20世紀初頭、東北アジアで最もモダンだった?
朝鮮人など50以上の民族が集まり、市街地や水洗トイレも
中国の東北工程、中朝経済特区の中心…南北統一後は地理的重要性が増大
「満州」が再び目覚めている。1世紀前は東アジア激動の震源地だったこの場所に対し、再び
各国の関心が高まり、韓国の学界でも熱い話題となっている。
今年5月13日に満州学会が「万宝山事件」80周年学術会議を開いたのに続き、来月にはソウル
大学奎章閣が「満州国の記憶と現在」をテーマに国際シンポジウムを開く。9月には「満州事変
と満州国」を特集する国際学術会議もソウルで開催される。研究書も続々と出ている。最近出版
された『満州映画協会と朝鮮映画』をはじめ、『満州国の誕生と遺産』『満州モンゴルは朝鮮人
の地だった』『満州地域韓人遺跡踏査記』『満州国の肖像』『満州を行く』など、ここ3年の間に
出版されたものだけでも10冊を超える。東北アジア歴史財団は、今年初めに『東北亜歴史論叢』
で満州国時代の人口移動を特集したのに続き、最近『移民と開発:韓・中・日3国人の満州移住
の歴史』を出版した。
■辺境から話題の中心へ
これまで韓国にとって満州は、ぼんやりとした「記憶の地」だった。一時は古朝鮮・高句麗・
渤海と続く先祖の故地だったが、近代以降、満州は「抗日闘争の聖地」としてだけ伝えられて
きた。ところが今、学界はそれ以上の「複合性」に注目している。とりわけ満州の「周辺性」と
「融合性」は、幾人もの学者を引きつける要因だ。19世紀の満州には、漢族・満州族・ロシア人
・朝鮮人・日本人・モンゴル人のほかにも、フランス・ドイツ・ポーランド・ウクライナ・タタール
など50以上の民族、45の言語が混在していた。
http://file.chosunonline.com//article/2011/07/10/613257655584228646.jpg 日本が1906年に設立した南満州鉄道株式会社の特急列車「あじあ号」。蒸気機関車としては異例
の流線型をしていた「あじあ号」は、最高時速134キロで満州を走った。
/写真提供=東北アジア歴史財団
http://file.chosunonline.com//article/2011/07/10/738216976385637934.jpg ユン・ヒタク韓京大学教授は「多様な民族を吸い寄せるブラックホールであり、欲望が幾重にも
重なった空間だった」と語った。1930年代、朝鮮では大々的な「満州行きエクソダス(脱出)」が
起こった。生きる道を求める開拓移民と、日帝の政策移民が重なった結果だった。40年の時点
で、満州には日本人82万人、朝鮮人145万人が暮らしていた。光復(日本の植民地支配からの
解放)のころ、現地の朝鮮人は216万人に達していた。
知識人や芸術家の間でも、満州行きが流行した。自国での活動に限界を感じた東アジアの文人
たちは、1カ所に集まり「満州文学」という独創的なジャンルを生んだ。韓国映画の先駆者に挙げ
られる羅雲奎(ナ・ウンギュ)・尹逢春(ユン・ボンチュン)も満州で育ち、柳致環(ユ・チファン)・
李泰俊(イ・テジュン)・韓雪野(ハン・ソルヤ)などが紀行文などを残した。満州を素材に朝鮮や
日本で作られた歌謡曲だけでも、500曲(朝鮮110曲、日本400曲)を超える。釜山−満州−北京
を結ぶ特急列車が弾丸のように駆け抜けた場所でもある。
韓錫政(ハン・ソクチョン)東亜大学教授は「満州に渡った朝鮮人の、あまたの縁がこもった現代
史のブラックボックスが、今になって開かれている」と語った。このところの朝鮮族や脱北者の
問題も「満州への関心の復活」をもたらす一助となった。20世紀東アジアのディアスポラ(ギリシャ
語で「離散」)として浮き彫りになり、満州研究は一国史のレベルを超えて国際的・学際的性格を
帯びている。
>>2へ続きます
朝鮮日報 2011/07/10
http://www.chosunonline.com/news/20110710000002