【コラム】【歴史に消えた参謀】吉田茂と辰巳栄一(43)朝鮮戦争の勃発[10/12/26]

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1天の書記φ ★
■旧日本軍が米軍を助けた
 本州西端の山口県は、対馬のある長崎県と並んで朝鮮半島からの密航者の多い土地であっ
た。田中義一元首相の長男、龍夫は昭和22年、36歳でその山口県の民選知事になると、
庁内に「朝鮮情報室」をつくった。
 直線で217キロほどだから、半島とは指呼の距離にある。半島からの中波や短波を傍
受して県庁内だけでなく、日本政府にまで分析内容を送っていた。山口県には、朝鮮語を
話す朝鮮総督府時代の官吏や朝鮮の内情に通じた県警察部の担当者が少なからずいた。
 田中龍夫は単なる傍聴を指示するだけでなく、半島内に「情報員までも派遣していた」
(庄司潤一郎「朝鮮半島と日本」『MAMOR』所収)という周到さである。国内の地方
自治体が、半島に限っては政府をしのぐ情報力を持っていた。
 その朝鮮情報室が25年に入って、半島情勢に異変があることを察知した。
 庄司によると、田中は6月21日に上京して、大磯の別邸にいた首相の吉田茂に「北朝鮮
が侵攻する可能性が高いから、何とかしてほしい」と訴えた。事変が起きれば、無数の難民
が山口県に押し寄せ、亡命政権ができる可能性すらあった。
しかし、吉田はわずか3日前に38度線を視察したジョン・F・ダレス特使(後の国務長官)
が日本に立ち寄り、「米軍の士気は旺盛で装備も充実しており、決して心配ない」と言った
とニベもなかった。

■無視された「山口県情報」
 ことは緊急を要する。田中はただちに、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー司
令官に面会を求めたが、これもあっさり断られた。しかし、山口県のインテリジェンス能
力の高さは侮れない。まもなく、田中の心配が現実になった。
 1950年6月25日午前4時、朝鮮半島の北緯38度線で、北朝鮮軍が怒濤(どとう)
の南進を開始したのだ。冷戦の最前線である欧州正面ではなく、遠く離れた極東の一角で
熱戦に転化した。
 3年1カ月に及ぶ朝鮮戦争の幕開けであった。
 当時の新聞は、戦争とはとらえずに「朝鮮動乱」と呼称した。宣戦布告もない半島内部
の内戦ととらえたのだ。
 しかし、元陸軍中将、辰巳栄一はその日の日記に「北朝鮮軍 南鮮に侵入の報。戦争の
即発、世の中より絶えぬものか」と書いた。翌日には「朝鮮問題に世情騒然」と表現した。
 北の指導者、金日成は、この1月のトルーマン政権の国務長官、ディーン・アチソンの
発言に注目していた。長官は「米国が責任を持つ防衛ラインは、フィリピン、沖縄、日本、
アリューシャン列島までである」として、この「不後退防衛線」に韓国を含めなかった。
 その趣旨は、「太平洋の制海権だけは絶対に渡さない」という意味であり、日本を共産
主義の防波堤と位置付けた。しかし、金日成はそうはとらずに、「米国による西側陣営の
南半部放棄」と受け取っていた。
 国連安保理事会は25日午後2時(韓国時間26日午前2時)には、ソ連欠席のまま北
の侵攻を「侵略行為」と認定した。北の戦闘停止と38度線までの撤退を決議した。
 マッカーサーは25日午後6時、来日中の講和問題特使、ジョン・F・ダレスと会談し
ていた。増田弘の『マッカーサー』によると、その際にマッカーサーは北朝鮮の軍事行動
を「単なる威力偵察」ではないかとみなしていた。攻撃は全面的なものではないし、「ソ
連は背後にはない」などと語った。
 講和問題で初来日したダレスは、首相の吉田茂と会談したばかりだった。朝鮮半島の一
角で熱戦の火ぶたが切られたと知ると、予定を切り上げて急遽(きゅうきょ)帰国した。
ダレスはマッカーサーほど半島情勢を楽観してはいなかった。
 事実、完全に虚を突かれた韓国側は前線の部隊が総崩れになり、首都ソウルは3日で陥
落した。隣国の激変は、日本にも直接的な影響を与える。九州地方には厳重警戒令が出さ
れた。
 マッカーサーの楽観主義は完全に覆された。そしてダレスは29日に、国務省に対して
覚書を提出していた。
 「東京のGHQは(中略)三日目にソウルが敵の手に陥るまで、攻撃を深刻に受け止め
ていなかった」


産経新聞(10/12/26 07:36)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101226/acd1012260738004-n1.htm

>>2以降に続く
2天の書記φ ★:2010/12/26(日) 21:46:26 ID:???
>>1の続き

 GHQ内でも参謀第2部長のウィロビー少将は、北の本格的な南進前から北朝鮮と韓国
が38度線をはさんで小競り合いしていたことはキャッチしていた。「北侵攻」の報で、
G2傘下の諜報組織「キヤノン機関」には、朝鮮総連が蜂起する危険ありとみて動きを探
るよう命じた(延禎『キヤノン機関からの証言』)。
 開戦と同時に、ウィロビーは首相、吉田の軍事顧問である辰巳らと接触した。
 辰巳は「あの時、日本軍人が米軍にアドバイスをすることになった」と、第3師団長時
代の部下だった弁護士の柏木薫に語っている。昭和55年7月のインタビューでも、辰巳
は日本軍人の関与を語っていた。
 「朝鮮戦争が起きてからは、いろいろと戦争の指導までやらされましたしね。当時アメ
リカでは、朝鮮の地形などよく知らない。そこで参謀なんかがやってきて、私たちも朝鮮
のことをよく知っているのを呼んできて、いろいろ話し合う機会をつくったりしました」
(大嶽秀夫編『戦後日本防衛問題資料集第一巻』)。
 日本には韓国を併合(1910年)して以来35年間にわたる朝鮮統治の蓄積があった。
そのトップである朝鮮総督は、歴代陸海軍の現役大将が握ってきたことから軍内部に朝鮮
半島に関する情報が集中していた。
 辰巳らのアドバイスを受けて、ウィロビーは戦争勃発の翌26日には、丸の内の日本郵
船ビルに旧陸海軍の情報将校を中心に陸軍陸地測量部、海軍水路部の専門家を招集した。
 旧海軍水路部からは佐官級が10人にのぼった。元海軍大佐の大東信市は、朝鮮半島の
沿岸部に関する潮の流れ、港湾地誌など水路図を示しながら説明した(大東の子息、信祐
へのインタビュー)。
■日本軍地図を活用
 また、元特務機関員の話から、米軍が使った戦略地図の多くが日本軍のものであったこ
とが裏付けられた(平成22年11月24日付産経新聞)。これら元特務機関員の手元に
は、日本軍の砲台を示す「羅津要塞防衛配置概略図」のほか、満州への足掛かりとなった
永興湾の要塞地図などがあった。
 さらに清津、南浦などの港湾都市や日本軍の弾薬庫、造船所、学校、病院、工場などを
示す地図が無傷のまま保管されていた。縮尺が1万分の1から5万分の1だから、米軍が
軍事目標を容易に設定し、運用するにはうってつけであった。
 彼らは郵船ビルの2階と4階に部屋を与えられ、裏口から出入りした。朝鮮戦争の期間
中、最大で120人が情報の提供、分析、作図などで米軍を支援していた。
 それらの地図は、大きな油紙に微細なペン字で等高線が引かれ、随時、新たな情報を加
えて更新した。元陸軍将校の中には、終戦と同時に焼却処分をしたはずの参謀本部資料を
隠し持ち、それを風呂敷包みでGHQに持ち込んだ人物もいた。
 この極秘行動について、日米両軍の関係者はいっさい口をつぐんできた。冷戦の激化に
よって日本軍関係者の関与が明らかになると、ソ連を刺激することになるからだ。
 実際には、こうした動きを察知したソ連代表のウラジーミル・バズイキンが昭和25年
11月、極東委員会で「ポツダム宣言と極東委員会の決定に違反する」と非難した。
 これに呼応して、日本国内の左翼勢力からも「米帝国主義が日本軍閥を戦争に利用して
いる」との宣伝に使われる懸念があった。=敬称略(特別記者 湯浅博)


以上。