【竹島問題】独島は韓国の領土、その明白な証拠[09/19]
1900年勅令の「石島というのは、原文では「竹島石島」となっている。
句読点を入れずに呼称を連結させた記述だ。
だから<竹島および石島>ではなく、
<竹島とも石島とも言う島>という意味の可能性もある
前年の1899年皇城新聞には鬱陵島はかつてのウサン国だとして、
鬱陵島附属島のうち、もっとも顕著なものは、「于山島竹島」としている
これも句読点なしでつないでるから、竹島(別名于山島)という意味かもしれない。
実際、1711年の朴錫昌(鬱陵島検察使)の「鬱陵島図形」には「海長竹田所謂于山島」と記載されている。
「もっとも顕著な島」ということなら、1島だけ挙げるはず
禹用鼎が、1900年勅令のために直前に鬱陵島に行ってるが、
その時には竹島(りゃんこ島)のことは全く出ていない。示された距離・範囲から、竹島(りゃんこ島)は入ってない。
整理すると、
1899年の皇城新聞は「于山島」とは「竹島」と同じ島であるということを記していて、
1900年に改めて禹用鼎が調査し、
同1900年に勅令「竹島石島」が出ている。
勅令は鬱陵島を鬱島に改称する目的での公布だから、島名の整理が理由だ
その際、鬱陵島附属島の竹島(竹嶼<チクトウ>)の名が、日本の「竹島」とかぶって混乱するから、
「石島」という別称を新たに設けたのではないだろうか?
これによって、1899年「于山島竹島」、1900年「竹島石島」となり、
「于山島=竹島<竹嶼>=石島」となる
この一連の事情が、今日の日韓の竹島(独島)論争の発端ではなかろうか?
その後1905年に日本が竹島(りゃんこ島)を編入したが、
翌1906年に沈興沢の「独島」報告から一部で騒ぎになった
この沈興沢の報告は、勅令にある島名じゃない時点ではやくも出鱈目なんだけど、
しかも「外洋百余里にあり」と改めて位置関係を示さなきゃ政府に通じないという点で
勅令の石島とは無関係だと明白なんだが、
これは沈興沢が勅令の示す島がどれか、どの島を管轄してるのか分かってなかったんだろう。
あるいは日本の言う「竹島」が韓国の「竹嶼」のことだと錯覚してしまったとか、
竹島(りゃんこ島・独島)の周辺には日本漁民の影響で、韓国人も出漁し始めてたから
勝手に韓国領だと思い込んでたとかだろう
しかし報告を受け、「該島の形便」と日本人の行動を報告せよと政府指令が出ている
出ているのにその返答報告書が実在していない。
「形便」というのは状況という意味だと言うが、形状の解釈もできるだろ
しかし沈興沢ら鬱陵島役人らは、
鬱陵島に属してもいない、管理もしていない、行ったこともない島なのに調査報告のしようがないとも思うが、
政府から指令が出たのにその回答が無いというのはおかしな話だ
報告書はきっとあるはずで、「独島」は韓国(鬱陵島)とは無関係の島だと判明したという内容のはずだ
1900年の勅令直前の禹用鼎・鬱陵紀も、無くなってしまってるという。
どうも都合が悪い内容なのでいずれも韓国は隠してるんじゃないかと思う
政府内でこの「独島」問題のことを討議したはずで、日本政府にはいかなる抗議もしていないし、
おそらくその後、事実関係を調査整理し結論を出したが、「独島」は韓国とは関係がないという内容だったはず。
それを受け皇城新聞が鬱島郡の配置顛末として、「該郡所管島は竹島石島」だと報じている。以前のままの方針だ。
もし石島=独島であるなら、この際に「独島」という島名を追加するか、石島の別称として独島を記載してたはずだし
こんなそっけない内容で済ませられるわけがない
<鬱陵島の附属島は、「竹嶼<チクトウ>という名の石島」 (もしくは竹嶼および石島(鼠項島or石仏島)である>
<騒ぎになった“独島”は、そもそも鬱陵島とは関係ありませんよ>
と、あれは誤解から生じた笑い話でした、みたいな感じで結論を衆知させ、それにより混乱が収束したものと思われる。
皇城新聞は「石島」と「独島」とを同時期に使い分けてるから、
勅令の「石島」がどの島を指すのであれ、
それが独島(日本の竹島<りゃんこ島>)とは別の島であることは明白で、
この「石島」というのは、一説では「鼠項島or石仏島(小于島)」=観音島だとの解釈もあるが、
実際には竹嶼<チクトウ>のことを指しているんじゃないかと思う。
鬱陵郡守の沈興沢は中央からやって来た人だから、地元の事情には詳しくなかったんだろ。
だから日本が「竹島」を編入したと聞いた時に、その「竹島」は鬱陵島付属の「竹嶼(チュクト)」だと誤認したんだろう。
なにしろ勅令には「竹島石島」と書いているのであって「竹嶼」という表記ではないし、
鬱陵島の近くに、日本で「竹島」と呼ぶ島があると知ったのはその時が初めてだったかもしれない。
それで、
日本の役人 「竹島が日本に編入されることになった」
沈 「何を言っているのか、竹島は鬱陵島に所属してる島だ」
日本の役人 「いや、所属していない。何かの勘違いでは?」
沈 「竹島は鬱陵島に古くから所属している。各種文献、海図にも描かれている。」
日本の役人 「我々が言っているのはその島のことではない」
沈 「ではどの島のことか?」
日本の役人 「この島(鬱陵島)から百余里のところにある島のことだ。韓人漁民は「独島」と呼んでいるようだ」
沈 「いや、竹島はあくまで鬱陵島の付属島である。大韓勅令にはっきりそう書いてある」
このようなやりとりが交わされて、事情に精通していない沈興沢の頭の中では、
竹島(現・竹島)=勅令に書かれた「竹島(竹嶼/チュクト)」=独島
という間違えた公式が頭の中で成立してしまった。
しかし日本側の言い分ではその島までの距離は百余里だと言ってるから、
それなら鬱島郡の管轄するエリア外になる、だから自分の勘違いかもしれない。
そこで半信半疑の状態で、念のためあえて島の距離をわざわざ明示した上で、中央に確認を入れた。
「本郡所属独島は外洋百余里にあり・・・独島がこのたび日本領地となった・・・以上報告するので御確認いただきたい。」
ここで「ご確認いただきたい」というのは、日本側の言ってること、すなわち「竹島(独島)≠勅令の竹島」
というのは本当なのかそちら(政府)の方で確認してくれ、という意味だろう。
報告を受けて中央の参政大臣が、
その「独島」という島はどの島のことを言っているのか、どういう状態なのか調べて報告せよ、と指令を出した。
中央政府の側も、文献を精査したが「独島」のことが分からなかった。
なにしろ韓国には「独島」と記した文献はその時点でひとつもないし、もちろん、「独島(現・竹島)」を描いた地図もない。
当時の韓国は、船舶技術が低く航海能力も乏しいから現・竹島はかなりの遠方海域にあたる。
独島(現・竹島)を知っている韓国人は、日本漁民に連れられて漁業してた一握りの漁民だけだろう。
しかも当時はまだ韓国は日本に併合されていない段階だから、
日本漁民が専有し外国海域だと考えられてたはずの独島(竹島)にまで出漁するのは、
韓国人にとっては密航や密漁にあたるだろうから、本国にまで出漁の事実は伝わってないかもしれない。
だから、独島のことを知っている韓国政府役人は当時は一人も居なかったはずだ。
指令に対する鬱島郡からの追加報告を受けて政府内で討議した結果、
どうやら日本側の言う「竹島」=独島というのは、勅令の竹島(チュクト)とは違う島のようだと判明した。
だから改めて後日、鬱島郡配置のいきさつが皇城新聞に掲載され、
そこでも鬱陵郡の所管島は「竹島石島」のみで、示された範囲も東西十里・南北四十里のまま、
百余里と報告された「独島」はやはりそこには入っていない。
・勅令前年の皇城新聞の鬱陵島詳報に現・竹島(独島)は入っていない
・勅令を出すための禹用鼎調査報告に現・竹島(独島)は入っていない
・勅令自体にも現・竹島(独島)は入っていない
・日本編入を知り問題になった後の韓国政府の鬱陵島配置と、その詳報(皇城新聞)にも現・竹島(独島)は入ってない。
・韓国政府は一切、日本政府に抗議していない
・皇城新聞はこの過程で「独島」の呼称を記事に使用した後でも、やはり鬱陵島付属島を「竹島石島」とのみ書いている。
このいきさつから考えても、当時の韓国政府は、現・竹島(独島)を自国領土だとは考えてなかったことが分かる。