bxzBN
まったく日帝は・・・・
小便じゃなくて、水で顔を洗うようにさせるなんて大問題だな
94 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 18:02:52.18 ID:E2HNFCAF
日帝さんも朝から晩まで大忙しやな。w
95 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 19:49:56.58 ID:izU5mwQ9
>>21 日本でこんなのが知られていないのは、矢張りマスコミの所為?
96 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 20:04:34.63 ID:q+MPfE3m
日帝めちゃめちゃ優しいじゃんW
反日的行為しても普通に生きてるしWWW
一体誰を虐殺してたの???
97 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 20:07:36.23 ID:xTTjUhq/
>>96 虐殺なんかしてたら、人口倍増するわけないだろ。
98 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 20:20:57.48 ID:yleyewPx
>>1 >田舎では珍しく朝日新聞を購読し……
>田舎では珍しく朝日新聞を購読し……
>田舎では珍しく朝日新聞を購読し……
>田舎では珍しく朝日新聞を購読し……
>田舎では珍しく朝日新聞を購読し……
>田舎では珍しく朝日新聞を購読し……
>田舎では珍しく朝日新聞を購読し……
>田舎では珍しく朝日新聞を購読し……
>田舎では珍しく朝日新聞を購読し……
>田舎では珍しく朝日新聞を購読し……
>田舎では珍しく朝日新聞を購読し……
>田舎では珍しく朝日新聞を購読し……
99 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 21:20:34.84 ID:18Ginr4V
大学生だったり教職だったり新聞紙購読したりずいぶんいい暮らししてたんですねぇ差別されてたのに
何でそんな事をした国に朝鮮人が60万人も存在するのであろうか?
101 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 21:42:23.90 ID:SE6wcLl0
朝鮮人はまず100個ウソをついてみて、99個完全に否定されても
残りの1つは真実だったとわめき立て、発狂し、謝罪と賠償を要求してくる。
日本人は面倒でも朝鮮人に100個ウソつかれたら100個とも完全否定してやらないといけない。
102 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 21:44:38.34 ID:t0f9d0i8
>>98 当時の朝日は異常なまでに開戦煽ってたぞw
朝鮮人の犯罪もまともに報道していた
103 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 21:48:06.33 ID:nfqqFrqY
日帝下貧家出身の立志伝的人物の行路をよく見せる。
彼は貧困から脱っしようとして若い頃、日本に行った。彼はヤクザが運営する市場で‘さくら’商法
を習って金を儲け大学に進学した。
おいw
強制連行はどうしたw
104 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 21:50:17.85 ID:pbV6zDTB
李氏朝鮮時代は、どうだったのかな?
なんか読んでて思ったんだけど、どいつもこいつも反社会的なんだな…
106 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 21:58:04.67 ID:q7l92hKd
>>1 >農夫らに一日中話しかけて‘歴史’、‘農業’、‘反日思想’を教えるなど農村運動に出た。
こんなときから空想史と捏造を語ってたのか
どんだけ妄想好きなんだよ
107 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 22:01:05.95 ID:0kfkeJMb
wwwwじゃぁどうして日本にいるのかなwwww
108 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 22:12:04.93 ID:qQkHwswL
>>101 そういうことだよな。あいつらはまんま詐欺師の手口でやる
109 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 22:13:57.56 ID:n9hS3DdZ
エベンキのDNAを引き継ぐ奴って基本的に精神障害者だな。
110 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 22:14:12.39 ID:c5NonU93
嘘から産まれた朝鮮人、もううんざり
111 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 22:14:46.56 ID:3MLCG/t/
植民地の貧民が大学まで行けてしまう日帝はすごいな。
朝鮮人の犯罪を個々に処理したのは朝鮮人の巡査。
取り調べをしたのも朝鮮人。
当時の朝鮮人官使に文句を言え!!
113 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/24(日) 23:53:21.99 ID:7XFshSiK
■朝鮮の刑務所(監獄)の、不潔と残酷さは、言語に絶するものであった■
食事はおかずなしの雑穀のみであった。
さらに、監獄の狭さから囚人数を滅らすために獄吏が勝手に殺害して「処理」していた。
▲日本は1909年以来、それを人道的な日本並みに大改善していったのである。
総工費30万円をもって1910年に起工し1912年に完成した、清潔で近代的な
京城監獄(のち西大門刑務所と名称変更)は、朝鮮の受刑者にとって
地獄から天国に引越しをしたようなものであった。
▲柿原琢郎(1920〜22年の総督府監獄課長)は、上記と同じ座談会で、
平壌地裁次席検事として実際に訪れた(韓国併合直前の)平壌の監獄を、
次のように思い出している。
▲『狭隘なる監房は到底それに応ずることできず、ただ無理押しに押し寵めて
ゐました。1坪に15、6人も押込むありさまで、在監者(は同時に横臥睡眠を
とれないので1日に)3、4回交替にて横臥せしめた。
作業上の設備も被服交換の準備なく、…終日終夜着のみ着のままで在房して
ゐますから、監内の熱気と臭気とは短時間の参観にも堪えられませんでした』
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)
「歴史を偽造する韓国」 中川八洋 2002年 徳間書店
■死刑の執行を見た。身動きのできぬ囚人の足の内側に棒を挟んで、
執行人たちは自分の体重の全てを棒の片端にかけた。
囚人が続けざまに吐き出す叫び声は聞いていて実に凄絶なものだった。
脚の骨が砕け つぶれる音が聞こえると同時に、その痛さを表現する声さえも
もはやないかのように、囚人の凄絶な悲鳴も止まった。
執行人らは囚人の腕の骨と肋骨を次々と折ってから最後に絹紐を使って
首を絞めて殺した 。
▲――理由が何であれ、こんな状況がまだこの地球上の片隅に残って
いることは、人間存在そのものへの挑戦である。
日本人が(李氏)朝鮮を手中にすれば、真っ先にこのような
拷問を廃するだろう 。
▲(スウェーデンの新聞記者 グレブスト 『悲劇の朝鮮』より)
114 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/25(月) 00:17:14.00 ID:AYGyZ83I
李氏朝鮮時代は日常的に両班に拷問に会わされてたのにバカじゃねえのw
こいつら自分らの歴史も自ら学べないのかよ。
こんなレベルのバカばかりだからノーベル賞も取れないんだよ。
>>100 確かに、そんな怖い人間がいる国に2度と行かないわな。
今なら北朝鮮に日本人が大量に行くようなもの。
115 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/25(月) 00:24:07.17 ID:+7qsn89O
在日も本書けよ。
日本は天国だ。帰りたくないよって本音な。
買ってやるよ。
アメリカの行政学者 Alleyne Ireland の 「The New Korea」 より。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「日本の人たちは自負心を持って韓国で道路を作ったこと、教育施設を大きく拡大させたこと、
最近全国的に盗賊による被害が多かった朝鮮から人命と財産を効果的に保護したこと、
農業、産業、そして他の産業からも急速な成長を成し遂げたこと、技術訓練所を作り農漁民、
牧畜業者、 製造業者などを助ける実験研究所を作ったこと、去る15年間全ての分野で生産性が
とてつもなく増加したこと、そしてその事実を内包している朝鮮人雇用増大効果および公職に
任命された朝鮮人の持続的な増加などを言及する。
上の事実にそう簡単に異議を提起することは出来ないだろうし、そんな事実はこれから続く
次の章から提示される 資料によって事実であることが証明されるであろう」
「多くの資料を集め、調べた結果、筆者は以前の王朝時代や同じ民族から統治されていたいかなる時
よりも植民地政府の支配を受けている今の韓国当地のほうがずっとよく出来ていると判断する」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1926年に書かれた本です。
4章から10章まで内容があります。興味をお持ちの方はどうぞ。
併合時代を天国だったと言う気はありません。しかし朝鮮から見ると
数え切れないほどの可能性をプレゼントされた時期でもありました。
118 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/28(木) 20:45:13.64 ID:d+UcCcPL
「悲劇の朝鮮」スウェーデン人 アーソン・グレブスト
「こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、人間存在そのものへの
挑戦である。とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が
朝鮮を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうということだ」
李氏朝鮮時代の拷問が酷かったことは世界的に知られていたが、1905年に日本の保護国となり、
統監統治が始まると、日本と同様にすぐに拷問は廃止された。
朝鮮での拷問禁止は島村忠次郎(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)が
在職中に伊藤博文統監に申し入れて法令となった。1908年の法令改正によって拷問した取調官は
3年以下の懲役と定められた。これにより、長年続いていた朝鮮での残虐な拷問は廃止となった。
更に、日韓併合前は「1坪に15〜16人」詰め込んでいた監獄が、1910年の後半には
「1坪当りの収監者数を5人以内」にし、1922年頃には「約2.9人」まで大改善された。
これによって囚人はいつでも横になって寝る事が可能になった。
119 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/07/28(木) 20:51:21.83 ID:VnM8f4bM
日本の最大の功績は
李氏朝鮮の農奴制度の廃止だろ、
いつも思うが日本、朝鮮の歴史家が史料を元にテレビの前で
堂々と議論すればすむはなしなのになんで実現しないんだ?
フィクション小説でつね。了解しますた。
>>1 調べてみたら、もう2006年に日本で訳本が出版されてますね。さすが翻訳大国だ。
黒い傘の下で―日本植民地に生きた韓国人の声 [単行本]
ヒルディ カン (著), Hildi Kang (原著), 桑畑 優香 (翻訳)
単行本: 271ページ
出版社: ブルースインターアクションズ (2006/09)
ISBN-10: 4860201892
ISBN-13: 978-4860201890
発売日: 2006/09
商品の寸法: 18.6 x 13.4 x 2.4 cm
表紙
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4860201892/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books あと
>この本にはこの他にもハム・ソコン先生を尊敬して秘密集会を共にし水拷問で裸で労役するよう
>強制されたイ・ハジョン(1921年平南生)等多様な履歴の日帝下生活像が生き生きと記録されている。
この「水拷問」ってなんだろう?そんな刑罰は、旧刑法ではなかったはずなのだが? まあいいや
自分であとで調べてみよう。
124 :
122:2011/08/10(水) 14:07:50.80 ID:gjkbxrWb
>>1 >この本にはこの他にもハム・ソコン先生を尊敬して秘密集会を共にし水拷問で裸で労役するよう
>強制されたイ・ハジョン(1921年平南生)等多様な履歴の日帝下生活像が生き生きと記録されている。
なんのことか分からなかったので、訳本を読んでみた。
> ハム・ソコン先生を尊敬して秘密集会を共にし
ピョンヤン付近にあった高等学校の在校生が集まってつくったキリスト教研究会 兼 朝鮮独立運動
研究会で、キリスト教の指導者(mentorというかtutorというか)としてキリスト教の教義についてのみ
指導を受けた牧師(訳本では「ハム・ソクホン」と記述されています)
> 水拷問で
高校卒業後、法政大学に進学し東京に留学していたとき、このイ・ハジョン氏は逮捕される。水拷問とは
刑事(それも朝鮮人の刑事!)が自白を得るためにもちいた拷問の手段。
> 裸で労役する
イ・ハジョン氏が最初に入れられた刑務所では、労役として化粧品の製造を科せられていた。その化粧品
工場に出入りする際、全部服を脱がさせられて全裸で出入りしなければならなかった。
「植民地時代にしたあと朝鮮の刑罰や刑事政策は改善された」という日本側の反論は非常に多い。
反論の典型的な例は
>>113で書かれているが、これは事実と相当異なる。
このイ・ハジョン氏が逮捕された1941年という年は、朝鮮半島では皇民化時代といわれ、日本
の植民地支配が厳しくなった時期として知られている。ただしそれは植民地でだけそうだったわけで
はない。日本本土でも、「横浜事件」など有名な冤罪事件が多発し、日本刑事司法の暗黒時代だった。
日本本土で、およそ褒めるところがまるでなかったのに、植民地の朝鮮で、しかも朝鮮独立運動にかか
わっていた人物の取り調べや行刑が、生やさしかったり、人権に配慮された人道的なものであるはずが
ない。駄目なものは駄目だったんだから、それをあれこれ言い訳するのはどんなもんかねえ?
日本で第二次世界大戦敗戦後に行われた戦後改革の中で、刑事訴訟法は戦前の旧法が廃止され、
新刑事訴訟法が誕生しました。いわゆる六法(憲法・民法・刑法・商法・民訴・刑訴)のなかで、戦前の
旧法とまるっきり異なる法体系が導入されたのは刑訴法だけです。(現行日本国憲法は旧大日本帝国
憲法と章編成が実は同じ。)
日本と韓国との長くもつれた関係を解きほぐそうと目指すなら、1945年に植民地支配が終了す
る直前に、「なにを日本は朝鮮人にやっていたのか?」 その、日韓関係の原点の部分を、もう
一回振り返って再確認する必要があるだろう。
1947年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が成立したさい、両国の指導者の大きな部分を
占めていたのは、植民地時代に独立運動を行い、政治犯として投獄された者の「生き残り」だった
からだ。たいへん残念なことだが、植民地時代末期の大日本帝国の刑事政策には、褒められる
ところがまるでない。たくさんの独立運動指導者が、刑務所や拘置所のなかで獄死したという事実
がある。そうした負の遺産は、はぐらかさず隠蔽せず、はっきり明示したほうがよいと思った。
「日本は悪くない」とか「日本は朝鮮に善政をひいた」とか、大日本帝国時代の日本を弁護する意見
は、さんざん読んだが、「韓国人は如何にして日本人に恨を抱いたか?」 わたしはそっちのほうが
知りたかった。それに旧刑事訴訟法がどう運用されていたのかちょうど調べている最中だったので、
ついでのおまけに、このイ・ハジョン氏がどういう運命を獄中でたどったのか、『黒い傘の下で』
(ブルースインターアクションズ和訳版)から抜粋をつくってみた。(どうせ夏休みだし、ヒマだし)
植民地統治末期の、日本が第二次大戦へとひた走る暗い時代を生きた人物が語る「生の証言」
に目を通しておかないと、なにもかもピントがずれていくような気がしたので。
この回想では語られていない悲劇的なことが、もうひとつある。大日本帝国の35年の植民地支配で
投獄した政治犯の合計を、独立回復して成立した大韓民国の政治犯の合計が上回るために要した
時間が、たった2年だったということだ。政治犯として逮捕されるだけ、まだましだったかもしれない。
大韓民国建国当初の政治状況は、血で血を洗う骨肉の争いがあまりにも多すぎた。
イ・ハジョン
男性 1921年生まれ 学生 平安南道(ピョンアンナムド)
私は1940年に高校を卒業し、東京の法政大学に進学しました。それから1年もしないうちに、自宅の
ある平壌の警察署から秘密警察の刑事が5名、私を逮捕するために、はるばる東京まで派遣されてき
ました。 〔中略〕
【愛国者になる】 p161−
〔朝鮮独立運動研究会メンバーの〕名前を手に入れた警察は、まず平壌(ピョンヤン)の医学生を捕ら
えました。この学生はひどい拷問を受けて苦痛を強いられ、とうとう私たちの目的と活動について白状し
ました。われわれの策略を知った警察は「これは耳寄りな話を聞いたぞ」と言って、この事案を最優先
事項にしたのでした。そして、東京に進学した3人を逮捕するために、はるばる平壌から5人の刑事を
派遣したのです。
3人のうちの一人は、平壌での仲間の逮捕をうわさで聞きつけ、中国へ行って亡命活動家に加わる
つもりだと言って満州の親戚の元へ身を寄せました。
あとの一人と私は東京に残って勉強を続けていたのですが、ある日、刑事たちがやってきて逮捕され
てしまいます。後ろ手に縄で縛られ、東京の中野警察署へ連行されて3週間収容されました。そこはま
るで貨物列車さながら様々な犯罪者たちが同じ房に詰め込まれていました。
それから私たちは列車とフェリーを乗り継ぎ、さらにまた列車に揺られて平壌まで連れていかれました。
二人は離れ離れにさせられ、私は大同江(テドンガン)警察署に、もう一人は川向こうの拘置所に収監
されました。
私の隣の房にいたのは、なんとハム・ソクホンその人でした。なぜ投獄されたのか教えてはくれませ
んでしたが、キリスト教のレジスタンス運動のためだということは間違いありません。あるときなど、拷問
部屋に連れていかれて戻ってきた彼は、話すことも動くこともできなくなっていました。
そういう人々がどんなでっち上げのためにそこへ送られてきたのかは、とうとう知ることができません
でした。牢獄の規則では、私語は禁じられています。看守の姿が見えなくなったときにやっと少しささや
くことができる程度です。ですから、情報交換はほとんどできなかったのです。それも息を殺してささや
かなければ、もっとひどい目にあうことになります。看守たちは、いついかなるときも静寂を保つよう鉄
の規則を強要しました。
128 :
「水拷問」:2011/08/13(土) 04:45:23.22 ID:A8hPaOHt
その一方で、読書は許されていました。聖書でさえ読むことができたのです。それはつまり、この投獄
生活が長期にわたるのではないか、と思わせました。
私たちが逮捕されたのは1941年1月で、平壌に移されたのは2月初めのことです。それから一月し
て、ようやく尋問が開始されました。
秘密警察の日本人と朝鮮人の刑事がやってきて、拷問が始まりました。実際に拷問を行なったのは、
朝鮮人の刑事です。また、朝鮮人の役人が記録を取っていました。顔面や頬を殴られ、大量の水を無
理やり飲まされます。飲み続けると、息ができなくなって失神してしまいます。彼らは科学的知識を心得
ていました。死なないようにするには、何秒待って意識を取り戻させればいいかをちゃんと知っていた
のです。当然のことながら、私は縛られていて身動きができません。一人が顔に水を注ぎ、もう一人は
タイマーを手に立っていました。失神すると、何秒間も待ってから私を蘇生させ、こう言うのです。「また
同じ目にあいたいか? 白状したらどうだ。本当のことを言え」。
私は、もう話すことはないと言いました───知っていることは、すでに何もかも話してしまっていたの
です。
「本当だろうな?」と、彼らはたずねました。
〔独立運動に〕勧誘しようとした人の名を残らず言うよう、何度も尋問されました。彼らが知りたかったの
は、それだったのです。そうすればさらに逮捕者を増やすことができるからです。私は、すべて話した、
と繰り返しました。もう知っていることは何もなかったのです。
初日が一番ひどく、一日がとても長く感じられました。あざだらけになるまで何度も何度も殴られ続け、
耳元で「自分が悪いんだぞ」と絶えず怒鳴られるのです。骨は折れませんでしたが、体中にあざとみみ
ず腫れが残りました。まだ21歳と若かったので、年配の囚人に比べれば回復が早かったとは思います
が、それでも、あざは何月も消えませんでした。
自白調書に署名をするよう迫られ、もちろん、私は言われるままにサインをしました。ほかに選択肢な
どあったでしょうか!
すると刑事たちは書類を検察署に回し、私は半年間拘置所に入れられたままになりました。裁判を待
つうちに季節は夏になり、息苦しいほどの暑さに見舞われました。
次に私は、本物の刑務所へ移送されました。刑務所は2つのセクションに分かれていました。すでに
宣告を受けて刑に服している者がいる場所と、これから裁判を受ける者の場所です。そこにいる間、私
たちは検察署に召喚されて再び尋問を受けました。2日間にわたり、調書の一文一文を指しては「これ
は事実か? これも事実か? これについて自白したか?」と訊かれました。ここでは拷問はなく、質問
されるだけでした。
さらに半年を刑務所の中で過ごした後、ようやく裁判が始まりました。ひどく寒くなっていましたから、
再び冬が巡ってきていたのだと思います。
そのころ、私は囚人服ではなく私服を身に着けていました。まだ有罪宣告を受けていなかったからで
す。近くに住む家族からの、衣服と食料の差し入れは許されていましたが、差し入れる食料は刑務所の
仕出し屋から買わなければいけないことになっていて、どれも囚人用に作られたメニューばかりでした。
刑務所内では、誰とも友達になりませんでした。私たちの間には大きな溝があったからです。逮捕理
由を聞いてみると、どうしても自分と同等には考えられなかったのです。彼らは皆、本当に社会の底辺
にいる人ばかり。すり、窃盗犯、殺人犯───。私には、この隔たりを埋めることはできませんでした。
裁判にかけられた日付は、正確に記憶しています。1941年12月8日───真珠湾攻撃当日です。
西洋では12月7日でしたが、アジアではすでに8日になっていました。もちろん、戦争が始まったことな
ど、私たちはまだ知らされていません。
当時、日本人は非常に神経質になっていて、反日感情や運動の兆候がないかを常に見張っていて、
ほんのささいなことでも逮捕するのでした。警察は痛めつけてから釈放し、見せしめにして人々を恐れさ
せるのが目的だったのです。ところが、私たちの場合、実際に抗日運動をしていた上にすべてを自白し
ていたのですから、当然、検察官は有罪の求刑をするほかあり得ません。裁判所には特殊犯罪に関す
る規定書が6冊もありましたが、私たちのケースはまさにそれに当てはまる、実に古典的な犯罪だった
わけです。
冒頭陳述で、検察官は次のように述べました。「本件は、歴史的意義のある案件である。大日本帝国
のためにわれわれが新たな世界大戦に踏み出したまさにその日に、帝国を転覆させようと陰謀を図っ
た犯人を起訴しているのである。この反日学生たちは、厳罰に処するのが相当である」。とても雄弁な
演説ですが、お仕置きされるのはほかならぬ私なのです。
私たち学生は3人の裁判官の前に立たされました。グループの6人全員がそろっていて、満州へ逃れ
たはずの友人もいました。中国へたどり着く前に、追っ手の刑事たちにとっ捕まったのです。
裁判は、朝から晩まで丸2日間行われ、約1週間後、評決が言い渡されました。上級裁判所に控訴す
るかどうか決断するため、それから1週間の猶予が与えられる仕組みになっていました。控訴しないこ
とに決めたなら、署名捺印をさせられるのです。当然のことながら、全員が有罪判決を受けました。
検察官の求刑は、全員等しく7年の実刑───7年もの長期刑です。けれども、弁護人が私たちのた
めに「彼らはまだ若者ですし、初犯です。もう二度と罪を犯すことはしませんから、どうか寛大な処置を
お願いします」と、申し立ててくれました。罪を認めて刑を軽くしようというのです。結局、判決では2年半
に減刑されました。
民事事件〔?〕や窃盗といった軽犯罪の場合、裁判を迎えるまでに牢獄で過ごした月日も刑に数えら
れます。しかし、私たちの刑は、裁判終了後にあらためて執行されました。ですから、実際には3年半を
獄中で過ごしたことになるのです。
131 :
【赤い制服】:2011/08/13(土) 04:53:20.76 ID:A8hPaOHt
1941年12月26日、私は囚人用の赤い制服に着替えました。その日付は、忘れようにも忘れられま
せん。
前日の25日は、大正天皇の命日ということで、日本人にとっては祝日でした。西洋では、クリスマス
です。ところが私にとっては、赤い囚人服を正式に身に着けた日だったのです。冬でしたから、下着の
上に着ました。赤といっても、長年洗濯を重ねて痛んでいますから、かなり色あせています。パジャマの
ようにも見えるのですが、それでも囚人の色に違いはありません。
囚人服に着替えるためには、いったん廊下に出て、服が到着するのを待たなければなりません。そ
のとき、驚いたことに、有名なチュ・ギチョル〔朱基徹〕牧師の姿を目にしたのです。年若い私でさえ、ギ
チョル牧師のことは耳にしていました。その人が、私と同じこの牢獄内にいるのです。私は彼の元へ行
って握手を求めました。チュ牧師は、私の手をしっかりと握って言いました。「君はまだ若いんだ。ばかな
ことでエネルギーを無駄に使ってはいけないよ。注意深く行動すれば、後の人生で必ず大きな事を成し
遂げられるはずだ」。そして手を握りしめながら、私のために祈りを捧げてくれました。そのときのことが
とても強く印象に残っています。私にとっては歴史的な瞬間でした。後に放免になってから、彼が獄中
で亡くなったことを知りました。過酷な状況下で体が弱り、裁判を待ったり、毎日のように拷問を受けた
りしている間に、命を失った殉教者は大勢いましたが、実際に有罪判決を受けた人は一人もいません。
日本憲法は名目上、宗教の自由を保障していたからです。
ひとつの房の中に、10人の囚人が押し込まれていました。政治犯は私一人で、あとは皆一般的な罪
を犯した人たちです。日本人一人を除いて、全員が朝鮮人でした。日本人の囚人は、経済に関わる罪
状で投獄されたのだと言っていましたが、ほかの者たちは、スパイとして送り込まれた奴に違いないか
ら十分に注意しなければならない、とささやき合っていました。私には、そんな心配はありませんでした。
政治犯だったために、すぐに独房に移されたからです。
132 :
凍傷と飢餓:2011/08/13(土) 04:55:31.50 ID:A8hPaOHt
朝鮮北部とはいえ、その年はいつになく寒さの厳しい冬でした。戸外の牛が凍死しているといううわさ
を聞いたほどです。看守から支給されたのは、畳一枚、靴下一足、綿入りの下着上下、それに赤の囚
人服、それだけです。厳しい寒さのために耳は凍傷にかかり、窓ガラスに吹きかけた息は凍りました。1
日にカップ1杯の水を与えられましたが、すぐに飲まないと、あっという間に氷になってしまうのでした。
けっして誇張ではなく、1月目で私は本当に死にそうになっていました。
囚人の食事を賄えるほどの米はなかったので、麦、大麦、豆など、量を増やせそうなものなら何でも
混ぜられています。米を量る際、大きさの異なる容器が10種類使われました。肉体労働に従事した囚
人は、一番大きな容器で量った米を食べることができますが、一日中座ったままで何もしなかった者は、
最小の容器の米しかもらえません。刑務所に入所した当時、私は8番目の容器で量ったこぶしほどの
ご飯を、1日3回手渡されました。おかずと呼べるものは、小さなお椀に入った温かい塩水だけです。た
まに、野菜の切れ端やキムチのかけらが浮いていることがありましたが、ほかには何もありませんでし
た。ごく稀に、腐った魚をもらえることがありました。マリネされてはいますが、とにかく腐っているのです。
それさえ、尻尾だけのことも少なくなかったのです。
133 :
裸で労役:2011/08/13(土) 04:57:57.23 ID:A8hPaOHt
【工場での仕事】
〔最初の刑務所での懲役刑は〕昼間は、刑務所内でも房からだいぶ離れた場所にある化粧品工場で
働きました。民間会社が刑務所と契約して工場を設立し、囚人を労働者として使っていたのです。フェイ
スクリームや石鹸といった化粧品の製造工場で、朝8時から夕方の5時まで、昼食時以外は休憩も与
えられずに働かされました。
驚かずに聞いてください。房から工場の入り口まで、私たちは毎朝、服をすべて脱いで素っ裸のまま
走らされたのです。そこで工場の制服に着替えて一日中働き、仕事が終わると朝とは反対の手順をた
どります。途中には、見張りの看守が立ち並んでいました。どんなに寒いときでもこの慣習が変わること
はなく、看守が言うには、裸で走るのは警備上の理由とのことでした。
シャワーを浴びられるのは、ほぼ週に一度。だだっ広いシャワールームで、全員一緒に浴びるのです。
おわかりだと思いますが、数百人もの囚人がいるのですから、様々な伝染病を持つ者も相当いました。
たいていの囚人が、何らかの病気や皮膚病を患っていたと言っても過言ではありません。塗り薬を与え
られましたが、たいして効き目はありませんでした。
月に一度、15分だけ面会を許されましたが、面会者は書籍以外の差し入れを禁じられていました。し
かも、どんな内容の本か、検閲を受けるのです。第2次世界大戦の開戦前には、聖書は検閲を通って
いたのですが、開戦後はそれさえ許可されなくなりました。ただし、仏教の経典は許されました。それで
私は、仏教についてたくさん学びました。本当に熱心に勉強に打ち込んだものです。今でも、仏教とそ
の教義に関してはかなりの知識があります。週に一度、全員講堂に集められ、そこへ僧侶がやってき
て、経を唱える儀式が行われました。日本人にとって、仏教と神道はよく似ていて違いがはっきりせず、
ほとんど同じものと考えていたようです。
【再移送】
さらに半年が経ち、刑務所の上層部は、私を再び移送する決定を下しました。今度は、ソウルのずっ
と南の忠清南道(チュンチョンナムド)にある公州(コンジュ)刑務所です。政治犯の大多数は左翼急進
派の活動家で、私たちのように急進的でない者は稀でした。急進派の扇動者らは、一日中、房から出
してもらえません。その中には、すでに有名になっていたチュ・ヨンハもいました。日本支配からの解放
後、北朝鮮に行って重鎮となった人物です。それ以外にも数名の著名なパルチザンが、私たちとともに
刑務所で数年間を過ごしました。
公州刑務所には、政治犯のほか、ノイローゼや精神異常の囚人たちが全国から集められていました。
こうした精神的病気を抱えた者は、独立した監房に入れられていましたが、同じ刑務所内にいたことに
違いはありません。
ひとつ言っておかなければならないことがあります。私たちは刑務所に入れられ、肉体的には監禁状
態にありましたが、心理的に洗脳されたり、精神的拷問を受けたり、神道の神社を崇拝するよう強要さ
れたりすることはありませんでした。ただ肉体的に制限されていたにすぎません。おそらく、囚人が皆、
政治犯で教養があったためでしょうか、看守たちは敬意を持って接していました。われわれ囚人のほう
が彼らより教養が高く、犯した罪も、単にイデオロギーの違いというだけで、反社会的な犯罪ではありま
せんでしたから、他の犯罪者とは明らかに異なる、紳士的な待遇を受けたのです。
食事係の任務に就けば、普段より食料を多くもらえる上に、最初に食べられることが分かりました。ま
ずい米か、ほかの物を混ぜたご飯ではありましたが、何であろうと空腹が満たされるまで食べることが
できたのです。ただし、栄養はほとんどなかったので、体は弱る一方でした。
戦争がますます激化すると、配給制度が開始され、囚人の食料の一部は満州から運び込まれるよう
になったのですが、それは恐ろしくひどいものでした。満州では、大豆を搾って油を製造していましたが
その際に残った搾りかすが刑務所に送られ、様々な穀物と混ぜられて食料になっていたのです。米は
ほとんど見られなくなり、この残飯のような食べ物が私たちの主食でした。本当にひどい代物で、口に
入れても体の中をあっという間に通り抜けて、何の栄養も残しません。
さらに悪いのは、すぐにカビが生えてしまうことでした。調理するといつも嫌な臭いが辺りに充満し、食
べ過ぎれば激しい吐き気に襲われます。体の弱っている者や年寄りの中には、これを食べて命を落と
す人もいました。
ある日、天皇誕生日だというので、囚人に食べさせるために肉屋が豚一頭を解体処理しました。とこ
ろが、肉はまず刑務所のお偉方にふるまわれ、次に町の役人のもとへ行ってしまいました。朝鮮には
「牛を殺しても、手に入るのはスープの匂いだけだ」という、古いことわざがあります。ほかの人が手にし
ても、自分の番が回ってくるころには何も残っていない、ということわざです。実際、囚人が手にしたス
ープは表面にほんの1、2滴、油が浮いているだけだったのですが、皆、「これは、うまい」と言って飲ん
だのでした。
実を言うと、その日のスープには、当初、豚の油がたくさん入っていました。食事係の任務に就いてい
た私は、つい好きなだけそれを飲み、案の定、飲み過ぎてしまって、翌日ひどい下痢に襲われたのでし
た。弱った体は、抵抗力をなくしていたのです。
1944年にも、また同じ症状に陥りました。ひどい吐き気で、食べることができず、下痢が続きました。
放免になった日も、実はまだ具合が悪かったのです。
もうひとつ、刑務所にいる間ずっと苦しめられたものは、おできでした。3、4回、それで死にかけたこと
もあるのですが、そのたびに何とか回復しました。入所したときに若くて健康だったおかげで、生き残れ
たのだと思います。年を取った人々は、大勢亡くなりました。
私は2年半の刑期を、1日も欠けることなく、きっちりと勤め上げました。早期釈放などはありえなかっ
たのです。
〔以下略〕
これは欧米人が書いた日本統治に関する著作への韓国人による書評だが、面白そうな本だね。
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『日本の韓国統治に関する細密な報告書』 〜 容認しがたい挑発的主張を記載
(訳注:原著はアレン・アイルランド(Alleyne Ireland)の "The New Korea"(1926))
普通の韓国人が読んだら同意したくない内容が多い本だ。しかし1900年前後における極東の植民地統治
を研究したアメリカの行政学者が、実証資料を土台に見た日本の植民地政策は、それなりの意味を持って
いる。
この本は第一章から、韓国人にとって決して同意できない挑発的な主張を展開する。「多くの資料を収集し
て調査した結果、筆者は、従前の王朝時代や同民族から支配を受けたいかなる時代よりも、植民地支配を
受けている今の韓国の統治のほうがずっと良いと判断する。」
(中略)
こんな断片的な事実だけから、日本の韓国植民地支配が苛酷ではなかったと主張することは誰も出来な
い。 しかし、「苛酷な日帝統治」という主張と同時に、このような統計資料にも関心を持つ必要がある。
監獄行政に関する資料も興味を引く。李朝政府の監獄をこう評している。「李朝時代の監獄は、大多数の
東洋諸国の監獄と同じく、説明しがたいほど無残だ。衛生設備は不足で、収監者に対する虐待は頻繁だっ
たし、すし詰め状態はほとんど信じられないほどだった。」
これに対して日帝統治開始以後の監獄の状況について著者は、「毎年監獄が増えて条件が改善した結果、
少なくとも大型化された監獄は他の国の監獄に匹敵する状態にあり、アメリカ国内の大部分の監獄よりず
っと良い状態だった」と指摘する。
(以下略)
▽ソース:毎日経済(韓国語)