【サーチナ】モンゴルの極右勢力が過激な「反中」運動を展開―中国紙[07/21]

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モンゴルの極右勢力が過激な「反中」運動を展開―中国紙

環境時報は21日、米国メディアなどを引用し、モンゴル国の極右勢力が
極端な反中国・反中国人運動を展開していると伝えた。

極右勢力は「中国人の男と寝た」との理由で、複数のモンゴル人女性の頭髪を丸刈りにしたとされる。
中国と関係が深かったモンゴル人を殺害した疑いが持たれる事件もあるという。

思想的にはネオ・ナチズムとみられ、モンゴル首都のウランバートル市内にはハーケン・クロイツ
(かぎ十字)のマークとともに「中国人を射殺せよ」とする落書きも多くみられる。

代表的な極右団体としては「フフ・モンゴル(青きモンゴル)」などがあり、構成員は数千人とされる。
人口300万人のモンゴルでは相当な人数だが、環球時報は「世論な大きな支持は得ておらず、
若者らが外の世界を知るようになったことで、勢力が急拡大する気配はない」との見方を示した。

モンゴル人にとって「青(蒼)」は「太古のけがれなき時代」をあらわすシンボルカラー。

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◆解説◆

清朝を樹立した満族(マンジ)は、明朝末期に生まれたリーダーであるヌルハチの時代から、
モンゴルの東部部族を取り込み、勢力の一部とした。ヌルハチの後を継いだホンタイジは
1631年にモンゴルの主要部族だったチャハル部との戦いに勝利し、元朝から伝えられたとされる
玉璽(ぎょくじ)を譲り受けた。このことにより、清朝皇帝はモンゴル諸部族に君臨する「大ハーン」
の称号を名乗ることになった。

康熙帝は1696年、清朝に対抗したモンゴルの西部部族、オイラトのガルダン・ハーンに圧勝。
モンゴル諸部族のほとんどが清朝に服属することになった。清朝は内モンゴル(南モンゴル)
の諸地域は婚姻関係と管理の強化という「飴と鞭」の政策を適用。外モンゴル
(北モンゴル。おおむね現在のモンゴル国)は大幅な自由を認めた。

清朝後半になると、モンゴル民族の衰退が著しくなった。清朝がチベット仏教を積極的に
広めたため、成人男子の多くが僧侶になり、人口が減少したことも一因とされる。
域外との接触により蔓延した性病も、人口減少の大きな要因になった。

歴史の大きな流れとしては、モンゴルをはじめとするユーラシア内陸部の
諸民族が衰えた原因に、それまでのシルクロードなど内陸

モンゴルの庶民の間で、漢人に対する不信感が強くなったのは、清朝末期から中華民国期だった。
モンゴル人が珍重するメノウなどで作ったたばこの葉の容器を、無知につけこんだ漢人商人が
「マッチ1箱」と交換していったなどの話が、現在も伝えられている。

また、中華民国期には「革命軍」を称する軍隊などが、モンゴル人の居住地域で略奪を行う例が多かった。
モンゴル語には「ガミン(=革命)」が、「野盗」、「山賊」を意味する語彙(ごい)として残っている。

外モンゴル地域などでは、清朝末期からロシアとの関係が強まった。「中国側のモンゴルに対する扱いが、
あまりにもひどかったので、ロシアに接近した」との見方が強い。1911年に孫文らによる辛亥革命が発生すると、
外モンゴル各地の領主は、多くが独立を宣言した。1924年には、ソ連の影響を強く受けるモンゴル人民共和国
が成立した。大粛清などもあったが、モンゴルは再び発展をはじめた。

中ソ対立期には、ソビエト陣営にあったモンゴルと中国の関係も極めて緊張したが、1989年の中ソ和解
により、緊張は改善された。モンゴルは早い時期から「内モンゴルとの併合はありえない」と表明している。
経済発展と国境地帯の安定を願う両国政府の関係は良好。ただし、モンゴルでは、現在も中国を警戒
する庶民が多い。一方、中国では「本来ならば中国領だった」とする考えが根強い。(編集担当:如月隼人)

ソース:Yahoo!ニュース 7月21日16時40分配信 サーチナ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090721-00000126-scn-cn