【竹島問題】国土地理院が地形図に竹島の詳細を初表示[12/12]
246 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:
▲明治時代の「竹島外一島」版図外確認
かつて奈良時代に全国の風土記が作成されましたが、それに匹敵する本格的
な地理誌が明治初年に発刊されました。刊行は、明治時代の国家最高機関である
太政官に付属した正院地誌課およびそれを引き継いだ内務省地理局によってなさ
れました。その『日本地誌提要』は、竹島・松島を「隠岐」条にてこう記しまし
た。
○本州の属島。知夫郡45。海士郡16。周吉郡75。穩地郡43。合計179。これを
総称して隠岐の小島という。
○また、西北にあたり松島・竹島の2島がある。土俗が伝えている。穩地郡の
福浦港から松島に至
る。海路はおよそ69里35町(275km)。竹島に至る。海路およそ100里4町(393km)。
朝鮮に至る海路およそ136里30町(537.3km)。
このように官撰地誌において竹島・松島が本州の属島外とされましたが、こ
れは重要です。明治政府が両島を日本の領土外と断定したことを意味します。明
治時代の地理学者である田中阿歌麻呂もそのように理解して『地学雑誌』200号
にこう記しました。
「明治初年に到り、正院地誌課にてその島(竹島=独島)が本邦の領有を完全
に非認したので、その後の出版された多くの地図はその所在を示さないようであ
る。明治八年 文部省出版 宮本三平氏の日本帝国全図にはこれを載せても、帝国
の領土外に置き塗色せず」
明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針をその後も一貫して堅持
しました。その一例として明治政府の地籍編纂事業をあげることができます。明
治10(1877)年、竹島(欝陵島)の地籍が問題になった時に内務省は元禄期の
「竹島一件」を考慮し、竹島外一島を日本の領土外と判断しました。ここにいう
「外一島」が松島(竹島=独島)をさすことは、島根県からの伺書「日本海内竹
島外一島 地籍編纂方伺」に添付された資料から明白です。そこにこう記されま
した。
次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路に
ある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、
魚や獣(アシカか)を産する。