北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記(67)の後継候補として急浮上し、国際社会から注目
されている三男正雲(ジョンウン)氏(26)。その素顔はこれまでほとんど伝えられてこなかったが、スイス・
ベルンでの留学当時の様子が毎日新聞の取材で初めて明らかになった。現地の公立中学校での
正雲氏の意外な生活ぶりには謎も残る。スイス留学の背景や後継者選びの過程などを分析した。
正雲氏がスイスでの留学先に、王族の子弟も珍しくない国際学校ではなく、自宅近くの公立中学校
を選んだことは、さまざまな憶測を呼びそうだ。北朝鮮側の警備体制も緩かったようで、当時はまだ、
正雲氏が後継候補になるとは想定していなかったことがうかがえる。
金総書記の長男正男(ジョンナム)氏(38)は80〜81年にジュネーブで、次男正哲(ジョンチョル)氏
(28)は93〜98年にベルンで、それぞれ国際学校に通った。だが正男氏は、警備上の不安から留学を
1年半で切り上げている。正哲氏も、ボディーガード役とみられる同年代の少年が一緒に留学したうえ、
外で出された食べ物には警戒して手をつけなかったといわれる。
ところが、正雲氏の場合は、同時期に在籍した北朝鮮からの留学生はいなかった。通学も、自宅から
学校までの約200メートルを警護なしで歩いていた。
親友だったジョアオ・ミカエロさん(25)の家に遊びに来ることも多かったという。ミカエロさんは「一人で
自転車に乗って来ることが多かった」と話す。ミカエロさんの家では、母親が作ったおやつを食べてから
一緒に宿題をしたり、遊んだりした。休日は2人でサイクリングに出かけることもあったが、護衛はなかった
という。ミカエロさんは「とても気さくで、いつも音楽を口ずさんでいた」と正雲氏の人物像を語った。
北朝鮮情勢に詳しい消息筋は、「90年代後半には、正男氏を後継者とする動きが強かった。後継
候補ではない次男でも正哲氏は初の長期留学ということで、周到に準備したが、正雲氏は三男という
こともあって自由にさせたのではないか」と語る。
ただ、北朝鮮のような体制で、国際学校から現地校への転校を現場の判断で決めることはあり得
ない。何らかの理由で国際学校が肌に合わず、正雲氏が直接希望したとしても、最終的に金総書記
の決裁が必要だったことは確実だ。
金総書記の料理人だった藤本健二さんによると、金総書記は、3人の息子の中で正雲氏を一番気に
入っていた。その正雲氏にあえて現地校への留学という異色の体験をさせた金総書記の思惑は、謎に
包まれたままだ。【ベルン澤田克己】
◇中立国スイスで貴重な海外経験
金総書記は正男氏、正哲氏、正雲氏の3人を相次いでスイスに留学させ、早い時期からの「海外
経験」を優先させた。語学を学ぶだけなら留学経験のある党幹部らがおり、国内で学ぶことも可能だ。
親元を離れる生活の苦労や警備の負担なども考えると、踏み込んだ判断があったことが推測される。
礒崎敦仁・慶応大専任講師(北朝鮮政治)は「金正日氏は現実主義者。北朝鮮の教育水準が
それほど高くないことを知り、海外で学ぶ必要性を早くから認識していた」と指摘する。特に正哲氏、
正雲氏が留学したのは冷戦終結後の90年代。「西側諸国に目を向ける必然性が高まり、“敵”の
論理を知る重要性もわかっていたはずだ」と分析する。
留学先は、北朝鮮と国交があり、中立国で安全とされるスイスが選ばれた。正男氏はジュネーブだが、
正哲氏と正雲氏は、韓国人を含む外国人の出入りが少ないとの理由でベルンになったとみられる。
ベルンは、首都とはいえ外交団が数百人しかいない静かな町だ。“金庫番”として金総書記の信任が
厚い李哲(リチョル)大使がいることも、弟たちの留学先にベルンが選ばれた理由の一つになっていると
みられる。
また、幼少のころの正哲氏、正雲氏を知る藤本健二さんは「3人のいずれかが後継者になった際に
国際社会に向けて海外経験をアピールする必要性があったのではないか」と指摘。さらに「金正日氏の
息子とわかれば、北朝鮮の学校では、こびへつらう友人らも寄ってくる。普通の人間関係を築くため、
誰も知らない海外で学ぶ必要もあったのだろう」と話す。
一方で、正雲氏らは留学中も父母や故金日成主席の誕生日などに合わせて度々帰国していたと
される。金総書記は、異国の地で学ぶ息子の近況を直接確認していたようだ。【鵜塚健】
http://mainichi.jp/select/today/news/20090614k0000m030118000c.html