【中国論理】日本の若者達、その頭の中…馬挺(在日中国学者、早稲田大学政経学部現役講師) 中国網[11/06]

このエントリーをはてなブックマークに追加
1東京ロマンチカφ ★
つい先週、日本で起こった2つの出来事は、いい事と悪い事の両極端だった。

いい事は、約1000人で構成された「日本青年上海万博訪問団」が10月27日から中国を訪問したことである。
釣魚島船舶衝突事件で延期されていた中日民間交流活動が、万博閉幕前に輝かしく実現された。悪いことは、
先週末(10月23、24日)、日本国内で再び反中デモが勃発、参加者には若者の姿も多く見られたという。

若者の思想や心理状態はある意味、今後の中日両国関係の方向性を決定する。

戦後すでに60年以上が過ぎた。現在20歳前後の日本の「若者」は、戦後3世代目といえる。戦前、戦中及び
戦後に生まれた第1世代や第2世代と比べ、この世代は思想意識において質的に変化している。

(1)罪:遠ざかる罪悪感

その手を中国やアジアの人々の鮮血に染めたのは、少なくとも今の若者たちの祖父、曽祖父世代になる。今の
若者たちに2、3世代も遡ってそれを反省、謝罪させることは可能だろうか。

冷静かつ公平に論じて、日本人は「過去の戦争」に対し、すでに相当反省しており、更に今なお反省中である。
しかし、中日文化の違いは、それぞれの思想方法にも表れている。まず、日本人の歴史観が中国のそれとは全く
違う。中国は断代史観であるのに対して、日本は連続史観なのである。

歴史上中国では、二三百年に一度王朝交代が起っていた。新王朝は前王朝の「罪状」に対し、何ら責任を負わ
ない(心理的にも)。前王朝に罪状があったからこそ、自分たちがそれに取って代わったのだ。

しかし、日本では、伝説上の神武天皇(紀元前六七世紀)から数えるならば「万世一系」で、既に125代の天皇
が続いていることになる。「世代交代」はあったが「王朝交代」はこれまで一度も起きていない。

このような連続史観に、戦後の日本に漂った「一億総懺悔」論が加わって戦争責任追及に対する注意をそらした
こと、また進歩勢力の軍国主義への反発努力により、戦後数世代の人々は仕方なく過去の戦争に対して弁解
すると同時に、永遠に反省せざるを得なくなった。

だが、中日間においては、反省に対する立場が逆転しているだけでなく、その内包と外延、方法や結果等に対する
認識まで違う。

一世代前の日本人は確かに中国に対し申し訳ないことをしたと感じている。一部の人がどれだけその侵略行為を
合理化しても、心の中の「罪悪感」を抹消することはできない。1972年、中日国交正常化以降、日本は中国に
対し一連の援助を行ってきた。中国国内で、これらがめったに取り上げられないことに対し、日本は不満を持って
いるものの、いつも大きな主張へはつながらない。これは、その「罪悪感」によるものである。

しかし、時が移れば事情も変わる。今は飛行機やインターネットの世界的普及など、新しい時代に突入している。
筆者から見れば、欧米留学経験の有無に関わらず、現代日本の若者たちの頭の中での伝統的な歴史観と欧米
の現代思想の比率は、大きく変化した。

彼らにとって、一世代前に罪があるとしても、その罪を償ったり謝ったりするのは自分たちではない。祖父、曽祖父の
行為と自分に何の関係があるだろうか。また、欧米の所謂「自由」「平等」思想の影響で、国家間においても対等
に向き合うべきだという意識が高まっている。そして、中国人の心に根強く残る「歴史問題」も、彼らの目には、中国
はとかく「歴史問題」で日本を非難してくるのだというふうに映っている。

>>2-5あたりへ続く

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2010年11月5日
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2010-11/05/content_21283033.htm
2東京ロマンチカφ ★:2010/11/06(土) 15:16:16 ID:???
(2)嫌悪:中華思想

先日、中国人の同僚から聞いた話だが、近年、日本で中国語や中国関連問題を教える日本人教師の間で
「親中派」が減少し、代わりに、若い「嫌中派」が増えているという。これらの若者教師は、その前の世代の教師
より中国語のレベルが高いうえに、ほとんどが中国への長期留学を経験しており、中には中国の有名大学の修士や
博士課程修了者までいる。しかし、彼らの中に、先輩教師のような中国ファンはおらず、表面的には客観的に中国
を見ているようで、実は「嫌悪」感を持っている。

彼らは中国へ行き、そして今の職に就いた。食べていくためにはこの教師という仕事を続けるしかない。だが、彼らの
嫌う中国には、一般の中国人までもが含まれていることがある。

勿論、日本人全体においても本物の親中派は多くない。「知中派」と言った方がいいだろうか。一世代前の日本人
が好んだ、或いは熱中したのが中国の古代文化だった。彼らは、中国の古典を直接読め、漢詩を書く。私の周り
にも、時々漢詩唱和会まで行う日本の中国語教師達がいる。

それに比べ、若い世代の漢文レベルはというと、たった2000字程度の漢字である。しかも彼らが学んだ字は中国の
簡体漢字で、繁体字とは結びつかず、古典漢詩書籍等読めるはずもない。だが、中国の実情に関しては、彼らの
先生より多くのことを、身をもって知っている。ここにはもちろん中国社会の暗い一面も含まれている。これらの現実
を、彼らの価値観でもって判断すれば、「嫌悪」感が生じるのも無理はない。

日本人の「嫌中」を究明する際、よく言われるのが「中華思想」である。この言葉は主に秦、漢時代以降、中国が
自らを世界の中心としたことや、中国人がよく強烈な自己主張を行うことを指している。

「それは、アメリカも同じじゃないか。日本人はなぜ「嫌米」にならないのか。」と私は反発する。それに対し、「アメリカ
は距離的に遠いからだ。嫌悪感は近ければ近いほど強くなるものだ……」と答える者がいる。ならばこれは、日本の
「中国脅威論」に対する心理的コンプレックスではないのか。

日本人は普段、自身の感情を上手く表現できず、心に溜めこんでいる。しかし、溜めきれなくなった時、激しく爆発
する。二年前の「毒入りギョーザ」事件こそ、まさに中国に対する長年の恨みが爆発したものだった。日本のメディア
は一夜にして嫌中旋風を巻き起こし、NHKまでもが普段の公平さを失い、毎日の主要ニュースのヘッドラインは
全て「毒入りギョーザ事件」という状態が1ヶ月も続いた。私の授業でもギョーザの話題になると、学生達に「毒入り
ギョーザ」の作り方を教えなければならなくなってしまった(勿論冗談だが)。

長年日本に滞在していた魯迅がなぜ「水に落ちた犬は叩け(凶暴な犬が溝に落ちたら、弱っているうちに、さらに
追い討ちをかけるべきだという意味)」の思想を持っているのか、私には分からない。日本の有識者はこう言う。弱者
に配慮するのは、日本人の倫理道徳の一つである。戦後以降、日本人が中国に対しずっと「譲歩」してきたのには、
侵略に対する反省の念が含まれている。そして、中国が戦後何十年もの間、貧困から脱出できなかった原因が
まさに自分たちの過去の行為にあることを認識し、申し訳なく思っていた。しかし今、中国経済は発展し、強大化
し、そして日本を越えた。彼らは、今度は中国が日本に配慮するべきだ、少なくとも、以前のように戦争責任や謝罪
問題において日本をまくし立てるべきではないと考えている。

日本では師道の尊厳に重きを置かれている(今ではだいぶ廃れてしまったが)が、「一日為師終身為父(一日の
師は一生の父)」と言う考え方は存在しない。中国から見れば、自分は何千年もの間、日本の師であったのだから、
日本は恩に着るべきだと思うのだろうが、その「学生」が一旦「師道」の過ちに気付けば、すぐに離れていってしまうと
いうことに気付いていない。

続く
3東京ロマンチカφ ★:2010/11/06(土) 15:16:27 ID:???

日本の近代における「脱亜入欧」も一方的に責め立てることはできない。アヘン戦争を通して、このまま中国に
ついて行けば、日本も大清帝国と同じように西欧列強の植民地となるほかないことに、当時の日本の学者が気付
いたのだ。

近年変化した日本の中国に対する態度には、嫉妬心が含まれているのだろうか。筆者はそれをはっきりと感じたこと
はなく、中国経済が日本を追い越す心の準備を、ある一定の時期に日本人が済ませていたことがうかがえるだけで
ある。

「もちろん羨望や嫉妬心があるが、それを表に出さないだけだ。自分の嫉妬を認めることは『敗北』を意味し、(中国
に追い越された)現実を認めないことでかろうじてそれを避けているのだ」と言う声もある。

日本が釣魚島で表に出した「苛立ち」は、「敗北」を認めたことの表れだったのだろうか、それとも「自信」喪失の
表れだったのだろうか。(『国際先駆導報』11月2日付けの報道より)