【日中】歴史振り返る:日本海軍青島占拠の裏側[05/21]
1 :
依頼2@なつあかねφ ★:
http://images.china.cn/attachement/jpg/site1004/20110520/001ec94a25c50f40218b04.jpg 多くの日本企業と日本人移住者達がいた青島は、長い間日本軍にとって戦略目標の重点的存在だった。
1937年「七七事変(盧溝橋事件)」勃発。7月11日、日本海軍中央部は機密第242号令を発布、
青島における海軍の用兵方針を確定し、「青島での事態悪化に備えた兵力」を配備し始めた。
更にその同日、日本の陸軍と海軍は「やむをえない場合は青島、上海付近で日本人移住者達を
保護する」とし、それを「陸海軍が必要な兵力を以って共同で行う」ことで合意した。
8月13日、日中戦争勃発。翌日、日本軍は直ちに青島への出兵を決定し、いわゆる「現地保護」
政策を実行、陸海軍は連携して青島における日本の利益「保護」に当たった。しかし、上海の
戦況が日本軍の戦略構想をはるかに超えるものであったため、海上で待機していた青島攻撃部隊
も上海への増援を余儀なくされ、日本は外交的手段を通じて、日本人を避難させ、一時的に青島
から撤兵することで青島当局と合意した。
■海軍の青島への単独突入
日本軍は、上海、南京の戦局が一段落すると、今度は青島への攻撃を計画。しかし、青島地上戦
の責任者である陸軍司令部が「陸海軍提携方針の下、華北地方所属部隊の青島西方への攻撃を
待って、海軍とともにこれを占領すべし」との考えを固持したため、先延ばしされていた。
日本海軍司令部と現地第四艦隊は、情勢から判断すれば、現在青島における中国兵力は少なく、
海軍は単独でこれを処理できるため、これ以上作戦開始を遅らせるべきではないと考えていた。
そして、陸海軍の意見は平行線のまま、日本第四艦隊豊田副武司令官により、海軍単独での青島
突入が提議される。
12月23日、日本陸軍が黄河を渡り、青島への攻撃態勢を整える中、海軍は歩みを速め、海上勢力
の優勢を利用し素早く青島入りし、先に占拠を遂げた。陸海軍は、青島侵略の過程で互いに先
を争う結果となった。
1938年1月7日、日本大本営海軍部は、「中国方面艦隊」長官に対し、「現任務を遂行するため、
時期を見て青島を占拠すべし」という大海令を発した。これにより、日本第四艦隊は攻撃日を
1月10日に決めた。
>>2へ続きます
チャイナネット 2011/05/21
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2011-05/20/content_22604703.htm
2 :
なつあかねφ ★:2011/05/21(土) 18:03:28.82 ID:???
http://images.china.cn/attachement/jpg/site1004/20110520/001ec94a25c50f40209202.jpg 青島侵略のため、日軍第四艦隊は航空母艦「龍驤」号、巡洋艦「足柄」号、軽巡洋艦「球磨」号、
水上機母艦「能登呂」号、特設水上機母艦「衣笠丸」号等60余りの艦艇を動員した。1月7日、
日軍艦隊は一斉に青島方向へと移動。1月10日7時52分、日軍第一波部隊は抵抗に遭うことなく、
陸上戦部隊は13時45分、全員上陸完了。この間、姜哥庄で哨戒任務に当たっていた2隻の軍艦
が8時35分に海岸付近の高台を約10分間砲撃した以外には特に大きな戦闘はなかった。15時30分、
青島市政府を占領、18時30分には市内掃討完了、青島を全面的に占拠した。
日本陸軍は青島占拠に対する自身の意図があった。陸上部隊の青島占拠が困難な状況に気付く
と、海上からも部隊を派遣、1月11日に青島港入りし、華北方面軍の基地を建設した。また、
国崎支隊を1月14日に上陸させ、青島付近での警備任務に当たらせた。交通施設が破壊されて
いたため、山東内地から青島攻撃に向かう陸軍の動きは遅く、1月19日にようやく青島に到着、
そして膠済沿線の警備配置が完了した。
■華北植民地の中心をめぐる争い
先に上陸した海軍が青島の重要建築物や施設、埠頭等を占領していたため、辺り一面に「海軍
管理」の張り紙が張られ、港湾管理部まで設置されていた。これらの建築物の管理、警備方法
について陸海軍の間には激しい摩擦と対立があった。双方とも青島での協議では決着がつかず、
1月27日、大本営陸海軍の調整によって、ようやく合意に達した。しかし、青島の第四艦隊と
第二軍間の交渉がなかなか進まず、港務、郵務、電務等について、ようやく合意が得られたの
は3月26日のことだった。この合意により表面的には問題解決となったが、間もなく陸海軍の
華北統治の中心を天津とするか、青島とするかで、双方の対立は再び表面化することとなる。
>>3へ続きます
3 :
なつあかねφ ★:2011/05/21(土) 18:03:41.73 ID:???
http://images.china.cn/attachement/jpg/site1004/20110520/001ec94a25c50f4020a603.jpg 天津と青島はともに華北の要地であり、華北植民地の中心をどこに置くかで、日本軍上層部の
意見は2つに分かれていた。それが、陸軍の主張する「天津中心論」と海軍の主張する「青島
中心論」だった。七七事変(盧溝橋事件)後、天津港は日本が統治する華北地区で唯一爆撃を
受けていない港だった。1938年6月、日本が制定した華北産業開発第一次五年計画では、青島港
を中心とする山東資源開発計画は、その重点計画となっていなかった。
しかし、青島出張所の実権を握る海軍部が「青島中心論」を固持し、これをもって華北地区の
発言権を奪い取った。青島港の修復や拡張、そして綿糸工場の再建が進むにつれ、青島の経済力
や潜在的可能性が突出し、日本は青島の戦略的地位を見直すようになる。大規模な調査を行い、
青島を中心とする「山東開発計画」等の戦略を打ち立てた。1941年末には、しだいに「青島
中心論」が「天津中心論」に取って代わり、青島の戦略的地位はより多くの日本軍上層部に
認められるようになった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年5月20日
おれが青島だぁ!
5 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/21(土) 18:06:21.25 ID:crztks1E
今の日本を考えると戦前の日本が全く違う国に感じる
凄すぎる
6 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/21(土) 18:06:23.57 ID:ECKFyHeA
ヒント:なんで今日この記事を出したのか
7 :
角さん知る!:2011/05/21(土) 18:07:34.37 ID:i3/9t27c
記事のタイトル詐欺だな。
まぁまぁ面白い記事ではあったけどな。
9 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/21(土) 18:10:09.53 ID:sRL125j1
天津ってたしか
あのあたりは、日清戦争で得た土地だから
完璧に日本領土のはずなんだよなあ。
第二次大戦で負けたけど、天津は日本領じゃなきゃあ変だと思う。
10 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/21(土) 18:12:49.01 ID:cQao2wWh
なるほどな
60万の棄民は可能な限り殺してから返したほうがいいのか
11 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/21(土) 18:22:37.05 ID:sRL125j1
なにせ、中国って
「清を受け継いでるから、チベット満州ウイグルは自分の物」
って言ってるんだよ。
だったら、日本は清に勝って得たものは日本領土のはずだよな・・・?
12 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/21(土) 18:27:27.20 ID:ofPeHr8v
意地悪婆さんか!?
13 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/21(土) 18:36:30.25 ID:z51F395b
>>11 ちなみに清の支配者の満州人はチベット人、ウイグル人は自分達に匹敵する文化人と見なし対等に付き合い彼ら独自の風習も尊重したが
漢人は文化を知らない野蛮人と見なし奴隷状態におき「優れた」満州族の風習を押しつけ漢人独自の文化風習をほとんど認めなかった。
清を受け継いでいるのならこれも受け継がんと。
14 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/21(土) 18:44:55.98 ID:Aw1bfNJW
チンタオって ドイツの租借地じゃなかったけ?
チンタオビールしか、中国には無かったよな〜
15 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/21(土) 19:01:06.49 ID:+eJIM/CD
青島、香港、北京、上海、は何故か日本語読みしない
16 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/21(土) 20:10:52.31 ID:zotqp6Cu
下関条約でもらったのに三国干渉でしぶしぶ返したはずが、
返せといったドイツのものになってて、第一次大戦で
取り返したんだと認識している。
文句言われる筋合いはないな。
17 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/21(土) 21:49:32.85 ID:FEVDSQdW
うちのじいさんの乗った艦艇が最初に上陸したが、やぎが一匹か二匹程度しか
いなかったと聞いとるぞ。
都知事と同じ青島です。
19 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/22(日) 02:29:36.30 ID:8X5Fmo/G
日露戦争は、大航海時代後、歴史が地球規模で相関する近代に於いて初めて有色人種が白人に
勝った戦争であり、白人による全世界植民地化競争の終焉であり、有色人種の各民族自存自立
への転換点だったのだ。日本にしてみれば、阿片戦争・天津条約など欧米露の列強による清国
侵略が進む状況で朝鮮半島の安定が日本の安保上重要であったのだが、朝鮮は清の属国であり
朝鮮が独立国として安定することに清は同意せず日清戦争に至った。
日清戦争での日本の勝利により下関条約で半島は属国から脱したが、独立国としては自立発展
が出来ずに、朝鮮領土の保全防衛も出来ずロシアに侵食される事態となった。
日本は、ロシアの朝鮮半島侵略を防ぐため日露戦争へと至ったのである。
日露戦争の勝利によりロシアの南下侵略を阻止し、アジアの独立を守ったのである。
19世紀末から20世紀初頭は、この様な帝国主義が世界標準だった時代なのだが、朝鮮半島
の視点から見たら、最終的に日本に合邦されてしまったので「侵略された」ということになって
いるのだ。100年後の21世紀、有色人種も自国を持ち独立できたのだ。半島や支那は20世
紀初頭の価値観だけで日清・日露の両戦争を評価するという愚を犯している。
100年前の朝鮮半島や支那は世界標準である帝国主義になる実力がなかった国であった、という
のが真相だ。そして21世紀の現在、世界の標準は自由と民主主義人権尊重となっているのだが、
捏造した歴史を国定教科書として国民を洗脳したり、人口20万人の南京で30万人を殺した
などの虚偽をタレ流したり、いまだ国民に発言の自由がないなど、これまた21世紀の世界標準
を実現できない非先進国が中共支那の実情なのである。
中共支那は、虚偽の歴史を語るのをやめ、100年前の自国の未開ぶりと現在の実力のなさの両方
を謙虚に反省すべきである。そのことに気が付かないのなら、100年後の22世紀初頭に於いて
も支那は三流国のままであろう。
20 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/22(日) 02:31:16.32 ID:7JaZdSmR
韓国と違って中国の歴史研究家は本物。学問に一歩近い。