【竹島問題】「石島=独島」を否定する”韓国側”の資料を兵庫の会社員が公開・・・専門家も注目★2[02/22]

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327<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
@大韓帝国勅令 41号と「石島」の登場
 わが国はその間大韓帝国勅令41号に出る「石島」が独島を示すと主張してきた。とこ
ろで最近日本の「山陰中央新報」がこれを崩すに値する新しい史料が発見されたと報道す
ることで「石島=独島」論争が今一度加熱している。
 1900年 10月 25日高宗皇帝の裁可を受けて 27日官報に載せられた勅令 41号は鬱陵
島の官制改訂を主要内容としている。特に第2条で「郡庁の位置は台霞洞と決めて、区域
は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること」ということで大韓帝国は鬱陵島とその付属島嶼
が朝鮮の領土であるのを確かにしたのだ。ところでこの間文献上に登場した于山島や独島
という言葉の代わりに「石島」が勅令に初めて登場することで、韓日両国間には勅令での
石島が果たして独島なのかについて多くの批評があった。
 しかしこの勅令 41号はある日、急に成り立ったのではなく、ここに出る「石島」はや
はりこの間の「于山島−独島」 論議と関係なくはなかった。この勅令は日本の鬱陵島侵
奪がひどくなっているので、鬱陵島の資源と島民を保護するためには朝鮮国土の圏域を確
かにしておく必要があると感じた政府が、長年の間かけて準備した結果物だからだ。
 1881年 5月江原監司の報告に接した政府は鬱陵島で日本人による無断伐木がひどいと
いう事実が分かってからは、日本外務省に書契を送って抗議する一方、1882年 4月李奎
遠を検察使として派遣して鬱陵島の形勢を察するようにした。引き続き朝鮮は鬱陵島開拓
を論議し始めたし 8月には鬱陵島島長を任命するに至った。自ずから鬱陵島には内陸か
ら流入してきた住民が増加するのと同時に日本人の流入も増加した1)。鬱陵島の日本人
は木材を不法搬出するかといえば島民に刀を振り回すとか箱入り娘をからかうなどトラブ
ルの発生がますますひどくなった。その上にロシアに伐木権と育木権が許可されながら鬱
陵島は露日間の角逐場になっていったが、ここで生ずる葛藤と摩擦を島監の力だけでは手
におえなくなった。ここで政府は既存の行政体制では対処しにくいと判断、1890年代中
盤から官制改編に対する論議を始めたのだ。
 勅令 41号が出る前の1898年 5月 26日、「地方制度の中で鬱陵島島監の設置の件」と
いう勅令 12号を発布して、島監を判任官待遇にするという方針を決めたが、名目上の編
入に止めたので、実質的な行政整備は 1900年5月視察委員禹用鼎の調査以後成り立った。
 禹用鼎は監理署主事金冕秀、海関税務士フランス人ラポルテ(羅保得)、日本副領事赤塚
正輔、日本警部(警部:韓国の警衛相当) 渡辺鷹治郎、わが国の保護巡検シンテヒョン、
キムヒョンウク、日本保護巡検二人と一緒に入島した。そして禹用鼎は6月1日から5日
にかけて島監と住民、日本人を相手に審問調査をした。
禹用鼎の視察目的は鬱陵島の伐木現況と日本人による被害現況、開拓状態などを調査す
ることだった。調査の結果禹用鼎は船舶の購入と官制改編を一番至急な懸案と見た。この
なかに勅令41号と直接的な関係があるのは官制改編だ。