【韓国】『明成皇后の揮ごう』初めてオークションに登場
・・・下手すぎないか?
>>195 字を書けぬ母が書いた手紙か・・・・
この手のには弱いな・・・
201 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/13(水) 20:35:54 ID:fXbIlYrv
>>201 上のはハングルで書いてるね。便せんは、中国製の「イラストを刷った紙」
横の縦長なところは、封筒だろう。
203 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/13(水) 21:00:38 ID:6rXEivVf
日本人が落札したらどうなるのかね?
204 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/13(水) 21:10:37 ID:1IERoRo0
ア
金 ジ 統
壷玉在心氷片一
売 日 言
205 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/13(水) 21:17:16 ID:2hmBOuKm
朝鮮も文房四宝を尊んだ歴史がある。
たとえば、安重根のような志士の書は見事なものだ。
日本という国の凄いのは、彼が伊藤博文暗殺のテロリストであることを承知していながら、
国士としての彼の志を称揚し、獄中に揮毫を求める人が絶えなかった点である。
そのため我が国には安重根の書蹟が多く残されている。
ことによると朝鮮本国以上かもしれない。
ところで、この皇后の書であるが、まことに素朴でほほえましいものではあるが、
書の基礎的な訓練を受ける環境になかったことは明らかである。
江戸時代の歴代天皇の書蹟が極度に洗練され、美的極致に達したことと比較すると
まことに好対照というべきである。
206 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/13(水) 21:20:31 ID:OwWT0BHv
>>66 家を保つの本は孝友に在り
と読むのかな。いい言葉ですな。
畏れ多いことだが我が先帝陛下も
詔書の御名を拝見する限りでは字が上手いとは・・・。
207 :
206:2006/09/13(水) 21:22:39 ID:OwWT0BHv
家を保つの本は孝友に如くは莫し
でした。すみません。
漢文中心だった日本統治前は、ハングルを書くのは学がないことを意味するので、バカにされるので高位にいるモノほど避けていなかったか?
209 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/13(水) 21:42:48 ID:EPfagrhR
>>34 国母に学が無かったという、歴史的価値がある。
210 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/13(水) 22:00:35 ID:lBR9dr+y
明らかに漢字が分からない人が見よう見まねで書いた字w
211 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/13(水) 22:03:32 ID:lBR9dr+y
外国人が入れてる変な漢字の入れ墨みたいw
>>164 まあブローニング(FN社)系の銃だったとは聞くけど、
ケンチャナヨにも程があるなぁ。
ところで悪筆以前に、違う紙を何枚か貼り付けたようにしか
見えないんですけど。
>これは列強の脅威の中で堂々たる国母の心情を表したものと見られる。
捏造着々進行中w
>>201 ハングルの軽やかな筆致と差が有り過ぎるような…どちらかは捏造か?
いやどちらともか?w
>>205 安のは上手いよな。
214 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/13(水) 22:10:29 ID:lBR9dr+y
215 :
猫鍋 ◆NekoHeta.A :2006/09/13(水) 22:21:44 ID:jfrChnY7
>>214 文字はカコイイかもしれんが
鼻が・・・・
216 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/13(水) 22:43:48 ID:VbkZlAnd
>>208 諺文は女文字とも言われていたので、女性がもっぱら使っていてもおかしくはない。
実態はどうかは知らないが。
>>201の書体に差がありすぎるのも、諺文のみを読み書きしてきて漢文を学んでいないと
考えれば説明はつく。
どちらもミンピの真筆だ、というのが前提だけど。
なんてね。
217 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/13(水) 22:46:14 ID:/8nVMzb4
一文字書かせてみれば、一目瞭然、、とはよく言ったもので。
>>201が同一人物なわけないと思う。
>>216 こんな史料がありますね。
ダレ『朝鮮事情』
「漢字を学ぶ手段も機会もない婦女子や貧しい人びとは、
朝鮮文字(ハングル)を学ばないわけにはいかない。
彼らは、それを使って通信文や会計簿をつけるのである。
宣教師によって印刷された宗教の本は、すべて朝鮮文字になっているという」
219 :
榑桑一厘人 ◆X39RUS9Pkw :2006/09/14(木) 14:18:54 ID:AuCKPRys
みんな酷評だなwwwww
>>201 多分、支那の紙箋です。
この手になると紙だけで現在一枚5000〜10000円。
220 :
榑桑一厘人 ◆X39RUS9Pkw :2006/09/14(木) 14:39:33 ID:AuCKPRys
>>167 安の書は一行書数幅以外下手糞ですね。
多字数はアラが出ます。
221 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/15(金) 07:04:11 ID:DWxz3dv7
文字ごとに切り抜き貼り付けられた様が誘拐犯の脅迫文みたい
この人は自分の権力を守るために清やロシアに擦り寄ってしまい急進派と日本の反発を買ってしまった。
国母というのは違う。独立を保ち、国を列強から守ろうとしていたわけではない。
近代史における朝鮮の不幸は国を考える勢力がまとまらなかったことだろう。
それで日本に最後は頼るしかなくなった。
安が伊藤を殺してしまったから併合の流れを速くしたし、日清戦争でも日本軍を自ら誘き寄せてしまった。
ちなみに伊藤を殺したのは安ではなくロシア兵だったと主張する学者もいるんだよな。
224 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/19(火) 11:15:15 ID:tztc5Jh0
こういうスレを見ると
また日露戦争物語投げ出しに対する江川への怒りが沸々と・・・。
ミンピ死なねーままじゃねーか!
226 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/23(土) 15:40:29 ID:D1TlTF+t
226事件
大院君は再度権勢につくことを切望し、三浦梧楼(日本公使)は衰退の一途を辿る
日本の勢力挽回を切望していた。
両者の願望の前に立ちふさがっているのは、一人の小柄な女性だけであった。
日本軍、日本警察はもとより、朝鮮軍つまり日本人により訓練された「訓練隊」(1895編成)は
王宮に侵入して国王を捕らえ、王妃を殺害したのち、大院君の執政を宣言するはずであった。
三浦は職業的暴漢である日本人「壮士」数名を呼び寄せて彼らに計画を打ち明け
彼らがその友人たちを集めてきて、この計画の遂行に助力するよう言いつけた。
日本警察もまたこの挙に協力するよう指令されたし、
大院君一味の朝鮮人も集まって助力するよう使者を差し向けて呼び寄せられた。
日本警察は私服を着て佩刀するよう命令された 。
日本人壮士「安達謙造」と「国友重章」の二人は仲間の暴漢24名を集め
そのうちの半数に対しては、王宮内部の行動集団として王妃を見つけてこれを殺害するよう
特別の命令が与えられた。
そして殺害後に発表されるはずの宣言文の草案も、事前に作成されていたのである。
1895年10月8日の午前3時頃、大院君は,岡本の率いる日本人の一隊と共に、その私邸を出発した。
やがて岡本は自分の率いた者すべてを皇太子の正門外に整列させて、
「狐」(閔妃をさす)を臨機応変に処置するべきことを告げた。
この一行は西大門に向かって進み、訓練隊と合流のうえ、日本軍の到着を待った。
彼らは訓練隊を先頭にして行進したが、訓練隊、警官、そして暴漢どもを指揮する日本人将校たちが
その中心集団を形成していた。
宮門(光化門)が日本軍の手中にあったので、彼らが宮門に到着した時、
王宮内に侵入するのに何の困難もなかった。
正規軍の大部分は、命令によって宮門の外側に整列していた。
しかしそのうち若干名は、暴徒とともに宮門の庭内に侵入し、
他は王宮の周囲で、何人も逃げ出すことの内容に取り囲んでいた。
一群の人たちの襲撃が行われ、宮内府付近の城壁が崩れ落ちた。
一味がどっと宮門から侵入したのを合図に、王宮内全体はたちまち上を下への混乱となった。
勇敢な朝鮮人護衛若干名が彼らに抵抗したが、そのうち数名が射殺されると、他は退却した。
日本人たちはまっすぐに宮殿に進んで、その前庭に押し入り、軍隊は入り口に並び、
壮士たちが戸を壊して宮室内に侵入した。
数人の暴徒が、国王を捕まえ、王妃と離婚して縁を絶つという内容の書面を、その面前に差し出した。
しかし、国王はあらゆる脅迫にもかかわらずその署名を拒絶した。
他の暴徒たちは王妃の部屋に侵入した。
宮内大臣李耕植は彼らを阻止しようとしたが、たちどころに殺害された。
壮士たちは、震えながら逃げ回る宮女を捕まえ、頭髪をつかんで振り回し、殴打して、
王妃の所在を言えと強要した。
彼女らはうめきながら、自分たちは知らないと言い張った。
そこで彼らは、数名の宮女の頭髪を引っ張りながら、隣室に押し入った。
先頭に立った岡本が、その部屋の一隅に自分の頭髪をしっかり抱えながら蹲っている、
一人の小柄な婦人を見つけ、王妃ではないかと尋ねた。
その婦人はそれを否認し、いきなり彼らを押しのけ、叫びながら廊下へと走り出た。
当時、そこに居合わせた彼女の子息は、彼の名を呼び彼女の声を三度聞いたが、しかし
その次の呼び声の出る前に、日本人たちは彼女を捕まえて、切り倒したのであった。
彼らは、王妃の侍臣数名を引きずり入れて死体を見せ、それが王妃であることを確認させたが、
その後そのうちの3人を剣で刺し殺した。
暴君たちはガソリンを持ってきていた。
彼らは、あるいはまだ完全に死亡していないかもしれない王妃を、寝具で包んで、
程近い鹿園の茂みに移した。
彼らはそこで王妃の死体にガソリンをかけ、周囲に薪を積み重ねて火をつけた。
彼らが、燃え盛る炎に向かってどんどんガソリンをかけて燃やしたので、
ついには何もかも燃え尽きて、少しばかりの骨だけが残った。
出典 『the tragedy of Korea』 by F.A.McKenzie,published in 1908
「朝鮮旅行記」 編纂:ゲ・デ・チャガイ ISBN 4582805477
1895-1896年の南朝鮮旅行 報告:カルネイェフ大佐
虐殺は1895年11月25日から26日にかけての深夜に完全に日本人のみが以下のように実行した。
午前3時、王宮を日本軍が包囲し始めた。日本軍の一部隊は北西門に配備され、
北東門に集結したのは日本人によって軍事教育された兵士約3000人である。
宮中には(朝鮮とアメリカの軍事教官派遣協定に基づいて派遣された)アメリカの
William Mclay Dye将軍が王宮防衛のための措置を講じようと試みたが、
宿直室には将校が見当たらず、王宮守備隊も一部は解散してしまっていた。
連隊長の発した解散の命令を北東門に固める朝鮮兵は実行しないばかりか、
却って彼は指揮官ではない、ここで命令できるのは日本人教官だけだ、
といった声すらも聞かれる始末だった。
宮中では日本軍と朝鮮軍の兵士によって王宮が包囲されたことが明らかになるや否や、
国王は前の農商務相・李範晋に米国とロシアの2国の公使館へ駆け込んで救援を求めるよう命令した。
西壁に登った李範晋は、その前面に兵士が充満していたので、
ここから気づかれずに降りるのは不可能と断じた。そこで彼は城壁の南東隅にある塔によじ登った。
この場所には僅かに二人の日本兵が守備についているに過ぎなかった。
李は彼から遠ざかる頃合を見計らって壁から飛び降り、片足を挫いてしまったにもかかわらず、駆け出して逃げていった。
米国公使館近くに差し掛かったとき、彼は最初の銃声を聞いた。
李がロシア公使館に駆け込むや、彼は僅かな語彙を駆使して次のように訴えた。
日本人が宮中に侵入して、王妃の殺害を目指して虐殺を重ねており、
国王はロシアと米国の代表が救援に駆けつけてくれることを切望している、と。
午後4時過ぎ、最初の銃声を合図に数名の日本人が、
差し掛け椅子を伝って王宮の壁を北側からよじ登った。
南壁をよじ登った者たちが銃撃で歩哨を追い散らして正面を空けたので、
正面の外に待機していた朝鮮兵が怒涛のごとく乱入した。
一方来た門を押し破って侵入した日本軍や挑戦軍の兵士らは、
銃撃によって宮中の衛兵を追い散らした後に、門を開放して王宮の北の部分を占領した。
王宮の中央部は日本人賞公式化の挑戦兵舞台が陣取り、
国王の居間では庭園に出る扉、宮殿の内部に通じる扉のそれぞれに二人ずつの日本兵が立哨していた。
王妃の離れが所在する軍団の指揮者もやはり、長い短剣を帯びる日本人だった。
彼らは喊声を上げつつ中庭を走り回り、王妃の所在を聞き出すために人々を捕まえて打擲するも、
誰一人として彼らの求める情報を与えたものはいなかった。
王妃が女官の間に身を隠しているに違いないと断じた日本人たちは、か弱い宮廷婦人を手当たり次第に殺害した。
宮内大臣が日本人らに向かって飛び出し、彼らと王妃の間にたちはだかって諸手を挙げて挙げて慈悲を乞うたが、
日本人たちは軍刀を振り下ろして、彼の両手を切り落とした。彼は血を流して崩れ落ちた。
王妃が廊下へ逃げ出すと、一人の日本人が脱兎のごとくその後を追い王妃を捕まえ刺し殺した。
しばらく経って、日本人らは殺害した王妃を近くの林に運び出し、灯油を振り撒いた上に火を放って焼却した。
1895年11月26日の流血劇は、こうして幕を閉じた。
日本人らが自らの虐殺を実行していた頃、南門からは日本軍兵士とともに大院君が、
そして彼とほぼ同時に三浦悟楼公使も王宮に入った。
彼らは直ちに王の許に赴き、王妃からその称号を剥奪し、
平民の身分に降格させることを宣する布告に署名するよう迫った。
激怒した国王は両手を差し出して自らの指を示しながら次のように言った。
「これらの指を切り落とし給え。そしてもし指どもが望むならば諸君が余に要求することについて署名させ給え。
だがそれまでは余の手は決してそのようなことを為さぬであろう。」
その日のうちにすべての外国代表が参集して会議が開かれ、
その席で日本公使には事件の告発に対する釈明が求められたが、
日本政府は全権代表を調査のためにソウルに派遣した、というのがその結末だった。
231 :
230 訂正:2006/09/26(火) 23:55:09 ID:mv+oj+B5
>日本人賞公式化の挑戦兵舞台が陣取り
日本人将校指揮下の朝鮮人部隊が陣取り
閔妃殺害→大院君の命で金弘集が内閣を組閣→乙未改革→抗日義兵運動
金弘集を首班とする内閣は、すでに11月26日の破局時に自らの名誉を汚してしまった反国王派の面々で構成された。
民衆の母と崇められた王妃の殺害は、民衆を覚醒させ、奮い立たせ、この内閣を怨嗟の対象とした。
内閣は民衆の習俗や衣服の様式などを破壊し、改革も力ずくで残酷に断行されたので、民衆の堪忍袋が切れた。
すでに多くの地区では市民権を奪われた人々からなる武装蜂起者の軍団が結成され、
各地で長官が暗殺され、屋敷も破壊され、至る所で蜂起が勃発し続けた。
髷は朝鮮人の生活で最も偉大で、重要且つ神聖なものと係わるのだ。
髷の切り落としは彼らの伝統的申請間を侵したのみならず、
朝鮮人の概観を彼らが軽蔑して止まない仏僧にも似させる結果となり、
日本人に対する歴史的な敵意は民衆をして次のように考えることを余儀なくさせていた。
すなわち日本人は民衆に髷を切らせることで同時にまた日本の慣習を受容させることも強いたのだ、と。
他方で、王妃の殺害後は、日本人が民衆にとっては格別の憎悪の対象となった
ソウル東方50里のところでは叛徒が政府の火薬庫を襲って
数千フント(註:ロシアの重量単位)の火薬を奪い、ソウルへ向けて進撃してきた。
元山、釜山、忠州に敷設されていた電線はすべて破壊された。彼らは「義兵」と呼ばれた。
4月初旬、日本人によって教育された兵士500名によりなる部隊がソウルから到着して、
彼らは追い散らされたが、政府軍が撤退した後は義兵たちは再結集していった。
目的は日本人の国外駆逐にあった。
国王は自らの王宮にありながらも、安泰ではありえなかった。
かかる状況の中で王は皇太子とともにロシア帝国使節団に救援を求める決意を固めたのであった。
ロシア帝国公使館は国王の委託に基づき、その旨をすべての外国代表に通告した。
日本の小村寿太郎公使は新事態を冷静に受け止めたようだったが、
「日本の権威に決定的且つ強力な打撃が加えられたこと」は認めざるを得なかった。
王宮では国王の脱出が明らかとなるや、大騒ぎが持ち上がった。
かつての陰謀の加担者は危険を察知して逃亡した。
彼らのおもだった者たち、金弘集首相、内務相、農務相は逮捕された。
民衆の憎悪の的だった金弘集や鄭乗夏は民衆の手によって市場の立つ広場において残虐に斬首された。
新たに任命された陸軍大臣の勧めでソウルに残留した警察官800名と朝鮮軍は国王の元へ代表団を派遣して、
忠臣の誓いを新たにし、国王の権威回復に全面的に協力する用意のある旨を表明した。
王の周辺をすべて国王派で固めた李範晋の尽力と采配のおかげで、
この政変はほとんど人命の犠牲無しに成功を収め、国王の権威はいつになく高いものとなった。
1895-1896年の南朝鮮旅行 報告:カルネイェフ大佐
234 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/27(水) 00:06:12 ID:/i+1qMon
235 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/27(水) 00:11:38 ID:Ds1wPhor
どうみても偽物です
236 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/27(水) 00:12:58 ID:F7LwEsyD
素朴な書体・・・漢字が下手なだけじゃねぇかwww
237 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/27(水) 00:13:04 ID:ddxphPCv
>>115 東洋的な観念によれば、故・王妃は優れた教育を受けており、
朝鮮のみならず、東洋全体を見渡しても当代随一の漢学通と看做されていた。
>>223 >独立を保ち、国を列強から守ろうとしていたわけではない
彼女は欧州の文明と改革を日本を介さずに朝鮮に導入することにたいそう意欲的であった。
決断力もあり、聡明であった王妃が、朝鮮の勝手気ままな統治を目論む日本人たちを快く思い得なかったのは当然である。
【ソース】
「朝鮮旅行記」 編纂:ゲ・デ・チャガイ ISBN 4582805477
1895-1896年の南朝鮮旅行 報告:カルネイェフ大佐
つか
そもそも売っていいものなのか?
壺と玉が在って心は氷の片や一人
…訳してみよう。
エロ言語に見える。
240 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/27(水) 00:31:13 ID:0STrmnmP
>>227-233 王妃の遺体検死記録も残っているのに、燃やしたとは笑わせる
検死記録用紙には性的暴行の有無を記録する欄があるが(無)だった
それを朝鮮人はその項目があること自体が性的暴行のあった証しだとして
妄想を膨らまして上記の小説を作り出した
検死記録用紙は公的な書類だから、相手によって作り変えるなんてありえないのに。
で検死記録の内容を突付かれるのが嫌なのか、全て燃やしたと更なる妄想を働かして
さらなる捏造。
241 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/27(水) 00:33:39 ID:8IIuBrVI
こりはひど・・・・イイ♪
242 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/27(水) 00:37:27 ID:ddxphPCv
>>240 朝鮮人の創作小説でなく、ロシア人の手記ですが。
>>237 李朝の財政を破綻させていた張本人なんだが…
金がなくて欧化政策なぞ不可能だろうに。
>>242 手元にこの『朝鮮旅行記』があるんで、記述そのものは本当だと証言しますよ。
245 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/27(水) 00:49:13 ID:0YexAwrZ
>>237 欧化政策ってロシアの植民地になること?
それとあなたの言いたいことはなに?
>>244 ○補足
照合すると微妙に取りこぼしがありますね。
「王妃と全ての女官たちは口裏を合わせて、王妃がここには居ないと答えていた。
しかし哀れなる王妃の神経がもはや耐え切れなくなって、彼女が廊下へ逃げ出すと〜」
の下りとか。
まあ最大のポイントは
「私はこれらの諸事件を目撃したわけではないが、それらは後続の諸事件とも非常に密接に結びついており、
人々の記憶にも生々しく生き続けており、また一八九六年一月三〇日の政変にも僅かに先立って発生していることから、
話の完全さを期するためにもこれらを紹介するのもそれなりに有意義と考える。」
という註を出していない点でしょう。
247 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/27(水) 01:03:49 ID:pdKdWONO
亡国の大毒婦が書いた物を欲しがる人って、ヒトラーの描いた絵を欲しがる人みたいね。
248 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:
>>明成皇后の最も有名な書である“一片丹忠”(梨花女子大博物館所蔵)と書体が同一であり、
>>整ってはいないが力を込めておおらかに書かれた筆致から見て、
すげー修辞的言い回しだなw
「漢字書きなれてないから、力みまくって全体のバランス取れてないし、ハッキリいってこの下手さは
絶対同一人物」って事がホンネかよ