【北朝鮮】船から見たみすぼらしい北朝鮮、「地上の楽園」の入り口は「地獄」の入り口だった…脱北者が語る北朝鮮の現実[11/21]
韓国は脱北者2万人時代を迎えている。脱北の流れの一方には在日同胞出身の脱北者がいる。
今200人余りの脱北者が日本にいる。彼らを支援する在日本大韓民国民団に脱北者取材支援を要請し、
イ・サンボンさん(仮名・65)と18日に東京で会った。彼は47年間にわたり脱出を考え準備した。
映画「ショーシャンクの空に」をしのぐ忍耐だった。脱北理由は通常の脱北者とは違った。
「お腹がすいたのでなく、自由を取り戻しにきた」と話した。苦労を重ねた彼の顔はしわだらけだった。
「北に残った家族が心配だ」として仮名を要請した。
1960年5月、福井県。2人の朝鮮総連幹部がイ・サンボンさん(当時16才・高1)の家に来た。
彼らは家族を集めてバラ色の宣伝を並べ立てた。
「子どもが多いが両親が老いていて教育費を出すのが大変だ。金日成(キム・イルソン)が指導する北に行け。
帰国すれば老人は仕事をしない。冷蔵庫を開ければ肉と野菜があふれている。病院でもお金を取らない。
教育費は無料で、うまくすれば欧州に留学に送ってくれる」。
当時65才の年齢で肉体労働者としてかろうじて生計を立てていた父親は乗り気になった。
長屋2部屋を借り、1部屋は結婚した李さんの兄(当時27才)が使い、残りの4坪の部屋で両親と2男2女の兄弟の6人が暮らした。
19才の姉は紡織工場に通い、母親(当時49才)はリヤカーを引っ張って古新聞を拾った。
再婚した母親が連れてきた李さんの兄は履き物工場の従業員だった。
それでも貧しい日本の人々がだれでも食べている“1日3食コメの飯”は夢にも思わずさつまいもを食べた。
ブリキの屋根は雨漏りし、風が激しければ飛んで行った。
母親は北送に猛烈に反対した「韓国戦争が終わって7年で地上の楽園などと戯言か。当面は残り北に行かないほうが良い」とし、
父親に「この人たちを追い出せ」と行った。両親は毎日けんかした。父親は母親に暴力も振るった。
朝鮮総連の集中攻略に陥落した父親は7月に「帰国希望申込書」に印鑑を押したが、「1人で行け」と反発する母親に引き留められた。
さらに2カ月後に朝鮮総連が「それでは妻を残して子どもたちだけ連れて行け」と言い出し、母親はあきらめた。
9月17日午前10時。李さん家族6人は兄だけ残して日本を離れた。荷物はなかった。
餞別金5万円と乗っていた自転車2台がすべて。親戚30人余りが相変らず「行くな」と言った。
北送僑胞列車に乗せられて集合地の新潟港に向かうのに300人余りの民団の人々が汽車を阻み肉弾戦も展開された。
北送僑胞は新潟センターに集まって5日間過ごした。日本人夫人たちが子どもを置いて逃げるのも続出した。
そのたびに大騷ぎが起こった。やがて1800人とともにソ連の船「クラリオン」に乗り2泊3日で清津(チョンジン)近海に到着した。
午前11時。清津港はみすぼらしかった。母親が「みてごらんなさい」ととがめても父親は口を開けられなかった。
紙で作った花を振る学生たちの裂けた履き物の間から足の指が飛び出していた。「間違った。逃げなければ」と考え始めた。
李さん家族は炭鉱行きだった。炭鉱には“不純分子”の越南家族や国軍捕虜らがいた。
配置過程で山間の僻地に追い出されることになった神奈川出身の青年4人が幹部らと戦った。
次の日彼らは消えた。家族の夢はめちゃめちゃになった。頭に来て学校にも行かず、1ヶ月後に行ったら「金日成」という言葉をとても多く聞いた。
http://japanese.joins.com/upload/images/2010/11/20101121100842-1.jpg 写真=北送される僑胞たちが集合した日赤新潟センター。18日に会ったイ・サンボンさん(仮名)は「地獄に向かう入口だった」と表現した。
(民団提供)
ソース 中央日報 2010.11.21 09:53:39
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=135092&servcode=500§code=500 http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=135093&servcode=500§code=500 続きます
>>1の続き
■死刑場で6歳の子どもの残酷な死目撃
2カ月後の11月。あきれる事件を体験した。
「日帝時代にしっかりと食べ楽に暮らしていたことを隠した」という罪状で集団銃殺される現場を見たのだ。
血が飛ばないよう口をふさぎ、からだには分厚い綿入れを着せた。目隠しもした。そして1人に9発ずつ撃った。息がつまった。
教育が無料だと? 入学金はなかったが愛国献納金や寄付金などと言い苦労して金を工面した。母親はナムルを売った。
報告をしなければ自由に通うこともできなかった。日本では貧しかったが拘束は受けなかったのに。苦しくてくやしかった。
寝てもさめても逃げることを考えてばかりだった。
7年後の23才、大学生の時に中国へ逃げた。日本行きを目標に緻密な計画を立てた。
4カ月かけて長春まで行ったが、中国の公安に捕えられ帰国した。調査を受けたが「見物に行った」と言い訳した。
翌年直腸がんにかかった父親は「おまえたちに大きな罪を犯した」という遺言を残し息を引き取った。
李さんはなにもかもあきらめる心情になり適応を始めた。党員にもなった。帰国者に対して緩かった雰囲気は変わっていった。
70年代初めに金正日(キム・ジョンイル)が組織担当秘書として登場し、
総和を強化するとすぐに帰国者出身の李さんは毎日批判を受けるようになった。これを逃れるため “党幹部アパッチの娘”と結婚した。
北朝鮮の住民は帰国同胞を「在胞(チェポ)、帰胞(クィポ)」と、帰国同胞は北朝鮮住民を原住民という意味の「アパッチ」と呼んだ。
配給を受けてもいつも飢えていた。片っ端からあらゆる仕事をした。製紙工場・梅干し工場の労働者、警察労務者もした。
配給をたくさんもらおうと鉱夫になった友人らが生き埋めになるのも見た。
「帰国させて下さったことへの感謝」という口実で5年ごとに砂金掘りに駆り出された。
深い山の中に各自が食糧を持って行き小川で砂金を掘った。重労働ですぐに食糧がすっかり底をつき、
カエルや毒ヘビを捕まえて食べ、木の皮もはがした。帰国10周年、15周年、25周年と続いた。
そうした中、日本の兄に連絡がつき送金を受け始めた。
86年2月、両江道(ヤンガンド)の政治犯収容所を取り壊して金日成と金正日の別荘作りに動員され、ひどいものを見た。
老いた父親がトンネルを掘って脱出して捕えられ、理由も分からなず連れてこられた夫人・子ども・孫をすべて銃殺させた。
6才の子どもが恐いと言いながら縛られている母親の足にしがみついたがその上に銃を9発も撃った。
子どもの頭は割れ、脳髄と鮮血が飛び散り目玉が飛び出した。
もう耐えられなかった。88〜96年、中国に5回通って研究した。帰国者には出国許可が出ないので賄賂を使った。
兄に中国へ送金しろと言った後「お金を取りに行く」と言って出国し脱出ルートを模索した。
北は中ロ国境地域、南は雲南省まで行った。50万円の資金もこっそりと作った。そうするうちに94年に母親が亡くなった。
これ以上先送りする理由はなかった。作戦を開始した。
97年に初めに姉を日本へ脱出させた。夫は「苦難の行軍」で飢えて死に、息子と娘が1人ずついた。2002年に妹を送り出した。
夫は病死し、息子2人を連れて帰った。今はそれぞれ英国と韓国に暮らしている。
2003年に弟家族を韓国に送り込んだ。緻密に進めた。目標は初めから日本だった。
ところが中国公安が警備する日本領事館に行けば捕えられる。日本領事館職員の電話番号を調べ瀋陽のある食堂から電話をした。
約束場所と時間を決めれば来てくれ連れて行った。すべて成功した。
最後にイさんの番だったが問題が生じた。兄弟が全員消えたためすぐに疑いの尾行と監視がついたのだ。3年間にわたった。
保衛部員を5万円で買収した。家族同士の脱北会議もした。
妻は「捕えられればみんな死ぬので1人で行け。出て行って私たちを食べさせてくれ」と言った。
息子は30代、娘も嫁入りした。子どもたちを育て上げ、すべきことは尽くした。2006年9月のある日の夜、川を越えた。
2007年2月に瀋陽の日本総領事館に入り、5月に日本に来た。
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>>2の続き
■娘は監獄行き…20万円足りず手出しできず
ついに47年間夢に描いた自由を勝ち取った。しかしことはうまくいかなかった。
脱出してくれば助けてくれることになっていた兄が2007年2月に糖尿病の合併症で死亡した。
40年余りの間2000万円以上の支援を受けたが、頼る所がなくなったのだ。
民団の支援金10万円をもらい、家を借りるのにも支援を受けた。
生活保護者になり日本政府から月13万円を受け取っている。しかし家賃と公共料金を払うと残りは4万円。
年齢のために就職もままならない。そのため家族には30万円ずつ2回しか送れなかった。
「家族と一緒にいるほうが良くなかったか」と尋ねると、すぐに「北で暮らしてみたことのない人の言葉」と言った。
彼は今、思春期の時に断たれた文学と歴史に対する情熱をつないでいる。「心が本当に楽だ」と話す。
しかし実際は胸には岩が入っているようだ。脱出を助けた北の娘が捕えられ監獄にいる。
「50万円あれば解放されるのに…」。1円2円と何年もかけてためた金がいまやっと30万円になった。
ここまで