【韓国】植民支配時代に埋められたハニャン都城、80年ぶりに発掘[12/28]

1超イケメンマスク( ヽ´`ω´ )φ ★
80年が過ぎるまで地中に埋まっていた漢陽(ハニャン)都城が姿を現した。

ソウル中心部の東大門(トンデムン)サッカー競技場の下から、123メートルにのぼる朝鮮(チョソン
、1392~1910年)時代の城郭の下の部分が発掘されのだ。

特に視線を引きつけるのはほぼ円形のままの、花こう岩でできたアーチ構造の「二間水門」だ。二間
水門は南山(ナムサン)と獎忠洞(チャンチュンドン)から流れ出た水を城の外に取り出すために作られ
た水門だ。「雉城(胸壁)」のこん跡も初めて発見された。近接する敵を攻撃するために城壁を突出さ
せたのが雉城で、漢陽城郭の雉城はこれまでは文献にのみ記述が残っていた。
 
ソウル市は同地に商業施設「東大門デザインプラザ&パーク」を作るため、事前の発掘調査を行っ
ている。日本の帝国主義による植民支配時代(1910~45年)の26年、興仁之門(フンインジムン)か
ら光煕門(クァンヒムン)の間にある城郭を崩し、周辺の水路を埋め立てして京城(キョンソン)運動場を
建設した。京城運動場は光復(解放)後にソウル運動場と東大門運動場に改称され、各種の試合と行
事が行われた近現代史の空間に変身した。

当時、日本は何故ここに大規模な運動場を作ったのだろうか。朝鮮の軍隊のこん跡を消すためだっ
た。運動場は首都を防衛し、国王の護衛と地方軍の訓練や治安を担当する下都監があった場所だ。

高宗(コジョン 朝鮮時代の第26代王)18年に設置された別技軍(朝鮮時代の新式軍隊)の訓練場
であり、差別に不満を抱いた旧式軍隊が日本人教官らを殺害した壬午軍乱が発生した所だ。宗廟(朝
鮮時代の歴代王・王妃などを祭った所)を横切る道路を建設し、景福宮(キョンボククン)内部に総督府
を設けた日本が、当地を朝鮮人の記憶から消そうとしたのは当然なことだった。

裏側には東大門衣類商店街の高層ビルが立ち並ぶ。世界経済危機が進み、厳しい困難に直面する
とみられている。だが危機を賢明に乗り越えれば、より明るい未来がやってくる。一年を終えるこの時
期に絶望よりは強い意志と希望を胸に抱きたい。丈夫かつ美しい朝鮮の城郭は、暗い地中でも自分の
姿を失わなかった。

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=109346&servcode=400§code=400

http://japanese.joins.com/upload/images/2008/12/20081228113900-1.jpg

http://japanese.joins.com/upload/images/2008/12/20081228113900-2.jpg
▲1910年に制作された京城龍山(ヨンサン)市街図の一部。五間(オガン)水橋の下に清渓川(チョン
ゲチョン)が流れる。赤い線で表記したのは、左側が撤去された東大門野球場、右側がサッカー競技
場。