【竹島問題】「石島=独島」を否定する”韓国側”の資料を兵庫の会社員が公開・・・専門家も注目★2[02/22]

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360<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
E皇城新聞で言った「距離」は鬱陵島の距離を意味
 皇城新聞記事で「郡庁は台霞洞に置いてこの郡の管轄する島は竹島と石島で」としたこ
とが鬱島郡に対する説明なのかは敢えて証明が必要ではないだろう。ところが「東西が 60
里で南北が 40里だから合わせて 200余里」と言った部分が日本の主張どおり鬱島郡の管
轄範囲を現わすのか、それとも鬱陵島の距離を言ったものか。
しかし上でも言及したように、それは管轄範囲を言うのではなく鬱陵島の範囲を現わす
と見なければならない。ところが「鬱陵島の範囲」と言うことと「鬱陵郡の管轄範囲」と
いうのは確かに他の概念だ。日本はこの数字が鬱陵島の大きさである東西 10q、南北 9.5
qとも違うから鬱陵島を示すのではないと主張する。
しかしこれは朝鮮時代の表記方式として今日の距離測定と必ず一致することではないと
いう点を勘案しなかったから生ずる問題だ。すなわち皇城新聞で言った鬱陵島の大きさが
日本が言う東西10q、南北 9.5q13)という数字と必ず一致するものではないというの
だ。皇城新聞で言った距離関係は朝鮮時代の距離概念に照らしてよく見る必要がある。結
論的に言うと、そうした基準でみたら皇城新聞で言った距離はすぐ鬱陵島の距離をいうと
見なければならない。新聞の数字が現在知られた鬱陵島の大きさと大きな誤差がないから
だ。これは朝鮮時代に記録した鬱陵島の距離と対照してみれば立証されるだろう。
 朝鮮時代に鬱陵島を捜討した者等は大部分距離関係を記録で残したが、言わば、肅宗年
間鬱陵島を捜討した張漢相は「南北は 70里で、東西は 60里、まわりは 150~160里に過
ぎない」と言ったし、同時代の朴世堂はまわりがわずか 100余里と言った。月松万戸金
昌胤の捜討記録(正祖10年)には、「島全体のまわりが 120余里は出そうだったし、南
北で70~80里、東西で60~70里」となっている。韓昌国(正祖18年)も「南北が 70~80
里余で、東西が50~60里余」と言った。一方李奎遠はまわりは140~150里と思ったし、
金正浩は「まわりは 200余里、東西 70余里、南北 50余里」だと言って14) 各々鬱陵島
の距離関係ないしまわりを言った。
これらの記録を見れば鬱陵島のまわりや東西南北の距離記述にどのくらい偏差があるこ
とは事実だ。皇城新聞にもやはり距離関係が出るのに、これは奇妙にも金正浩が記述した
距離関係に近い。金正浩は「(鬱陵島の) 東西は70里、南北は 50里、まわりは 200里」
と言ったが、皇城新聞には「東西は60里、南北は40里、まわりは 200里」となってい
るからだ。二つの記録の間に東西南北で10里くらいの偏差があるだけだ。その上捜討官
たちが鬱陵島の地理的事実を記録したことと地理学者である金正浩が記録したものの中の
いずれがもっと正確で現実的であるか。ところで偶然かは分からなくても皇城新聞の記事
は金正浩の記録と一番似たり寄ったりだ。金昌胤や張漢相、韓昌国の記録も東西南北の距
離においてはあまり大きい差がないが、まわりの面では誤差があるのに比べて、金正浩の
記録と皇城新聞の記録はまわりに関してただ唯一のようだ。金正浩の記録が鬱陵島に関す
る距離関係のように皇城新聞の里数も鬱陵島の距離関係を表現したものと考えられる。そ
れなら皇城新聞で言った「東西 60里、南北が 40里、合わせて200余里」はまさに鬱陵
島に関して言ったことであって、日本が主張するように鬱陵郡の管轄範囲を言ったと見る
ことは難しい。