【日韓歴史】 日本で王のようにもてなし受けた朝鮮通信使〜費用かかりすぎで民衆暴動も[01/31]

このエントリーをはてなブックマークに追加
258東夷 ◆43eKv.KwIo
>>241

大名と同じ正門の大手門から入っているんだってば、
変なデマを信じないように。

・「台徳院殿御実紀」(徳川秀忠)
 「(慶長12年5月6日)宗対馬守義智朝鮮信使呂祐吉、慶暹、丁好寛等をひきつれてまうのぼる」
・「大猷院殿御実紀(徳川家光)
 「(寛永元年12月19日)韓使登営す。出仕の輩五位以上衣冠せり。
 正使鄭■、副使姜弘重、従事官辛啓栄、大手門より玄関にいたり殿上に伺候す」
 「(寛永20年7月18日)朝鮮国信使聘礼行はる。よて信使は辰刻本誓寺の旅館を出て、路中音楽を奏し、その国書を先に立てまうのぼる。
 上官は大手門下馬牌の下より馬を下り(以下略)」
・「厳有院殿御実紀」(徳川家綱)
 「(明暦元年10月8日)韓使引見あり。三使本誓寺より大手門に至る間、三使の先にその国王李Bが書簡(以下略)」
・「常憲院殿御実紀」(徳川綱吉)
 「(天和2年8月27日)朝鮮信使引見あり。
 本誓寺より大手の門までは宗対馬守義真、并に小笠原信濃守長勝、内藤左京亮義泰が家人等(以下略)」
・「文昭院殿御実紀」(徳川家宣)
 「(正徳元年11月30日)韓使引見あり。三家ならびに国持はじめ諸大名布衣以上の諸有司みなまうのぼる。
 かの使臣もこたびは聘礼御改更あるをもて、いままでの聘時には着せざるよそひども正して。
 大手門にいたるとき、旗仗并に伶人をとどめ、上官以下みな下馬し(以下略)」