【日韓】゛日本固有の木゛である高野槙…で作られた木棺が、百済の王陵にあるという“古代史の謎”[9/17]

このエントリーをはてなブックマークに追加
518<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
韓国南部の前方後円墳は倭人の墓か?
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1008077694/

*武寧王陵(宗山里古墳群)
ttp://inoues.net/korea/buneiou.html
玄室内には木棺が置かれ、その材質となった木材は細胞の分析結果から、日本の近畿地方南部に
しか見られない「コウヤマキ」であることが確認され、武寧王時代の百済と日本の関係、また、武寧王
自身の出自などを巡って論争が巻き起こった。
墓から、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、銅鏡、陶磁器など約3000
点近い遺物が出土したが、驚くべきことに百済製の土器は1点も出土していない。すべてが中国の
南朝からの舶来品であって、この王朝がいかに中国南朝に傾斜していたかを物語っている。

「日本書紀」の雄略天皇5年の条に、「百済の武寧王は、筑紫の各羅(かから)島で生まれたので
島君(せまきし)と言う。」という記事があり、武烈紀にも同様の記事があり、「武寧王の諱(いみな)は
斯麻王と言う。」とある。「三国史記」にも武寧王の名は斯摩となっている。島で生まれたから、斯麻王
という名前が付けられたという。各羅島は、現在の松浦半島の突端にある呼子島の真北にある
加唐島(かからじま)のこととされている。これは一体何であろうか?

武寧王の陵墓が発見されたことで、これらの記事の正しさが立証されたが、では斯麻王すなわち
武寧王は日本人なのか? どうして佐賀県で産まれたのか?

*[西日本新聞2002年1月15日(朝刊)1面] http://tools.geocities.co.jp/CollegeLife/1964/@geoboard/169.html


韓国で日本式横穴墓群 5世紀の15基発掘

 韓国の忠清文化財研究院は23日、忠清南道公州の丹芝里遺跡から日本特有の様式とされる5世紀(百済期)ごろ
の15基の横穴墓群を発見したことを明らかにした。
 同様の墓は5世紀末から8世紀までに九州で多く見られるが、朝鮮半島でこれほどの数が一度に発見されたのは
初めてという。4−7世紀に朝鮮半島南西部で栄えた百済と日本の交流がうかがわれ、横穴墓の起源を知る上でも
貴重な資料になると期待している。
 横穴墓は丘陵地帯にあり、それぞれ約30センチ−約2メートルの羨道(せんどう)を持ち、遺体を埋葬した奥行き
約1−2メートルの玄室の入り口には石で段差を設けた例が多く見られた。土器や杯、鉄製のおのなどの副葬品など
も発見された。
 韓国紙、東亜日報の24日付早版によると、韓国では横穴墓は2000年に公州市で3基が発見されるなど複数の
発掘例がある。
 公州は百済の25代武寧王(在位501−523年)時代の都で、韓国メディアは武寧王が日本で生まれ百済に来た
との日本書紀の記述を紹介している。(共同) (04/23 23:21)
http://www.sankei.co.jp/news/040423/kok119.htm

公州で横穴式墓地が大量発掘…百済−古代日本交流の解明にカギ

古代百済(ペクジェ)と日本の交流を解明するのに重要なカギとなる古墳群が大挙発掘された。忠C(チュンチョン)
文化財研究院(朴スンバル院長)は23日、忠C南道公州市牛城面丹芝里(チュンチョンナムド・コンジュシ・ウソン
ミョン・タンジリ)の国道32号線道路拡張鋪装工事区間のソンジェ山の傾斜面で、横穴式墓地15基が一度に発掘
されたと発表した。
横穴式墓地とは、風化された花崗岩盤層を下の方へ掘り下がった後、また横に2mほど掘り、玄室(墓の部屋)を
作って、入口を板石で塞ぐ墓の形態だ。これは5世紀末、日本九州地方で現われ始めて8世紀まで流行った墓
様式だ。日本全域で数万基が発掘されたが、韓国ではほとんど発見されてなかった。
今回発掘された横穴式墓地の大半は、その玄室から5世紀末〜6世紀初に製作されたと推測される土器などが
一緒に発見され、その造成時期が百済の東城(トンソン)王〜武寧(ムリョン)王頃と推定される。これは日本列島
に横穴式墓地が登場とした時とほぼ同じ時期か、またはそれよりやや先んじているので、日本の横穴式墓地の
起源が百済にあった可能性が高いとみられる。
学界では今回の発掘が韓日古代史の秘密を解くことにおいて重要な役を果すことになると見ている。
ttp://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2004042473618
519<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/09/17(日) 15:21:00 ID:5ANOpvIp
<ヽ`∀´>  <チョッパリが古代からウリナラに朝貢していた証拠ニダな
520<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/09/17(日) 15:21:01 ID:GdaDDoie
>>516
日本人ならそう考えるが,彼らにはそれが出来ないから
「古代の謎」などと妄言を吐くのです。
それに追従する日本人もいるから,ちとやっかいなのよ。
521<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/09/17(日) 15:22:03 ID:kCyGRAZQ
(★`´☆)このやろう、墓泥棒までしてやがったか...
522<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/09/17(日) 15:22:06 ID:WbbqtFvh
>>517
教科書検定に際しては、いわゆる「近隣条項」があるため、
歴史的事実が軽視され、政治的「事実」が重視されているようです。
このような教科書を読んで育つ子供達が心配です。
この国は一体どこに向かっているのでしょうか。
523<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/09/17(日) 15:22:10 ID:UWF6+yID
【韓国】伽耶時代の古墳から木棺を搬出。木材は日本産の可能性大 [06/22]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1119632341/
【1500年前の木棺発掘…韓日交流史を明らかにしてくれるか】

■アンカー
古代韓日交流史を明らかにしてくれる木棺が千五百年ぶりに日の目を見ました。
現場の権ヨンイン記者です。
■記者
去年木棺が発見された慶尚南道昌寧の松硯洞第7号古墳です。
木棺を取り出すのに先立ち、発掘団が作業が無事に終わるように祈って礼をしています。
いよいよ木棺が千五百年ぶりに日の目を見る瞬間です。300キログラムの木棺が用心深く移されます。
搬出作業には特殊製作した無振動車まで動員されました。
木棺はこれから約5年間、分析と保存処理作業を経った後、一般に公開される予定です。
<この後にある木棺の説明については聯合ニュースの記事が詳しいので、下記ご参照>

▽ソース:SBSニュース(韓国語)(2005/06/22 09:57)
http://news.sbs.co.kr/culture/culture_NewsDetail.jhtml?news_id=N0311768776
動画→ http://news.sbs.co.kr/common/movcenter/mplay.jhtml?fname=nw0121c086038&news_id=N0311768776&category=N1§ion=08&type=vid


【「昌寧松硯洞7号墳のクスノキ木棺は日本産」】(前半)

慶尚南道昌寧郡の松硯洞古墳群の中で 6世紀初め頃に築造された第7号墳の「秣桶型(丸太型)木棺」
を作るのに利用されたクスノキは朝鮮半島自生樹木である可能性はほとんどなく、日本列島から入って
来た可能性が大きいことが分かった。
同時期に築造された公州の武寧王陵から出土した王と王妃の木棺も、日本列島だけに自生する金松と
判明したことがあり、5〜6世紀の朝鮮半島と日本列島の間の緊密な交流が、改めて考古学的遺物で裏
付けられた。
松硯洞古墳群発掘調査機関である国立昌原文化財研究所の依頼で、7号墳出土の秣桶型木棺の分析
などに力を注いでいる木材組織学専攻の慶北大の朴サンジン教授(65)は、「漢字で予樟木と表記される
クスノキは亜熱帯樹木で、現在朝鮮半島では済州島以外に南海岸の極一部の地域でだけ自生している」
と15日語った。代わりにクスノキが現在集中自生する場所としては、朝鮮半島周辺では中国中国南部と日本
列島が代表的なものとして挙げられている。
朴教授は、「松硯洞古墳群が築造された三国時代当時に気候がどうだったかによって、クスノキが朝鮮
半島にも自生していた可能性がないではない」としながらも、「当時の植生は現在とあまり変化がないと
いうのが一般的見解であり、したがって松硯洞の木棺の材料であるクスノキが朝鮮半島の生産品である
可能性はゼロに近い」と語った。<中略>
したがって、この松硯洞の木棺の材木は、当時の歴史的情況から見て中国南部地域と日本列島の2ヵ所
のいずれかである可能性はほとんど確かと思われ、中でも武寧王陵の木棺や昌寧一帯に位置した伽耶
諸国と倭国の緊密な関係を考慮すると、日本列島から持ちこんだ可能性がより大きいと考えられている。
そうした推定は、この7号墳のすぐ隣にある6号墳に対する昨年の調査の結果、石を積んで作った玄室の
壁面全体が朱で塗られていたという点からも、有力に裏付けされている。
道教神学で永遠不滅の仙薬として特に愛用された朱砂(硫化水銀)で玄室壁面を染めるこうした手法は、
古墳時代の日本列島の古墳の埋葬風習として典型的に確認されている。
一方、今年も松硯洞古墳群に対する調査を続けている国立昌原文化財研究所は、長さ3.4m×幅1.2m×
高さ 40cmほどと測定されたこの丸太木棺を、来週中に玄室から搬出して昌原の研究所に移し、保存処理
に入る予定だ。
池ビョンモク所長は、「保存処理施設を既に昨年中に用意しておいた」と語った。

▽ソース:聯合ニュース(韓国語)(2005/06/15 09:28)
http://www.yonhapnews.co.kr/news/20050615/030000000020050615092849K8.html

※文中の「硯」は、本当は石へんではなく山へん。
524<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/09/17(日) 15:22:15 ID:zdQcgHSE
我々韓国人は世界一ブサイクで無能だ orz
なんでコリアンなんかに生まれてきちゃったんだろう つДT>
525<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/09/17(日) 15:22:39 ID:uEDOT9cd
>>517
つか、教科書よりも最近は資料集が酷い。
平気でアンジュウコンは英雄とか書いてある。
526<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/09/17(日) 15:23:38 ID:UWF6+yID
>>523 「朱色」関連

韓国南部の慶尚南道固城(コソン)郡の松鶴洞1号墳で、
内部を赤色顔料で朱塗りした横穴式石室(六世紀前半)が、
同国の東亜大付属博物館の調査で二日までに確認された。
日本(倭)独特とされた朱塗りの石室が、韓国で確認された
のは初めて。日本の須恵器も出土していることから、日本の
古墳祭祀(さいし)文化の影響とみられる。大陸や朝鮮半島
から文化を一方的に導入しただけではなく、日本も文化を伝
えていたことを示す重要な成果として注目される。
 石室は墳丘北側で、長さ約九・八メートル、幅〇・八五〜二
メートル、高さ一・四五〜一・五八メートル。天井や床、壁が
ベンガラ(酸化鉄)とみられる顔料で真っ赤に塗られていた。

 朱色は、古代中国で血につながる生命力の象徴や不老長寿願望
を反映したものと考えられていた。朝鮮半島ではこれまで発見さ
れていなかった。

 松鶴洞1号墳は一九八三年、韓国の研究者が「前方後円墳」と
紹介し、日本独自とされていた前方後円墳のルーツではないかと
論争になった。

 一帯には、日本と交流のあった伽耶(かや)諸国(四世紀初め〜
六世紀半ば)があったとされ、「日本書紀」などでは「任那(みまな)
」と呼ばれる。

 沈奉謹・東亜大付属博物館長は「日本に近く、葬送儀礼に倭人がか
かわったとも考えられる」と話している。(10月2日15:34)


 五世紀の半ば、百済は高句麗の圧迫を防ぐため、日本と同盟を結び、日本に人質を送って
いた。ところが雄略天皇二年、人質であった池津媛は不義を犯したことをとがめられて処刑
された。このことによって日本との関係にひびが入るのを恐れた百済の蓋鹵王(こうろおう)
(加須利君かすりのきみ)は、その弟軍君(こにきし)(昆支こにき)を日本におくることにした。
そのとき、王は軍君の要望にこたえて側室の一人を与えたが、彼女はすでに懐妊し、
産み月も近かった。王は、途中で男の子が生まれたなら、ただちにその子を送り返すように
といった。軍君が筑紫の各羅島(かからのしま)に到着したとき、側室は男児を産み落とした。
島で生まれたので男児は「島君せまきし」と名づけられ、百済に送り返された。この男児は
成人ののち王位を継ぎ、武寧王となった。
http://www.yoyokaku.com/sub7-21.htm

雄略五年条は嶋君(武寧王)を蓋鹵王の子としていますが、百濟新撰は斯麻王(武寧王)を
昆支王の子としており、武烈紀の編纂者はこれを不審としているからです。どうやら
雄略五年紀は国内の所伝と百濟新撰を組合わせて記述されているようです。
 百濟新撰は、兄王の好を継続するため、蓋鹵王が昆支を倭国に遣わしたとしており、また、
嶋王(武寧王)を昆支の子としています。
http://www.d8.dion.ne.jp/~kouji-kd/hougen/konki.html