ギオンマツリの起源は古代韓国だった
<2編> ギオンマツリを通じて,みた韓国文化
キム・ヨンジョ
http://www.mhj21.com/imgdata/mhj21_com/200911/2009112443395484.jpg 京都祇園祭は東京神田祭、大阪天神祭とともに日本3大祭と呼ばれて毎年7月1日から31日まで
1ヶ月間京都市内中心部と八坂神社で行われる。祇園祭の最高潮は派手な32基の山鉾巡行(以
下「御輿行列」に変えて呼ぶ)であり、この他にも祭り期間中ずっと多彩な行事が繰り広げられる。
祇園祭総本司の京都八坂神社の祭りを始め日本のあちこちで繰り広げられる祇園祭だけでも数
十ケ所に達する。
◆祇園祭の由来
今から1,100年余り前の869年京都に伝染病が流行して死ぬ人が無数にいた。今日のような伝染
病対策がなかった当時には伝染病発生を神すなわち牛頭天王(ごずてんのう、別名スサノオミコト)
の怒りと考えた。その怒りを解こうと祇園社(現在の八坂神社)で病魔退治のための祭事を行って、
当時の日本全国66の行政単位を象徴する御輿66基を作って疫病をなだめる「御霊会」を行ったと
ころから始まった。
その後応仁の乱(1467-77年)の時に祭りは中断されたが1500年に民衆の手でまた再開された。
この時から中国とペルシャ、ベルギーなどから入ったタペストリー(色糸で絵を現わした装飾用の織
物。壁掛けなどで使われる)等を御輿の装飾に使うことになって派手さを加えた。装飾品の派手さ
のために御輿は「動く美術館」とも呼ばれる。たびたび火災に遭って、御輿が燃えることもあったが
その時ごとに民衆の手によって復元再現されて祭りの伝統は今まで守られている。
現在祭りに使われる御輿はヤマ(「山」という漢字を書いて重さ0.5トン〜1トン規模)が23基でホコ
(「鉾」という漢字を書いて重さ7〜12トン規模)が9基で全32基だ。山と鉾を合わせて呼ぶ時は山鉾
(ヤマボコ)と呼ぶ。ヤマボコという言葉は韓国語では「御輿」が適当で「車」という表現は適切でない。
車は物をのせるという意味が大きいためであり、御輿は大事な人が乗ったり神霊を乗せる物であ
るから山鉾の韓国語は「御輿」が適切だ。したがって山鉾巡行は「御輿行列」と呼ぶ。
http://www.mhj21.com/imgdata/mhj21_com/200911/2009112446594439.jpg (つづく)
ソース:文化ジャーナル21(韓国語) 記事入力:2009/11/25 [08:40]
http://www2.mhj21.com/sub_read.html?uid=21804§ion=sc120 関連スレ
【日韓】 日本の「マツリ(祭)」の由来は「マッドゥドリ」〜イ・ナムギョの日本語源流散歩22★4[06/03]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1244371757/ (
>>1のつづき)
◆古代韓半島と祇園祭の関係
2009年7月祇園祭のために京都市観光協会は26枚の≪京都祇園祭≫という冊子を発行したが、
これに紹介された祇園祭を整理すれば次のようだ。
http://www.mhj21.com/imgdata/mhj21_com/200911/2009112450247826.jpg 大部分祇園祭を紹介する冊子など日本側資料はこのようになっていて、歴史専攻でない人々には
そのどこでもこのような表記で古代韓国関連のにおいをかぐのが難しい。それなら祇園祭と古代
韓国とはどんな関連があるだろうか?これを解こうとするなら次の二種類を明らかにしなければな
らない。一つは祇園社(現・八坂神社)の由来で、もう一つは祇園社に迎える牛頭天王が誰かを明
らかにすることだ。
まず祇園社の由来をホン・ユンギ教授の《日本の歴史歪曲》、学民社222ページを参考で調べれば
次のようだ。「斎明天皇、百済系女王、655〜661在位)2年(656年)に高句麗から倭国王室に渡って
きた使節、伊利之(いりし)は新羅国牛頭山にいらっしゃったスサノオミコトシン(須佐之男明神)を山
城国(京都の過去の名前)の八坂郷にお連れして祭事を差し上げた。伊利之は王からヤサカノミヤ
ツコ(八坂造)という姓を受けた。(八坂神社、《由緒略期》)
上の資料では伊利之が牛頭山の「スサノオミコト」を迎えたとなっている。すなわち、スサノオミコト=
牛頭王で656年に新羅から迎えて現在八坂神社で主神としてまつっている。
「神をまつってきた。」という言葉を近頃の人々は実感しにくいだろう。しかしこの頃も長男がまつっ
た祭事をまつることができな場合に次男が「まつって」祭事を行うことはいくらでもある。次男がまつ
ることができる状態にならなければ「寺にまつる。」等しながら「神を移動させて」でもまつることが祭
事の粘り強い生命力だ。
《京都祇園祭》にある「祇園祭の歴史」を見ると次のような一節がある。
「869年京都に伝染病が荒れ狂った。これは牛頭王のたたりだ」
ここで日本語「タタリ」は韓国語「タル(事故)」が原形だ。「山所(墓地)をよく扱えなければタル(事故)が
生ずる。」が良い例だ。これを土台に「牛頭王のたたり」を解説してみれば牛頭王に事故が生じて、
そのうっぷん晴らしで京都に伝染病を流布させたと考えたのだ。
それで656年からまつっていって、ずっと至極誠心誠意に祭事を行ってきた牛頭王の事故をどのよう
に解決したのだろうか?当時清和王(869年)は占い師や大臣を招集して、いっぱい災い(事故)が生
じた牛頭王を慰めるための会議を開き、その結果当時66地方の数字ぐらいの御輿(鉾と山)を作って
祭事を行う御霊会を開くに至り、これが今日の祇園祭の原形だ。
結局、京都の祇園祭は古代韓半島の神である「牛頭王」の「事故」をなだめるための祭事だったのだ。
新羅の神・牛頭王に対する祭事を日本は千余年が過ぎた今でも「マツリ」という名前で盛大に行っている。
祭礼意識から始まったマツリはその本来の意識が薄れて新しい観光商品に浮び上がっている。我が
国も前はマツリに比べるだけのものはたくさんあった。 しかし日帝強占領期と西欧化、近代化されてい
く過程でこのような伝統の遊びや祭礼らは克服されなければならない前近代的な古い価値観とでもなっ
ているように注目をあびられないまま急速に急減してしまった。これに比べて日本のマツリは地域社会
や共同体を結束させて日本のアイデンティティを確認する民衆的総合芸術の役割を正確にやり遂げて
いる。
このような日本の作られて包装されたマツリを見ることになる時ごとに私たちの祭り文化を振り返って
みることになる。私たちはたとえ日帝の強圧によって数百、数千年降りてきた伝統文化の脈が切れる
痛みを体験したりもしたが日本のマツリがそうであるように祝祭すなわち祭り文化も新しい視覚で再評
価して、発掘することは発掘して再現することは再現するものの官主導でない住民参加の一幕の祭り
に新たに出なければならないだろう。
イ・ユンオク(韓日文化交流研究所長)
キム・ヨンジョ(青い松同胞文化研究所長)
(おわり)