【竹島】 江戸幕府、小笠原群島の領有権主張に「独島=朝鮮領」地図を利用していた〜保坂祐二教授[05/02]
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●半月城先生の最新見解
外務省パンフレットへの批判4、(1) 2008/ 4/19 15:50 [ No.16464 / 16466 ]
投稿者 : ban_wol_seong
4.幕府の渡海禁止令
1693(元禄6)年、大谷家の渡海船が竹島(欝陵島)で安龍福と朴於屯のふたりを拉致
したことをきっかけに、日本と朝鮮の間で同島をめぐる領有権交渉「竹島一件」が始まり
ました。この交渉について外務省のパンフレットはこう記しました。
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状況を承知した幕府の命を受けた対馬藩(江戸時代、対朝鮮外交・貿易の窓口であっ
た。)は、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への
渡航禁制を要求する交渉を開始しました。しかし、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって
意見が対立し合意を得るに至りませんでした。
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意見の対立は当然でした。そもそも幕府の命令は当初から無理なものでした。その命
令に対し、対馬藩ではすぐに疑問の声があがったくらいでした。前藩主である天龍院(宗
義真)は幕府の真意をいぶかって、次のような疑義を提起しました。
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竹島の儀は磯竹島ともいう。先年、大献大君(徳川家光)の時代、その島へ磯竹弥左
衛門、仁左衛門(ママ)と申す者が居住していたのを召し捕えて差し出されるようにと(公
儀から)光雲院公(宗義成)へ仰せつけられ、すなわち此方より召し捕られて差し出した
ことがあった。
しからば、竹島の儀は日本の伯耆にある島と公儀でお考えならば、伯耆藩主のほうで
弥左衛門・仁左衛門を召し捕えて差し出されるようにと仰せつけられるはずであるのに、
当国へ仰せつけられたのは、朝鮮の竹島とお考えであると見られる。
この次第を一応、公儀へ伺うことを考慮するよう留意して、朝鮮へ申し入れるべきで
ある(『竹島紀事』9月4日)。
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天龍院の疑問はもっともなことでした。かれは、朝鮮とのいきさつから竹島(欝陵島)
が朝鮮領であることを熟知していたので、幕府が潜商事件の弥左衛門親子を捕える仕事を
鳥取藩でなく対馬藩へ命じたのは、幕府も同島を朝鮮領と考えているからではないかと疑
っていたのでした。
しかし、この時の藩論は、幕府の公命には背けないので、幕府へ事情を正すようなま
ねはできないという結論でした。その結果、対馬藩は幕府の真意がわからないまま、朝鮮
領である竹島(欝陵島)へ朝鮮人が来ないように要求するという無理難題を朝鮮へふっか
けることになりました。
一方、幕府内では潜商事件が忘れ去られていたのか、あるいは組織の問題で受け継が
れなかったのか、幕府は竹島(欝陵島)について改めて調査を始めました。1693年5月
21日、勘定奉行の松平美濃守は江戸の鳥取藩邸へ竹島渡海に関する質問をおこないまし
た。
これに対して鳥取藩は、竹島は鳥取藩の支配地でないと明言し、「竹島は離れ島にて
人の居住はありません。もっとも、伯耆守が支配する所でもありません」と回答しました
(注1) 。
この回答書により、幕府は竹島(欝陵島)が鳥取藩領でない、ひいては日本領でない
ことを悟ったのですが、そうかといって、対馬藩へ出した命令を取り下げたりはしません
でした。察するに、朝令暮改で幕府の威信に傷がつくことを懸念したのでしょうか。
他方、対馬藩の要求を突きつけられた朝鮮政府は、欝陵島が官撰書『東国輿地勝覧』
などに記載されていることから、同島の領有を確信していました。しかし、日本との摩擦
を避けるため、一時的に宥和政策をとって交渉に臨みました。
朝鮮政府は、欝陵島が日本でいう竹島であることを知りながら、欝陵島と竹島をあた
かも別の島であるかのように扱い、形式上で朝鮮人の竹島への渡航禁止という日本の要求
を受けいれました。その一方で「弊境の欝陵島」という原則的な立場は堅持し続けて対馬
藩へ書簡をしたためました。
(つづく)