【竹島】独島は我が領土とする人々にお願いしたい 韓国が日本の領土を侵奪したという過ちを認め返還する努力を始めることである [04/07]

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291<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
猛の竹島日記 石島=独島説の秘密
http://take8591.blog82.fc2.com/?mode=m&no=57
  そうして全羅南道沿海民たちは、かれらが目撃したり到達したこの島を"Dok seom"と呼んだと見られる。
それは(1)獨島はよく知られているように、木が一本もなく、草すらあまり育たない石(岩)でできた島であることに
加えて、全羅南道の方言では、石を Dolと呼ぶ例外はないでもないが(光州)、ほとんどが Dokと呼ぶか、
一部の地方(麗水、順天、康津、霊光)で Dolおよび Dokと混用して呼んでおり、この石でできた島をかれらの
方言にしたがって "Dok seom"と呼ぶようになったのはごく自然なことであると考えられるからである・・・
 (yabutarou01 注、「考えられるからである・・・」の「・・・」に着目して下さい。ここに重大な秘密が隠されています。)
  すでに前に書いたように、今でも鬱陵島民は獨島を "Dok seom"あるいは "Dol seom"と呼んでいる。
(引用終わり)


石島=独島説の秘密2 2008/ 2/ 5 2:04 [ No.16260 / 16494 ]

投稿者 :
yabutarou01



私はこの文章を読んでてっきり「勅令41号が発布された1900年当時の鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数
を占めていた」と宋炳基氏が自らの論文で主張しているものと解釈してしまいました。恐らくこの文章を読んだ人
ほぼすべてがこのように考えることでしょう。
内藤 正中・金 柄烈共著『 史的検証竹島・独島』の中で 内藤氏が「島に移住してきた人たちの大多数が全羅道の人
であることは前述した通りであるが、この石島が独島であるということについては、全羅道の方言で石(トル)を
独(トク)と発音することから、トル島がトク島になり、中央政府が漢字表記するにあたり、石島にしたものである。
(48ページ)」としているのも宋氏が主張したものであると私は思っていました。
しかしこれは事実ではありませんでした。半月城氏が引用した宋炳基氏の論文の文章の最後の一行の手前の
「・・・」となっている部分には実はこのような記述が省略されていたのを発見しました。

全羅南道沿海民たちが呼んだこの 「独島」と言う島名は1883年(高宗 20)から入居し始めた島民らに影響を
与えたはずだ。
しかし、それは入居人たちの方言によっていくら位ラムシックドエオ二つの語形が共存したということも見当を
つけることができる。
入居人たちの出身地は詳らかにわからないが、地理的関係を考慮したら、初入居の時のように江原道が一番
多かったし、その次が慶尚道だったことと考えられる.20)
だからこの入居人たちは彼らの方言、すなわち江原・慶尚道の方言によって21) 'Dok seom'を 'Dol seom'と
呼んだりしたはずだ。
(日本語)
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/choku41li.html
(韓国語)
http://i815.or.kr/media_data/thesis/1996/199614.html
292291:2011/04/11(月) 03:43:21.23 ID:eUnxFwSn
 この省略された文章からは二つのことが分かります。
 一つ目は宋炳基氏は1882年に李奎遠が鬱陵島で出会った全羅南道沿海民を鬱陵島開拓民として移住して
きた人たちであるとは考えていないということです。
宋氏は全羅南道沿海民たちについて「船乗りで造船、採かく、採魚などに従事したが、春に鬱陵島へ来て木を
切り船を造ったのち、ワカメを採取し、魚を捕らえて帰った。」と書きましたが、これはあくまで出稼ぎ行為にすぎず
生活の基盤が鬱陵島にあったわけではなく彼らを開拓民または移民と呼ぶのは適切ではありません。
一方鬱陵島の開拓は李奎遠の検察の翌年1883年に始まりそれによって鬱陵島に開拓民・移住民がやって来た
のは広く知られた事実です。
 二つ目は宋炳基氏は勅令41号が発布された1900年当時、鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めて
いたと考えていたわけではないということです。
「入居人たちの出身地は詳らかにわからないが、地理的関係を考慮したら、初入居の時のように江原道が
一番多かったし、その次が慶尚道だったことと考えられる。」とあるのを見ればこれは明らかです。

実は「1882年に全羅道民が鬱陵島で多数派であったことを根拠に勅令41号が発布された1900年当時の
鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めていた」と主張する説は愼纛(ハンキンポ)氏の唱えた説です。
愼纛氏の獨島百問百答Q60.にはこのようにあります。

これに大韓帝国の政府は、1900年10月25日付の勅令第41号において全文6条からなる「鬱陵島を鬱島に改定し、
島監を郡守に改定する件」を「官報」に掲載し公布した。
(中略)  そして石島が獨島をさすことは間違いない。当時、鬱陵島住民の大多数は全羅道出身の漁民であったが、
全羅道の方言では「Dol(石)」を「dok」とし、
「Dol Seom(石島)」を「Dok Seom」とよぶ事実はよく知られており、大韓帝国政府は「石島」を意訳して「石島」と
したのである。

http://www.han.org/a/half-moon/hm103.html#No.755

どうやら半月城氏は愼纛氏の説を説明するために宋炳基氏の論文を引用したものの都合の悪い部分が
あったので「・・・」でごまかしてしまったようです。
 半月城氏は「大韓民国海洋水産開発院独島研究センター海外諮問委員」として大韓民国の看板を背負って
活動されていらっしゃるはずなのに、どうしてこのような「・・・」なことをされているのでしょうか。。私には皆目
理解が出来ません。。。
293<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/04/11(月) 03:53:54.61 ID:eUnxFwSn
「観音島はまるで石柱」 島嶼巡礼 鬱陵島方面(八)
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/51686997.html
島嶼巡礼 鬱陵島方面(八)
東亜日報 1928.9.8

避難処あり、ここが藥草東山
通路は数十尺の藺草
俗人は住めない海上の天国


石柱の上に観音島、海上にそびえ立つ

  その横には、高さが三百五十尺の切り立った島があるが、四方から見れば石柱がこの島を支えており、
その中には石仏形状の岩がいくつもあることから、この島を観音島と呼ぶ。陸地の石柱で建てた大きな建物と
そっくりだ。そこから少し船で行ったところに竹島という島があるが、この島は、鬱陵島に次ぐ島司がいる島だという。
この島もまた四辺から見れば○○二百五十余尺の絶壁で、船を着ける所としては窟のような岩の下しかない。
この島は周囲が10余里で、面積5万4000坪、二尋(ひろ)三尋になる多くの竹が取り囲み、その中は雑木が
生い茂っている。


  そういう推論を牽制するかのように、半月城氏が「この島が石島と呼ばれた形跡はまったくありません。」
 と書いたりする(半月城通信 No.95 2003.5.29)ので、杉野さんが、いやいや観音島と「石」というものを
 結びつける材料はありますよ、といってこの記事を紹介したわけです。
 http://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10113508151.html

 この記事では、「四方から見れば石柱がこの島を支えており、その中には石仏形状の岩がいくつもあることから、
この島を観音島と呼ぶ。陸地の石柱で建てた大きな建物とそっくりだ。」とあって、観音島と「石」というイメージとの
結びつきとして、島の外観・構造が石のようだということと、島の上に「石仏」のような岩があるという二点が
報告されていますが、島の様子がそういうものであるならば、「勅令第41号の石島は観音島のことではないか」
と推論することは別段おかしいものではない、と言えます。
 私は「石島はどこか」という過去スレで「石島はすなわち独島であるという韓国側の主張は怪し過ぎる」と
書いて来ましたが、では石島はどの島のことかと問われれば、やはり観音島のことだろうと思っています。



★大韓帝国勅令41号の「石島」の正体は・・・
http://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10113508151.html
1928年9月8日東亜日報
漢字交じりで「石柱優恵(?)観音島」という小見出しの後、赤線部分には
その中には石仏形状の岩が幾つかあるとのことで、この島を観音島という
という記述が見られます。
つまり「観音島」はかつて「石仏の島」だったわけですね。
ようするに観音島は、「石仏」という「石」を含む言葉が由来の島だったわけです。
となれば、今まで「石」という言葉となんら関係が見られない、という従来の主張は間違いだった
ということになるわけです。
「石仏」が語源であれば、かつてこの島は「観音島」ではなく、むしろ「石仏島」に近い韓国語の
固有語表現で呼ばれていた可能性が出てきます。


ここで、「大韓帝国勅令四十一号」の第一条をもう一度、読み直してみます。

第一条
鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にすること

最初の条文から、何の前触れも無く、漢字の一字を削除して鬱陵島を鬱島にすることが記載されています。
となれば、その附属島嶼の石仏島(?)も漢字一字を削除して石島になったとしても、可笑しくはありませんな。
294<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/04/11(月) 03:55:43.61 ID:eUnxFwSn
★于山島はまぼろしの島だったと報道されていた。
http://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10086146451.html

【竹島】鬱陵島の属島、「小于島」「大于島」が描かれた朝鮮の絵図二枚を確認 「石島は独島」説否定[11/28]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1196238896