林慶業(イム・ギョンオプ)は、丙子胡乱(1636−37年に起きた清の朝鮮侵略)で清に捕らわれた
昭顕世子を救おうと済物浦を出発した後、すぐに船内の食べ物がなくなったため、ある島に降り
立った。林慶業は針葉樹の枝を干潟に挿しておき、水が引くと、枝に掛かったイシモチを捕って
食糧にしたという。林慶業のイシモチ捕りの話は文献にはないが、島の人々は、林慶業のおかげ
でイシモチがよく捕れると信じてきた。延坪島の漁民たちは、林慶業を祭る「忠愍祠」を建て、
今でも毎年豊漁祭を行う。
仁川市甕津郡は1995年、朝鮮王朝時代の小説『沈清伝』で沈清が身を投げた「印塘水」が西海
(黄海)のどこなのか、調査してほしいと民俗学者たちに依頼した。学者たちは、考証の末、ペン
ニョン島と北朝鮮の長山串の間の海が印塘水で、沈清が生まれた場所は黄海道黄州だと発表
した。これを根拠に、印塘水が見えるペンニョン島鎮村里には「沈清閣」が建てられた。ペンニョン
島の近海は『沈清伝』で描写されたように潮の流れが速く、昨年起きた哨戒艦「天安」沈没事件
でも、行方不明者の捜索で苦労した。
ペンニョン島・大青島・小青島・延坪島・ウ島の「西海5島」は、このようにさまざまな伝説がある場所
だが、6・25戦争(朝鮮戦争)の時は、制海権を掌握するため激しい争奪戦が行われた。1951年4月、
西海の島を確保せよという命令を受けた海兵隊は、江華島の横にある喬桐島に続きペンニョン島
を占領、さらに5月には席島と椒島まで掌握した。席島と椒島は、北朝鮮の鎮南浦から30キロ、
平壌から70キロしか離れていない要衝地だ。
朝鮮人民軍は52年3月、目と鼻の先にある二つの島を奪おうと反撃に出た。海兵隊は、島を守って
いた小隊の隊員のほとんどが死亡・行方不明になるほどの激戦を繰り広げ、島を守った。しかし
53年7月27日の休戦協定と共に、クラーク国連軍司令官は西海北方限界線(NLL)を布告し、NLLの
北にある席島と椒島は北朝鮮側の島となった。要衝地の2島を取り返した北朝鮮は、20年間NLLに
ついて何も言わなかったが、73年になると「NLLは無効」と挑発を始めた。
西海5島の防衛を専門に受け持つ西北島しょ防衛司令部が、おととい創設された。海兵隊を母体と
する、韓国軍初の陸海空合同司令部だ。昨年起きた延坪島砲撃事件の際、韓国軍が迅速に対応
できなかったという指摘を受けての措置だ。9月からは攻撃ヘリ「コブラ」や精密誘導兵器も配備
される。北朝鮮は、ペンニョン島から50キロしか離れていない高岩浦にエアクッション艇の基地を
作り、再び緊張を高めている。西北島しょ防衛司令部が、先輩軍人たちが血を流してきたNLLと
西海5島の確固たる守り手になると信じている。
鄭佑相(チョン・ウサン)論説委員
朝鮮日報 2011/06/17
http://www.chosunonline.com/news/20110617000037 イラスト
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