【竹島問題】国土地理院が地形図に竹島の詳細を初表示[12/12]

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248<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
▲日本の「竹島領土編入」

  帝国主義国家として著しい発展を遂げた日本帝国は、朝鮮や満州における勢
力圏確保をめぐってロシアと対立するようになり、1904年2月、旅順のロシア艦
隊に奇襲攻撃をかけて日露戦争を始めま
した。
  しかし、初期の戦況は日本に不利でした。特に日本海では日本の輸送船がウ
ラジオ艦隊に次々と沈められ、軍需物資の補給に支障をきたしていました。その
ため、日本海における軍事施設の強化が急務であり、欝陵島や竹島=独島は重要
な軍事上のキーストーンとして浮かびあがりました。
  そうした折、隠岐に住む中井養三郎はリヤンコ島(竹島=独島)におけるア
シカ猟の独占を図り「リヤンコ島領土編入ならびに貸下願」を政府に提出しまし
た。しかし、これには内務省が反対しました。かつて同省は竹島=独島を版図外
とする太政官指令を受けていただけに、願書に対して「この時局に際し、韓国領
地の疑ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の
野心あることの疑を大ならしむ」として願書を一旦は却下しました。
  しかし、外務省の考えは違っていました。政務局長の山座円二郎は「時局な
ればこそ、その領土編入を急要とするなり。望楼を建築し、無線もしくは海底電
信を設置せば、敵艦監視上きわめて屈竟ならずや。特に外交上、内務のごとき顧
慮を要することなし。すべからく速やかに願書を本省に回付せしむべし」として
中井を督促しました。
  この時期、日本は日英同盟や桂タフト条約を締結しており、もはや朝鮮問題
で西欧列強に神経を使う必要がなかったのでした。日本は帝国主義国家の本性の
ままに領土拡張の牙をむきだしにしたのでした。この外務省の論理に内務省も従
い、1905年2月、リヤンコ島を日本領へ編入することを閣議決定しました。
  日本政府が竹島=独島を領土編入した論理ですが、それは「無主地」である
リアンコ島に中井が1903年以来「移住」したので、これを国際法上の占領と認め
て日本の領土に編入したというものでした。
  しかし、この論理には無理があります。まず、竹島=独島は民間人が居住で
きるような島ではなかったし、また中井が竹島=独島に本格的に居住した事実も
ありませんでした。それにも増して重要なのは、それまで日本政府が朝鮮領と考
えていたリアンコ島を無主地と判断したことです。かつて明治政府は、内務省や
外務省、海軍、太政官など関係機関が同島を朝鮮領と考えていましたが、その判
断を根本的に覆すものでした。
  閣議決定後、領土編入は政府内で秘密裏に処理されました。官報による告示
もなく、わずかに政府の訓令を受けた島根県が県告示で関係者に公表したにとど
まりました。同県は2月22日、県告示四〇号で同島を竹島と命名し、隠岐島司
の所管にすると公示しました。
  このように日本の竹島=独島編入は政府レベルで秘密裏になされたので、日
本国民はその事実をほとんど知らずにいました。それどころか主要なマスコミす
ら知らずにいました。告示から三か月以上たった五月三十日、日本海海戦の勝利
を伝えるほとんどの新聞は「竹島」の名前を用いずに、外国名の「リアンコール
ド岩」という名で報道しました。
  はなはだしくは、海軍省や官報ですら「竹島」でなく「リアンコールド岩」
の名を使用していました。これは水路部を擁し、国境について熟知しているはず
の海軍省においてすら「竹島」編入の事実が周知徹底していなかったようです。
また、地元の山陰新聞は県告示を「隠岐の新島」という見だしで小さく報道しま
した。地元でも固有領土の意識は皆無だったようです。