【竹島問題】国土地理院が地形図に竹島の詳細を初表示[12/12]
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<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:
▲江戸時代の竹島=独島領有意識
日本政府が竹島=独島を日本の固有領土とする根拠は時代とともに変化して
きたのですが、その詳細は省き、最近の主張を同省のホームページにみることに
します。竹島=独島を固有領土とする根拠として下記の3項目を掲げました。
(1)竹島の認知
今日の竹島は、我が国では明治時代の初め頃までは「松島」の名前で呼ばれ
ており、当時「竹島」(または「磯竹島」)と呼ばれていたのは、現在の鬱陵島
のことでした。しかし、我が国が、古くから「竹島」や「松島」をよく認知して
いたことは、多くの文献や地図等により明白です。
(2)竹島の領有
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を
確立していたと考えられます。この当時、鳥取藩米子の大谷・村川両家は、鬱陵
島への渡海を幕府から公認され、交互に毎年1回、同島に渡海して漁労や竹木の
伐採等を行うとともに、これによって得られた鮑(あわび)を幕府に献上してき
ました。この間、今日の竹島は、鬱陵島への渡海の船がかりの地として、また、
漁採地として利用されていました。
(3)鬱陵島への渡海禁止
大谷・村川両家による鬱陵島の開発は約70年間平穏に続けられていました。
しかし、1692年に村川家が、また、1693年に大谷家が鬱陵島に出向くと、多数の
朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。これを契機に、
日本と朝鮮の政府間で鬱陵島の領有権を巡る交渉が開始されましたが、最終的に
幕府は、1696年1月、鬱陵島への渡海を禁止することとしました(いわゆる「竹
島一件」)。ただし、竹島への渡航は禁じませんでした。
日本が竹島や松島をいかによく知っていようとも、それだけでその地が日本
領になるわけではありません。また、その地で頻繁に漁労や竹木の伐採等を行な
うことは、もしその地が外国領であれば、その行為は密漁ないしは略奪行為であ
り、許されるものではありません。欝陵島がその典型例でした。
1620年、江戸幕府は対馬藩に命じて、竹島(欝陵島)で密貿易を行なっ
ていた弥左衛門・仁右衛門親子を「潜商」の罪で捕えました。そのことが幕府の
外交資料集である『通航一覧』に記されましたが、その記事において欝陵島は
「竹島、朝鮮国属島」と記述されました。幕府は竹島を明確に朝鮮領と認識して
いたのでした。