【竹島問題】国土地理院が地形図に竹島の詳細を初表示[12/12]
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▲朝鮮王朝の竹島=独島領有意識
朝鮮では古くから朝鮮の東海に二島あることが知られていました。二島とは
欝陵島と于山島ですが、欝陵島は時には武陵島、蔚陵島など様々な名前で呼ばれ
ました。両島は15世紀の官撰地理誌である『世宗実録』地理志にこう記されま
した。
于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明
であれば望見することができる。新羅の時に于山国と称した。一説に欝陵島と云
う。その地の大きさは百里という。
欝陵島近辺には無数の岩や島がありますが、天候が清明の時にだけ望見でき
る島は竹島=独島しかありません。したがって、この文章における于山島は竹島
=独島とみることができますが、その位置や大きさなどは記載されませんでした。
さらに、当時の欝陵島には倭寇などを避けるために空島政策がしかれ、渡海が禁
じられていました。そのため、于山島の認識はあいまいで、いわば書物の上だけ
の観念的な存在でした。
ところが、1696年に一大転機が訪れました。韓国で英雄とされる漁民の安龍
福が鳥取藩へやって来ました。かれは、3年前に欝陵島で日本の大谷船により拉
致されたことがありましたが、今度はみずから来日しました。
その目的は鳥取藩への訴訟であり、朝鮮の官吏を装って、船に「朝欝両島
監税将 臣 安同知騎」と書いた旗を立ててやって来ました。旗の意味を日本では
「朝鮮の欝陵、子山両島の監税将、臣、安同知が乗務」と解されました。子山は
于山島であり、同知は職名です。
この時の安龍福は訴訟のために「朝鮮八道の図」まで用意しました。その地
図で欝陵島と子山島が朝鮮の江原道に属するとされました。しかも欝陵島は日本
でいう竹島、子山島は松島であり、両島は朝鮮領であるとされました。
この事件は、鳥取藩のみならず、幕府や対馬藩に衝撃を与えました。紆余曲
折の末、対馬藩は当初の主張とは逆に日本人の渡海禁止を朝鮮へ伝達して「竹島
一件」交渉を終結させました。
この安龍福の第2次渡日事件により、朝鮮の官撰史書である『東国文献備考』
や『萬機要覧』などに「欝陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうと
ころの松島なり」と記されるようになり、于山島に対する領有意識が確立しまし
た。
しかし、離島に対する空島政策がその後も継続されたため、于山島の存在は
次第にあやふやになり、1900年の勅令41号では于山島の名が消え、竹島=独島
は石島とされました。その詳細は文末の参考書に譲ることにします。