>>1 > 辛会長が日本で成功を収められたのは誠実さと信頼感があったからだ。 創業の初期、辛会長
> の誠実な性格を信じて5万円を出資した日本人投資家は、稼働前に工場が爆撃で灰になって
> も辛会長を最後まで信じたという。
『ZAITEN』 2008年1月号
レポート:日韓をまたぐ「4兆円財閥」の実像
ロッテ 「引き裂かれる重光王国」 ジャーナリスト 田中幾太郎
http://www.zaiten.co.jp/zaiten/200801.shtml 太平洋戦争のさなか、さまざまなアルバイトをしながら大学に通っていた重光が、在学中
(46年3月卒業)に事業を始めるきっかけとなったエピソードがある。
「辛(重光)氏自身が語っているところによると、日頃からつきあいのあった“ハナミツ”という
質屋を営む老人から、6万円を出すから工場をつくって不足している旋盤用の油を生産して
みないかと申し出があったという。それで工場を始めるわけですが、いくら親しくなっていても、
その当時の在日の置かれている立場を考えれば、日本人がポンと大金を出すとは考えにくい。
しかも、辛氏はまだ学生ですよ。眉唾としか思えないんですがね」(韓国紙記者)
戦時中と現在の貨幣価値を公務員の初任給や消費者物価で比較すると、少なくとも1500倍
以上。となると、当時の6万円は9000万円以上ということになる。日本人か韓国人かは別にし
ても、それだけの額を借用書1枚で20代前半の学生に出資するとは、にわかに信じられない。
また、ハナミツなる老人についても、質屋だったこと以外、具体的なことはほとんど語られて
いないのである。
ともかくも、資金を得た重光は東京・大森に工場をつくり、旋盤用の油の生産に乗り出した。
だが、まもなく空襲を受け、工場は全焼。次に東京・八王子の民家を手に入れたが、工場が
順調に稼動し始めた矢先に、やはり空襲で全焼してしまった。終戦の数日前のことだった。
>>12 続き
(中略)
徹底した宣伝戦略でライバルを追い落とし、60年代後半にはガムのシェアの5割を占めるまで
になるロッテだが、重光は気が気ではなかった。68年末に開かれた日米合同会議で、3年後の
72年初頭からガムを自由化するとの話が持ち上がったのだ。リグレー社が日本に上陸すれば、
太刀打ちできないのは目に見えていた。(中略)
「重光氏は脅威を感じ、深い関係にあった岸信介氏にリグレー進出阻止を頼んだ」と話すのは、
政治部OBだ。
「リグレーが日本に進出する72年、関税率は逆に35%から40%に引き上げられるという事態に
なりました。岸氏の命を受けた筆頭秘書の中村正芳氏が農林省や大蔵省に強く働きかけたん
です」
(中略)
「岸と重光を結びつけたのは町井久之(韓国名・鄭建永)です。兄貴分にあたる児玉誉士夫を
通して岸と懇意になった町井が、重光を引き合わせたのだと思われます」
町井は戦後、愚連隊を束ね、暴力団「東声会」を結成。東京・銀座界隈では「銀座の虎」と
恐れられた。
(中略)
「戦争末期の物資がない時代に、どうやって旋盤用の油の原料を手に入れたのか。さらには、
重光は戦争が終わってすぐに、石鹸や化粧品をつくり始めている。原料の油脂はどうしたのか。
闇物資を調達するしかない。どうもこの頃、調達に町井が介在していた節がある」(週刊誌記者)