【立命館大講義】武者小路千家若宗匠 千宗屋さん、茶の湯いまむかし「すべて中国から入ってきました」[01/10]
1 :
依頼383@はらぺこφ ★:
立命館大の公開講座「日本文化の奔流」(読売新聞大阪本社後援)の第20回は茶道武者小路千家の若宗匠、
千宗屋さんが講師を務めた。「茶の湯、いまむかし」と題し、1年間のニューヨーク滞在経験を踏まえなが
ら、お茶本来の国際性や伝統のあり方について語った。
昨夏から今年にかけて1年間、文化庁の文化交流使としてニューヨークに滞在しました。英語で「お茶」を
示す言葉として一番普及しているのが「ティー・セレモニー(tea ceremony)」です。直訳す
ると「茶の儀式」。これは特に外国人から見た印象でもあると思います。非常に特殊な、儀式的なものとし
てのお茶ですね。
「ティー・ギャザリング(tea gathering)」と訳した方が、「お茶の集い」ですから、お茶
を通してのコミュニケーションの場という印象が強くなると思ったり、あるいは「アート・オブ・ティー
(art of tea)」、つまり「茶の芸術」ですね、これもお茶の一つの性格を表している言葉では
ないかと、いろいろなことを考えました。
私にとって一番しっくりきているローマ字の「chanoyu」を使うこともありました。柔道(judo)
や剣道(kendo)は、そのままローマ字で通用していますから。非常にいいなと思うのです。
お茶はこのように非常に多様な面を持った文化なのです。「アート」でもあるし、「ギャザリング」という
団らんの場でもある。そして「セレモニー」という儀式的、宗教的な側面もある。茶の湯の思想とは、もと
をただせば禅宗に始まります。
ところでニューヨークは、アメリカの中でも突出して変わった場所で、世界中の人が集まり、共同体を形成
している。そういう町でお茶をしていると、非常にしっくり来た。お茶というと、日本の伝統文化、純日本
というイメージですが、そもそも非常に異種混交的な、ハイブリッドな文化なのです。
茶そのものも、お茶の背景となる禅の思想も、すべて中国から入ってきました。千利休以前は、道具にも、
日本のものはほとんどなかった。中国や朝鮮、東南アジア、遠くヨーロッパの道具も使ったのです。茶席に
掲げる掛け軸は、中国の水墨画や墨跡でした。
京都の禅寺は、今でこそ日本の文化を体現するような場と思われていますが、当時は公用語が中国語でしたし、
中国大使館状態というか、中国の人と文化、思想の最新のものが集まっている場所だったのです。
>>2,3に続きます
読売新聞 2010/01/07
http://osaka.yomiuri.co.jp/university/honryu/rk100107a.htm 写真:せん・そうおく
http://osaka.yomiuri.co.jp/university/honryu/img/rk100107a.jpg 1975年、京都市生まれ。武者小路千家14代、不徹斎宗守家元の長男。本名は方可(まさよし)。
中世絵画史を学び慶応大大学院文学研究科修士課程修了。2003年、京都・大徳寺で得度、隨縁斎の
斎号を授けられ、武者小路千家15代次期家元として後嗣号、宗屋を襲名。明治学院大学非常勤講師
(日本美術史)。著書に「ドッグ・ギャラリー」など
2 :
依頼383@はらぺこφ ★:2010/01/10(日) 14:29:30 ID:???
茶の湯の文化が成立し、発展していく時、大きなかかわりを持ったのが堺でした。当時は国際貿易港で、中国、
韓国、東南アジア、さらにヨーロッパとも交易があった。最先端の貿易都市の都市文化として、お茶が発達
をしてきたのです。
京都はもちろん、当時の首都で、大都会ですから、人やもの、情報が集まる場所でした。そういう場所だか
らこそ成立し得た文化だったわけです。
そこに現れた利休はなぜ、お茶の歴史のスーパースターなのか。最大の理由は、織田信長や豊臣秀吉とタッグ
を組み、お茶を天下の政(まつりごと)の手段としたからですが、もう一つ、文化史上の功績として、日本の
焼き物、工芸品を使って、お茶の道具を作り出したことが挙げられます。
それまでの茶席は、中国や韓国から来た美術品の器や書画を鑑賞し、楽しむ場でした。ところが利休は物質的
なものより精神的な、心の通い合いを大切にした。限られた道具を用いて、小間(こま)と呼ばれる非常に狭い、
簡素な空間で、主客がひざをつき合わせ、お茶をいただいたのです。
以降、国産の道具が主流になっていく。茶の湯の和様化を完成させたのが利休だったのですね。
利休は豊臣秀吉によって切腹を命じられます。理由は謎ですが、茶席が政治的な交流の場として機能していた、
ということは、機密がたくさん持ち込まれていた。利休はその中枢にいて、派閥争いに巻き込まれ、犠牲に
なった、というのが妥当な線ではないかと思います。
利休切腹の2年後、徳川家康らの取り成しで千家再興が許されます。家康とのつながりがあったため、千家
は徳川幕府の時代に生き延びていく。
千家は2度と家を絶やさないよう工夫しました。利休の孫、宗旦の3人の息子が表千家、裏千家、そして
私の家である武者小路千家を立てたのです。
>>3に続きます
(ヽ∧__∧
、ヽ`∀´>.<呼ばれて無いのにチョチョチョチョーン
) )つ
>⌒)ノ
ゝノ/
パカチョン ノ~ノ
/| ///
| | ///
| |ミ ///.
|/ ̄ /
" ̄ ̄ ̄ ̄
4 :
依頼383@はらぺこφ ★:2010/01/10(日) 14:30:27 ID:???
三千家については、「仲が悪いのですか」とか、「何でけんか別れしたのですか」とか、聞かれることも
あるのですが、そうではなく、あくまでリスクヘッジだったのですね。
以降、京都で400年続いてきた。京都は外来の文化に鷹揚(おうよう)で、一度それが定着すると、自分たち
の文化として守り伝えていくのです。
もし千家が徳川幕府にくっついて江戸へ行っていたら、今みたいに残っていたかどうかわかりません。
茶の湯はそもそも生活文化です。お茶を飲む、ご飯を食べるという、極めて日常的な行為を芸術に昇華させ
ていった。こういう文化は世界の中でも日本にしか残っていない。
「伝統」文化といいますが、「伝えて統(す)べる」には、意味があるようでない。本来はこの字ではなく、
「伝燈」と書きました。「燈を伝える」。もとは仏教の言葉で、真理や教え伝えるべきものを燈に例えて
いるのです。
燈を伝えるためには、常に新しい油を足していかないといけない。つまり、燈は変わらないが、それを支え
ているのは新しい油ということです。これが伝燈の本質だと、常に自戒しています。
質疑応答
質問――お茶の文化は中国から来たということですが、現在の中国には、お茶の文化がありますか。
千――抹茶の文化は全くありません。明の時代に絶えてしまったのです。逆に今、日本の茶の湯文化が
受け入れられていますから、中国から見ると逆輸入でしょうか。
質問――三千家で作法の違いがありますか。
千――あります。お茶は非常に個人的なもので、その人の好みが反映されます。元は同じ千家でも、
家が違って、さらに代が変わってくれば、結果として流儀の差も出てくる。同じ家でも代が違うと、
考え方の違う部分があります。
質問――お茶を飲んだ後、必ず「結構なお点前で」と言わなくてはならないのですか。これに代わる
言葉はあるのでしょうか。
千――その言葉は茶席で聞いたことがないのです。「大変結構です」という言葉は使いますが、「
結構なお点前で」という言葉は、まず使わない。自分の言葉でおっしゃっていただけばいいのであって、
」思わず、「おいしい」と言葉に出てしまってもかまわない。その実感が亭主に伝わることが大切だと思います。
5 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 14:32:48 ID:R0zZ7+gr
それまでの茶席は、中国や韓国から来た美術品の器や書画を鑑賞し、楽しむ場でした
おいおい、千利休以前は、唐物、中国ばかりだろw
伝統に胡坐をかいている人たちっていいよな。
歌舞伎とかもさ。全く勝負しないでいいんだから。
能力よりも、家なんだから。
何でこんな無能な奴が、と思うのは俺だけじゃないと思うが。
ウ、ウリは
8 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 14:36:01 ID:qTyu0w8o
_ノ乙(、ン、)_ 韓国って建国何年だけ…w
9 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 14:37:28 ID:2Xmt3e0a
入ってきましたは良いけど、そのままじゃないわな。
10 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 14:39:04 ID:OMWN6vCr
中国のお茶は皇帝の文化でできたから
その分家が日本だからそういう物だろう
中国でもオリジナルのお茶は緑茶だし
11 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 14:39:24 ID:QIVrFyt+
12 :
15:2010/01/10(日) 14:39:38 ID:aV4+oWfh
茶道は韓国起源とチョンが主張していた、あれは嘘?、チョンがトイレットペーパーを使っていた
なんというか、中国を立てているようで利休マンセーだなw
韓国は関係ないな
韓国は関係無いのでホロン部は来ないように。
17 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 14:46:51 ID:fpC5+dbP
<丶`∀´> <千利休は韓国人ニダ!!
唐(から)と韓(から)はほとんど区別してないからな。
昔から半島は中国の一部か通り道という認識。
半島を明示的にさす場合は高麗(こま)になる。
20 :
保守系言論人α:2010/01/10(日) 14:52:29 ID:VF2cBLOo
戦国時代の茶の湯は朝鮮が日本に与えた文化の一つですね
韓国が日本の文化をつくった大事な事例です
20
面白く無い。次。
>>5 そうでもないよ。
宋胡禄とか、東南アジアの物もあるよ。
特に、金属製の花入には東南アジア製の名物が多いよ。
自身の仕事に誇りを持てない朝鮮の陶工が
いいかげんで手抜きで適当な流れ作業をしてくれたおかげで
井戸茶碗ができました。ありがとう。
その後井戸マニアの日本人が注文して茶碗作ったり
していたけど、研鑽という概念のない朝鮮陶工はすぐに飽きられ、
朝鮮の焼き物はすたれ、消えました。さすがですね。
24 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 14:58:42 ID:gX+52+wC
>>12 朝鮮半島は、日本が併合してやるまでお茶の木は一本も生えていませんでした。
そもそも、宮廷だろうが庶民だろうが茶を飲む習慣がありません。
こんなところで、どうやって茶道など発達できるのでしょうか?
へうげもの好きなやつがスレに紛れ込んでいる予感。
俺のことだが
まあ,大体のところは正しいね。
唐物崇拝から草庵の侘茶に移行したところが肝要さ。
やっぱ利休はえらいよ。
ただ、宗屋さんもニューヨークでヘンな茶席つくったり、
ラリックとか使うのはやめた方がいいな。
全然面白くないよ。
27 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:00:31 ID:sSjFI/bi
司馬遼太郎じゃないが唐代までの中国はホント素晴らしかった
28 :
七海:2010/01/10(日) 15:00:42 ID:7Ruq5QI+
今の中国と昔の中国は違うよ
29 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:02:34 ID:nXUNt+we
>>24 朝鮮半島の南部ではお茶が採れるところがあったって
他のスレで見たことあるけど?
チョンがまた、茶道がどうとか抗議したのか?
これ完全に、チョンにぶち切れた後の発言だよ。
朝青龍の名言「キムチ野郎」みたいに
31 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:03:57 ID:yYhbM2Uy
>>6 お前、歌舞伎みたこともないし茶もやったことないだろ。
お前みたいなのがフランス革命時の大衆みたいになって暴動を起こすんだろうな。
おまでとう、左翼さん。
>>24 いやいや茶畑はなかったけどチャノキくらいはあったよ
茶文化は仏教と繋がってたから崇儒廃排仏の流れで寺が壊されたり
移転する中で消えてったけどw
>>21 朝鮮にあったのは茶道じゃなくて茶礼(タレ)
これは先祖崇拝のマツリの中でやることをそこだけ抜き出しただモンだから
日本の茶道とは全く別のいつもの捏造
祖先に水とか酒を捧げてたもんで、生きた人間を相手にしたもんじゃないからああなる
33 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:06:55 ID:Ire3W/dv
韓国は一切関係ないと思うよ
>>20 ちゃんと読んどけよ
>>12 お前ら中国の属国が日本の文化に貢献したのをあえて教えてやろう。
「わび・さび」
あえて朝鮮製の食器を使うのがクールというのが「わび・さび」の発生時にはあった。
そこで朝鮮の職人が招待されたわけだが、本国にしがらみのない者はそのまま日本に居着いた。
本国では職人なんかゴミ扱いだが、日本は文化国家だからな。
いい腕というだけで、名士が対等に対応してくれるんだから気分が良かったんだろう。
>>29 採れたよ。
李氏朝鮮は廃仏をやったんだけど、その当時の朝鮮ではお茶は僧侶の嗜む物だったから、
ほとんど焼かれてしまった。
宮廷での喫茶については、大院君が
「お茶に香りがないほど、私の暮らしは貧しくなった。」
って、嘆いてるから、下賜されたものはあったみたい。
37 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:14:15 ID:jLhq9piE
>>31 何でも保守やってりゃ良いと思ってるお前は何でも否定すりゃ良いと思ってる左翼並の馬鹿だな。
38 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:16:15 ID:n/NSrP4b
しごくまっとうな事を言ってるね。
40 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:20:46 ID:gfk4V3+C
平安辺りだったか、中国から伝来した当時の茶はレンガのように押し固められた塊で、
発酵臭がきつくてあまり流行らなかったんだよな
その後できた抹茶はおいしいのに、何故中国では途絶えたんだろう
41 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:21:36 ID:nXUNt+we
>>37 突然、横から入ってきて
頓珍漢な批判をする人が居るスレはここですか?
42 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:22:02 ID:8Q62hW+t
>朝鮮製の食器
朝鮮や東南アジアの生活雑器の素朴さ、へたくそな風合いが、変化球として
好まれたわけで……。
この辺りのことを韓国人が誤解したたため、優れた芸術品や、それを生み出す名工たちが
日本に奪われたことになってしまったのね。
43 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:22:44 ID:LN3Frz1X
チョンじゃ日本のように洗練されたお茶の様式なんてないからね。
その昔は中国から入ってきても日本はそれを日本独自で到達不可能な
高みまで洗練して引き上げてしまう。
そうなれば同じ材料としても全く別物の文化となる。
茶の湯然り
ラーメン然り
餃子然り
それの出所である本家中国を追い越して今では全く別のものと言っていいだろう。
残念ながら長らく中国のそして後半は日本の奴隷民族だった韓半島にはそういう
文化は育たなかった。
無断で日本のいいところを真似するしかなかったんだな。
唯一独自に発展させたのは今や国民行事ともなりつつある朝鮮ブス女の
整形ブームだろう。
中国王朝に貢物として何百年もいい女を貢がされた代償は大きかった。
ブスしか残らなかったのだからそれくらいは許してやろう。
世界一の朝鮮男の短小は表からは見えないから良かったね。
44 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:23:06 ID:h8tYvHB8
茶の湯は室町‐安土桃山あたりで発祥したものであって、どこかからやってきた
とは言えないと思うな
45 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:23:17 ID:m594jF76
茶道の流行で、
室町、戦国時代で膨大な輸入量となったのが、明の書画。
当時の茶席は、部屋中に掛け軸を垂らしまくり、
「オレはこれだけ持っているぞ」と自慢するのが通例。
その成金趣味を打ち破ったのが千利休で、
利休居士を得て、茶道は初めて高尚な文化らしいものになった。
46 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:24:56 ID:hn0lAQ5Z
茶道の起源を主張してた朝鮮人はどーなるんですかね?www
>>42 1960年代までは、彼らは朝鮮白磁を恥と思っていた。(by 金容雲)
日本の陶磁器が西洋に影響を与えていた事が分かってから
突然、朝鮮陶工とか言い出したw
49 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:28:55 ID:8QG9PWe9
一見中国を立てているようで、
完全否定している千家。
50 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:32:21 ID:GcBkZuUv
武者小路という名前の奴が「すべて中国から来た」と言うと
なんとも微妙な気持ちになる
51 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:35:32 ID:lK8MX3W/
なんで朝鮮人が湧いてるんだ!!
52 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:48:09 ID:qPaiY/kj
そりゃまぁお茶そのものや茶器なんかは中国由来の高麗経由だろうけど、
茶道として確立したのは利休だろう。
でも利休もできの悪い唐モノや高麗モノをわびさびなんていうわけのわからん基準で
高値で売りさばいてたっていう負の側面もあったからなぁ。
単純に利休マンセーするのもキモイ
53 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 15:49:46 ID:n2O2ue8p
>>40 もの凄く乱暴にまとめれば、宋代に完成したが元の遊牧民文化が入ってきて
流行が変わって消えた
>>53 風邪でもひいたか?
文化でもないものに価値観を見い出し文化に昇華させたのが利休
自ずから創造できないのはいつまで経っても不変だな
56 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 17:38:11 ID:8Q62hW+t
>茶器なんかは中国由来の高麗経由
高麗経由もあったろうが、
でも、室町の唐物荘厳の主流は江南であり、南方との海路による物流だろ。
じっさいのところ、古代から、半島は文物の中継地として成り立っていなかった。
華北から満州、北部朝鮮へという苛烈な荒野がネックになっていたから。
また、半島の遺跡、遺物、遺構の検証からも、大陸との中継地になっていなかったことがわかる。
日本と比較して、半島は、あまりにも文化や技術が遅れていた。
逆に、半島は古代から、日本の文化や技術の影響を強く受けてきた。
日本から見ると、できの悪い生徒だった。
◎半島はストローではなかった。
2ちゃんで、しばしば出される「半島ストロー論」は馬鹿げた誤り。
ていうか当時朝鮮と交流が無いもんな
58 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 17:45:34 ID:cLLtRFkJ
武者小路ってドラマで出てくる貴族っぽい名前だな
一応、唐物=中国モノじゃないからな
60 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 17:48:43 ID:D5ygSXF7
朝鮮や中国から教えてもらった茶の湯を大事にしなければな。
61 :
腐号汎用人型決戦兵器 ◆f3h/vmOhIk :2010/01/10(日) 17:48:50 ID:upJDP/92
あれ?
韓国は??
器は朝鮮半島の物もあったけど
お茶は中国から来たのは事実だろうな
朝鮮半島じゃ茶は育たないから
ていうか、ほんの10年前まで茶道なんて倭人の窮屈な形式主義とか言ってたよなw
64 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 17:57:12 ID:vu/QBa1X
別に烏龍茶を点ててる訳じゃ無いんだから、
どーでも良くネ?
世界最古の土器は日本にある
66 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 18:00:55 ID:pbxXEehh
ひどい誤解をまねく表現だね。
つらぬいて命までとられた利休とは関係ない宗派なの?
ついでに言えば千利休こと聖(セイント)ルカを処刑したのは
彼がキリシタンであり、茶道とは実はキリスト教えのワインとパンの儀式がモデルで
実は教会と同構造をしている茶室に入る際に入口が狭く設定されているのは
秀吉といえどもわざわざ膝を屈めて入らないと駄目で、
これは「狭き門より入れ」という聖書の言葉を実践するものであり
神の前に膝を突いて敬礼する行為を模したものだった。
その他多く、キリスト教の儀式と告示する数々の作法が茶道に存在するが
部下の讒言によって真実を知った秀吉が激怒したから…だっけか
既に茶の湯の文化は日本中に広まっていて駆逐のしようがなく、
その秀吉も利休を殺して口封じをした後は何事もなかったかのように茶の湯に溺れたけど
68 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 18:09:38 ID:8Q62hW+t
>>59 >一応、唐物=中国モノじゃないからな
言いたいことはわかる。
しかし、半島の陶磁器なんか、唐物の極々一部に過ぎないんだよ。
うぬぼれは、ミンジョクの性だけどさ。
滑稽だ。
69 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 18:14:11 ID:p0H2uumf
とりあえず、朝鮮じゃ生態系上茶が育たなかったからな。寒すぎて。
北限ぎりぎりなんだろ。だから高麗時代に一応あったんだけれど、まずくて
ろくに成長しなかったっていう。
まあ、支那伝来で間違いないだろう。
70 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 18:38:30 ID:Dw7GSIG/
どうでもいいけど、あの犯罪漢字検定協会の理事やってた茶坊主はこいつらか?
71 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 18:38:45 ID:jpecjMxl
つーか千利休を開祖と騙る千家らしい言い草だが、利休以前の先人にたいする
経緯も知識も無いんだろうな。
日本に入ってきたときの喫茶と、それが日本で発展して茶道と呼ばれるまで
の道のりはカットされて良いようなもんじゃない。
72 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 18:39:55 ID:Dw7GSIG/
>>6 まあ茶も歌舞伎もあと30年もしたら廃れるよ。
無能の世襲が生き残れるはずが無い。
73 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 18:40:36 ID:CMgAsUUe
公用語が中国語とか、なんつーか和語とか知らんのか?
こんなのが文化人面して外国に出てるとか、恥ずかしいな。
74 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 18:42:27 ID:MYnxn3B+
>>73 五山文学とかのこと言ってんでしょ。
禅寺においてはコミュニケーションツールとして
支那語が優位にあったと言うこと。
76 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 18:46:32 ID:SAfGpqPi
茶の湯の起源は中国北宋代だろ、しかし北宋が滅亡後は、その亡命者によって日本で伝統が受け継がれたということで、
中国には、その文化のカケラも存在しないというのが
利休の切腹の原因が
>派閥争いに巻き込まれ、犠牲になった
というのはどうだろうか。
まぁ、千家の人だからしょうがないのかもしれんがw
>>72 表と裏は規模が大きいから、
門弟が減ると大ダメージだろうねえ。
あそこらの家は、事業規模の縮小を心がけた方がいいとは思う。
あちこちの地方流派には頑張ってもらいたいなあ。
中国なのに何で韓国が起源主張してんの?
抹茶は唐の時代に滅んでいるなら、韓国にだって残っているわけないじゃんw
トイレットペーパー茶道やめろw
>>79 唐時代のは団茶ね(まあ、あれこそ本当は煎じているんだけど)、
抹茶(点茶法)は五代から宋にかけて生みだされ、元以降に廃れた喫茶法。
実は李朝には固形茶があったんで、団茶の末裔が生き延びていたことになる。
喫茶養生記
82 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/10(日) 21:43:51 ID:0sJZDfA8
何気にチョンの歴史ファンタジーを眺めていて、綺麗に機械で刈り込まれている茶畑が出てきたりして、
韓国人って、日帝の残滓で出きているんじゃないか、そう納得してしまう自分がいる。
今、食っている物もほとんど、日帝の残滓、残飯なんだと、頷いてしまうこの頃。
この人の喋りは結構面白くて好感を持ってるけど、お手前の方はどうなの?
お手前で見慣れているのは裏千家だし、シャキーンとカッコいいのは表千家。
趣味悠々で見た限りでは武者小路千家の当代さんは、喋りも、お手前も、
ちょっと・・・まあ・・・アレなんだけど・・・。
>>83 先祖供養の茶礼というのは朱家の儀式なんですが(しかも茶が酒に変わっているし)、
上のなんちゃって茶道は茶礼でもなんでもないですねw
しかし、急須にどうやって茶筅を使うんだろうか?
>>85 碗に茶の粉末を入れて、急須で湯を注ぎ、茶筅でかき混ぜる・・・のではないかと。
どうも急須から注いでいるのは普通のお湯ぽいですし。
>>86 ああ、連中は昔は湯瓶を使っていたのを知らないのかw
あれなら高麗青磁製のも残っていたような気がするけど。
あと、竹製の茶杓も日本で開発されたものなのにねえ。
>>83 ちなみに北朝鮮には茶礼などという習慣は一切存在しません。
ほんの60余年前まで南北同じ国だったのにねぇ...
ま、韓国の茶礼もほんの10年程度の歴史しか無い訳だけどw
91 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2010/01/11(月) 01:40:38 ID:FbXN96e1
茶道は元々仏様にお茶をさしあげる所から始まったんじゃなかったかな?
栄西禅師が持ち帰ったと言う事で、牧ノ原には栄西禅師の銅像があったりします。
ルーツが中国にあるのは確かです。茶道具は唐物が珍重されていました。
安土桃山時代にはベフィリピンの壺やベトナムの陶器なんかも。
茶道が日本らしくなったのが、利休の時代だと思います。
千家は利休の二男の少庵の孫の代で3つに別れました。男子は4人いたみたいだけど
3流派しか残れませんでした。利休の長男の道安流れは飛騨の”金森宗和”に
受け継がれたようですが。
>>91 喫茶法は珠光のころには相当変化しているんで、
何をもって日本らしいというかは難しいんじゃ?
道安の系譜というなら、宗和系よりも石州系の方が重要。
柳営に仕え、江戸時代の最大派閥となったのが石州流ですから。
あと、宗旦の系統は三千家と同時に、
宗偏流や松尾流や雇軒流にも分かれているんですけどね。
93 :
91:2010/01/11(月) 02:03:33 ID:FbXN96e1
>>92 会社の”茶道部”程度でコメントを入れたのは間違いだったようです。
本当に知っている方にはかないませんm(..)m
一応表千家の方の孫弟子なのですが(^^;;;;
94 :
革マル印のカスタード:2010/01/11(月) 02:06:50 ID:a2F9NBec
>91
個人的には江戸期の茶人が注文して作らせた安南焼とかは好きだなw
安南の素朴さに江戸茶人のエキセントリックな趣味が合わさって…w
たしか本でよんだことがあるんだが、喫茶文化(特にお茶)の発達には商業の発達と連動
してることが書いてあったな。
商業が未成熟な時代は、職人たち仕事を昼までに切り上げて真昼間から酒をよくあおっていたが
資本主義が成長による商人の台頭によって、昼に酒をあおることは仕事に支障をきたすので人々は
代わりにお茶を飲み始めた。
考えてみれば、日本や中国、英国でお茶文化が発達した時代って海外交易や国内の商業が盛んな時代
だったな。
無論、朝鮮でお茶文化が発達しなっかたのは李朝が朝鮮儒教による極端な反商業政策をとってたから。
やっぱり東夷さん来てたw
>>92 訂正:雇軒流→庸軒流 何やってんだorz
>>93 千家の系譜についてはいろいろと難しいんですよ。
表千家が江岑の時期に家系図を紀州藩に提出しているんですが、
これにも疑問点が多くて。
>>96 お茶の話題に飢えてます。
庸軒流というのは今でもつづいているのだろうか。
藤村庸軒のかかわった茶室とか茶庭には
独特の美意識がうかがえるね。
西翁院の淀看席とか、妙心寺桂春院の席とか。
堅田の天然図画亭もそうだよね。
>>99 庸軒流の系統は東京、京都、岐阜、茨城と4家が健在ですよ。
遠州にも学んでいるからか、道具の好みも瀟洒ですよね。