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【東京】日本の極右、「竹島は日本の領土」〜李明博大統領宿舎の帝国ホテル前で叫ぶ[04/22]
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2008/04/29(火) 18:26:34 ID:+TiuA/NN
外務省パンフレットへの批判6、(4) 2008/ 4/27 17:27 [ No.16505 / 16505 ]
投稿者 :ban_wol_seong
一般に、離島の名前が急に変わるのはよくあることです。日本でも竹島=
独島の名は松島からホルネットやリエンコールト、リアンクール、リャンコ、ヤ
ンコなどとさまざまに呼ばれました。さらに、当時の欝陵島の日本人住人は「卵
島」と呼んでいました(注9)。卵島の読み方ですが、リャンコ島の類推で「ら
んとう」と読みがちですが、正しくは「たまごじま」です(注10)。
このように、離島の多様な呼び名が竹島=独島問題を複雑にしているのです
が、いずれにせよ、石島を竹島=独島以外に比定することは困難なので、パンフ
レットもそれを考慮して、こう記しました。
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6-7 いずれにせよ、仮にこの(島名の)疑問が解消された場合であっても、
同勅令の公布前後に、朝鮮が竹島を実効的に支配してきたという事実はなく、韓
国による竹島の領有権は確立していなかったと考えられます。
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勅令にいう石島が竹島=独島なら、勅令の公布自体が竹島=独島の領有権も
主張したことになります。したがって、パンフレットの見解は見当はずれではな
いでしょうか。
さらに、勅令発布後は竹島=独島での漁が盛んになりましたが、同島へ出漁
した日本人や韓国人漁夫は欝陵島を基地にしていたことが日本海軍の軍艦・新高
の『行動日誌』から明らかです。しかも、その時に竹島=独島を日本人は「リヤ
ンコ」、韓国人は「独島」と呼んでいました(注11)。
このように、1905年の島根県告示以前に文献からも独島と呼ばれた島は欝陵
島の付属島であることが明確にされたのでした。こうして竹島=独島は欝陵島の
付属島としての地歩がますます確実になり、『世宗実録』の両島が一対であると
いう認識は不動でゆるぎないものになりました。
そうした歴史的背景があったので、1906年に島根県の一行が欝陵島を訪問し
たとき、欝島郡守・沈興澤はその顛末の報告書にて「本郡所属独島が外洋百余里
にある」と記したのでした(注12)。これから欝島郡守がすでに竹島=独島を欝
島郡の付属島として彼の管轄下においていたことは明らかです。かれは、それ以
前から韓国人が独島と呼ぶ島へ欝陵島から頻繁に出漁していた事実を把握してい
たのでした。
このように、1905年以前から竹島=独島は欝陵島の付属島であることがはっ
きりしており、法的にも欝島郡の付属島とされるので、竹島=独島はけっして無
主地ではなく、島根県告示が無効であることは明らかです。
(注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両国政府の見解」『レファレンス』
2002.6月号、P58
(注2)半月城通信<外務省内の「竹島・松島」島名混乱と結論>
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.684
(注3)「朝鮮国 交際始末 内探書」
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/kousai_shimatsu.pdf
(注4)『日本地誌提要』巻之五十、「隠岐」
http://www.kr-jp.net/meiji/meiji_msc/chishi-teiyou.pdf
(注5)『磯竹島事略』
http://www.kr-jp.net/meiji/meiji_msc/jiryaku1875.html
(注6)太政官「竹島外一島」版図外指令
http://www.kr-jp.net/meiji/koubun/koubun.html
(注7)半月城通信<証拠としての竹島=独島地図、舩杉氏への批判>
http://www.han.org/a/half-moon/hm129.html#No.949
(注8)半月城通信<勅令にいう「石島」はどこ?>
http://www.han.org/a/half-moon/hm131.html#No.959
(注9)坪井九馬三「鬱陵島」『歴史地理』第38巻3号、1921,P167
(注10)坪井九馬三「竹島に就いて」『歴史地理』第56巻1号、1930,P34
(注11)『軍艦新高行動日誌』1904年9月25日
(注12)内藤浩之<宋炳基「欝島郡守 沈興澤報告書」『北東アジア文化研究』
2006,P67
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/