【韓国】日本政府に明成皇后殺害の『謝罪』・『真相究明』・『国葬都監儀軌の返還』を要求★2[08/29]
429 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/07(木) 15:32:35 ID:6wrfES9K
430 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/07(木) 15:38:17 ID:TZG/dL0b
ノムの次の大統領はこの人で決まりだね!
韓国では知られていないかもしれないが
日本では歴史的事実がネットに日本語で転がってるからねぇ
まぁ、外務省解体の踏み絵にはなるか、いや、ならんな、こりゃ
野党が自爆するかもなぁ
432 :
日本軍による閔妃謀殺:2006/09/10(日) 15:02:45 ID:bSAV429z
大院君は再度権勢につくことを切望し、三浦梧楼(日本公使)は衰退の一途を辿る
日本の勢力挽回を切望していた。
両者の願望の前に立ちふさがっているのは、一人の小柄な女性だけであった。
日本軍、日本警察はもとより、朝鮮軍つまり日本人により訓練された「訓練隊」(1895編成)は
王宮に侵入して国王を捕らえ、王妃を殺害したのち、大院君の執政を宣言するはずであった。
三浦は職業的暴漢である日本人「壮士」数名を呼び寄せて彼らに計画を打ち明け
彼らがその友人たちを集めてきて、この計画の遂行に助力するよう言いつけた。
日本警察もまたこの挙に協力するよう指令されたし、
大院君一味の朝鮮人も集まって助力するよう使者を差し向けて呼び寄せられた。
日本警察は私服を着て佩刀するよう命令された 。
日本人壮士「安達謙造」と「国友重章」の二人は仲間の暴漢24名を集め
そのうちの半数に対しては、王宮内部の行動集団として王妃を見つけてこれを殺害するよう
特別の命令が与えられた。
そして殺害後に発表されるはずの宣言文の草案も、事前に作成されていたのである。
1895年10月8日の午前3時頃、大院君は,岡本の率いる日本人の一隊と共に、その私邸を出発した。
やがて岡本は自分の率いた者すべてを皇太子の正門外に整列させて、
「狐」(閔妃をさす)を臨機応変に処置するべきことを告げた。
この一行は西大門に向かって進み、訓練隊と合流のうえ、日本軍の到着を待った。
彼らは訓練隊を先頭にして行進したが、訓練隊、警官、そして暴漢どもを指揮する日本人将校たちが
その中心集団を形成していた。
宮門(光化門)が日本軍の手中にあったので、彼らが宮門に到着した時、
王宮内に侵入するのに何の困難もなかった。
正規軍の大部分は、命令によって宮門の外側に整列していた。
しかしそのうち若干名は、暴徒とともに宮門の庭内に侵入し、
他は王宮の周囲で、何人も逃げ出すことの内容に取り囲んでいた。
一群の人たちの襲撃が行われ、宮内府付近の城壁が崩れ落ちた。
433 :
日本軍による閔妃謀殺:2006/09/10(日) 15:04:33 ID:bSAV429z
一味がどっと宮門から侵入したのを合図に、王宮内全体はたちまち上を下への混乱となった。
勇敢な朝鮮人護衛若干名が彼らに抵抗したが、そのうち数名が射殺されると、他は退却した。
日本人たちはまっすぐに宮殿に進んで、その前庭に押し入り、軍隊は入り口に並び、
壮士たちが戸を壊して宮室内に侵入した。
数人の暴徒が、国王を捕まえ、王妃と離婚して縁を絶つという内容の書面を、その面前に差し出した。
しかし、国王はあらゆる脅迫にもかかわらずその署名を拒絶した。
他の暴徒たちは王妃の部屋に侵入した。
宮内大臣李耕植は彼らを阻止しようとしたが、たちどころに殺害された。
壮士たちは、震えながら逃げ回る宮女を捕まえ、頭髪をつかんで振り回し、殴打して、
王妃の所在を言えと強要した。
彼女らはうめきながら、自分たちは知らないと言い張った。
そこで彼らは、数名の宮女の頭髪を引っ張りながら、隣室に押し入った。
先頭に立った岡本が、その部屋の一隅に自分の頭髪をしっかり抱えながら蹲っている、
一人の小柄な婦人を見つけ、王妃ではないかと尋ねた。
その婦人はそれを否認し、いきなり彼らを押しのけ、叫びながら廊下へと走り出た。
当時、そこに居合わせた彼女の子息は、彼の名を呼び彼女の声を三度聞いたが、しかし
その次の呼び声の出る前に、日本人たちは彼女を捕まえて、切り倒したのであった。
彼らは、王妃の侍臣数名を引きずり入れて死体を見せ、それが王妃であることを確認させたが、
その後そのうちの3人を剣で刺し殺した。
暴君たちはガソリンを持ってきていた。
彼らは、あるいはまだ完全に死亡していないかもしれない王妃を、寝具で包んで、
程近い鹿園の茂みに移した。
彼らはそこで王妃の死体にガソリンをかけ、周囲に薪を積み重ねて火をつけた。
彼らが、燃え盛る炎に向かってどんどんガソリンをかけて燃やしたので、
ついには何もかも燃え尽きて、少しばかりの骨だけが残った。
Korean tragedy by F.A.McKenzie 1908
434 :
アジア連邦日本州知事:2006/09/10(日) 15:07:10 ID:YFgJm0X+
>>433 改めて戦前の日本への怒りがこみ上げてきました。ありがとう。
本当に基地外国家だったんだな・・・・
435 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:08:43 ID:bSAV429z
【容疑者】
三浦梧楼(日本公使)
安達謙造・国友重章 ←いわゆる「大陸浪人」の朝鮮版か?
436 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:08:59 ID:Nydrjeko
437 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:13:20 ID:bSAV429z
>天皇が持っていると言う。
いちおう突っ込んどくが、宮内庁あたりじゃないか。
438 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:15:08 ID:3PRuwaJ/
>>434 もう少し時間をあけてレスした方が真実味が出るよ
1905年11月15日、日本の天皇の特使としてソウルに到着した伊藤博文は
韓国皇帝宛の書信を所持して韓国皇帝に拝謁したが、
その席で彼は条約形式に起草された一連の要求事項を提出した。
その主たる内容は韓国の外国に対する関係は、今後全て日本の監理指揮に委ねられ
つまりは韓国の外交事務は終了したのであるから、その外交使臣
を在外公館から召還すべきであり、
またソウル駐在の日本公使は、皇帝の下で韓国最高の統治者となり、各地方駐在の日本領事は
その地方最高の統治権を付与された駐在官となるようになっていた。
つまり韓国は国家としてその独立を完全に放棄し、その国内行政の統制を全て日本政府の手に委ねるというものであった。
韓国皇帝はその要求を全て拒絶した。
協議は5時間も続いたが伊藤は何も達成することのないまま退出した。
そして彼は直ちに韓国側内閣員たちの、個別的かつ集合的な攻め落としにかかった。
彼らは全員、その翌日に日本領事館に呼び集められた。
大臣たちは決して譲歩はしまいと予めお互いに誓約しあっていた。
彼らは脅迫、甘言、買収への誘いなどにも関わらないで、確固不動のままであった。
韓国皇帝の前で御前会議は開かれた。
その間、日本軍は王宮の前で武力の一大示威行為を行っていた。
この地区全体の全日本軍がこの数日間、皇宮前の街路で行進を行い、
野砲まで引き出され、兵士は完全武装をしていた。
彼らは攻撃演習を行って、城門を占拠し、大砲を配置して、
日本が自分たちの要求を強行できるということを韓国人に示威しようとしたのである。
その日の夕刻、日本軍兵士は剣つき鉄砲で王宮の中庭に入り込み、
皇帝の居られる宮殿の近くに立った。
伊藤が駐箚朝鮮軍司令官「長谷川好道」を帯同して王宮に来て、
皇帝の御出席を要請した。
皇帝はやはり拒絶された。
「その案件については閣僚と討議してください」と仰せられたのである。
440 :
グリーン中山:2006/09/10(日) 15:18:46 ID:9oF6B7lx
441 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:18:51 ID:2flijrhv
ミンスのメール疑獄以来、売国奴の自爆が絶えて久しいな。
売国奴の自爆は国民的娯楽なのだから、
ミンス・捨民・T豚S・犬HK・害務省の各担当売国奴は華々しい自爆を見せて中韓から軍神の称号を授与してもらいたまえ。
あ、オザワはまだ辞めるなよ。
お前にはサイコーに惨たらしい最期が用意されるべきだ。
そこで直ちに伊藤は閣僚のいる所へ行き、
「皇帝はあなた方に、私と協議してこの案件を解決するように命じられた」と宣言した。
日本軍兵士の充満、外部での銃剣のきらめき、宮殿の窓を通して聞こえてくる荒々しい号令の声、
それらは決して無効ではなかった。
韓圭咼が皇帝のところへ行くため部屋を出ることが一時的に許されたが、
領事館の日本人秘書につかまれ、脇の部屋に放り出され「殺す」と脅された。
その間残っていた閣僚たちは閣議室で待っていた。
全員に死を賭して抵抗しようと激励した人物は帰ってこなかった。
日本人の荒々しい声はいっそう甲高くなっていった。
「我々に同意して富貴を得るか。さもなくば反対して死ぬか。」
外務大臣の朴斉純は韓国政治化の中で最も優れた有能な政治家の一人だったが、
彼でさえもついには屈服したのであった。
払暁になって、国璽を外務大臣室から持ってきて調印を行うように、との命令が出た。
ところが国璽保持官は事前に「いかなる目的であっても国璽は引き渡してはならぬ」
との命令を受けていたため、その命令が電話で伝えられたとき、それを拒否した。
そこで日本人は特別の使いを出して力ずくで奪い取ってこなければならなかった。
朝鮮皇帝は最後まで自分は同意しなかったと主張しておられる。
条約(第二次日韓協約、韓国保護条約、乙巳保護条約などと呼ばれる)調印の報を
人々は恐怖と憤怒のうちに聞いた。
韓圭咼は監禁を脱するや否や、同僚たちに喰いかかり、彼らを激しく非難した。
閣僚たちは自分たちが最も憎まれ、蔑まれた人間になってしまったことを知った。
朴斉純は日本領事館へと急ぎ、林権助のいるところへ行って短刀を引き抜いた。
「私をこのようにしてしまったのはお前だ。お前が私を売国奴にしてしまったのだ。」
彼は自分の喉を掻き切ろうとしたが、林がそれを制止し病院に送られた。
『the tragedy of Korea』 by F.A.McKenzie,published in 1908
443 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:20:01 ID:fcx9rgez
不幸な歴史ってのはあれか?
韓国の竹島侵略のことか?
444 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:22:14 ID:A4CpPNbt
朝鮮に恥じゃない日はないだろ。
恥なんか知らないから気付かないダロウケド。
445 :
七つの海の名無しさん:2006/09/10(日) 15:23:43 ID:lxrA9b+5
開放されたのが日本に来たのね
拉致でなく日本マンセイとふーーむ
446 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:23:45 ID:svFlmYyP
世界中探してもおそらく朝鮮人ほど恥ずかしい民族はいないでしょう。
朝鮮人は紀元前2世紀の考古学的に立証できる衛氏朝鮮の建国以来、常に中国(当時は漢)の支配下にあり
その衛氏朝鮮が100年足らずで漢の武帝に滅ぼされると漢が楽浪郡などの直轄地を置いて漢民族の直接
支配を受け、その後独立国家を造った新羅は唐の属国であり、その後を継いだ高麗は宋に朝貢してその
庇護を受けざるを得なかった。しかも高麗末期にはモンゴル国家である元に征服され代々の国王は元の
皇女を妃としその間に生まれた皇子は、元の宮廷で養育されると言う惨めなありさまであった。
その後モンゴルからの独立に成功するが、その為の戦に功のあった李氏が政権を簒奪して李氏朝鮮を
成立させた。しかしこの李氏朝鮮も国家を維持する為には当時の中国の国家である明に服属せざるを得ず
明から冊封されてようやく朝鮮王として認められた。しかも中国に対する忠誠心を表わすために前政権の
高麗の国教であった仏教を排撃して中国の土着の教えである儒教を国教とした。16世紀末には豊臣秀吉の
侵攻により滅亡寸前にまで追い込まれたが明の援助によりかろうじて生きながらえたが国力は疲弊しきっていた。
そして17世紀初頭に満州の女真族に破れ女真族を兄、朝鮮を弟とする条件を飲んで降伏した。
ところが10年もたたないうちに清と国号を変えた女真から明への出兵を命じられると、これに逆らって
清と交戦しあっけなく敗れる。この時の清との講和の条件は次のような悲惨なものだった。
1 明と断交して清に服従すること
2 朝鮮王子を人質として送ること
3 莫大な賠償金を支払うことと毎年清に対し貢物を贈ること
4 朝鮮国王自らが清の使節を土下座して迎えること
しかもこの敗戦の証としてソウル近郊に建立された三田渡碑には、「 愚かな朝鮮王は偉大な清国皇帝に逆ったが
清国皇帝はこの大罪を許してやった。朝鮮国王は、自らの愚かさを反省し、清国皇帝の臣下になることを誓った。」などと刻まれ、
この碑は日清戦争で日本が清を破って朝鮮を解放するまで立てられていた。
朝鮮人が好んで引用する儒教の教えに基づく父子、兄弟関係などというのは17世紀以後、満州族などに蹂躙され
その満州族から弟分扱いされた自国の恥ずかしい歴史を誤魔化してあたかも漢民族との間で平穏な冊封関係の下で国王として
品位を保ってきた振りをする為の寝言に過ぎない。
年表
1875 日本の軍艦「雲揚号」、朝鮮・江華島に侵攻。
1876 日本、軍事的脅迫で江華島条約調印させる。
1894 朝鮮で甲午農民戦争始まる。
朝鮮政権の要請で清が派兵。これらを口実に日本も派兵、政権と農民軍の
「和約」成立後も朝鮮の「内政改革」を口実に増派。朝鮮駐留の清軍を奇襲
攻撃し、日清戦争開戦。
********************************************************************************
1895 同時に反侵略に転じた農民軍に掃討作戦。多くの農民を殺すともに農民軍指導
者・全捧準(チョン・ボンジュン)を処刑。
公使・三浦梧楼の指揮下、駐留軍人・大陸浪人らが王宮に押し入り朝鮮王妃
・閔妃虐殺。抗日義兵の蜂起。
*********************************************************************************
1904 日露開戦。日本、日韓議定書を強要し、朝鮮を軍事占領。
第一次日韓協約(顧問政治)。「竹島(独島)」を島根県に編入(2・22)
1905 乙巳「保護条約」(第二次日韓協約)を強要。伊藤博文、駐留軍・憲兵隊を引
き連れ王宮に乗り込み、朝鮮政府閣僚を軟禁・脅迫。外交権等を奪い統監
府設置(初代統監・伊藤)。
改定日英同盟条約、日米間の桂・タフト秘密協定(米のフィリピン支配と相
互容認)、および対露戦勝で列強に朝鮮支配の容認を取りつけ。義兵闘争
など抗日民衆闘争が激発。
1907 高宗王、ハーグの万国平和会議に密使を送り「保護条約」の無効と独立を訴え
る。
第三次日韓協約。高宗の退位強要、軍隊解散。
1908 朝鮮支配の国策会社・東洋拓殖叶ン立。
1909 安重根、ハルピンで伊藤を射殺。
1910 「日韓併合」。
http://list.jca.apc.org/public/aml/2005-March/000872.html
448 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:27:03 ID:bSAV429z
449 :
アジア共和国人民:2006/09/10(日) 15:29:34 ID:YFgJm0X+
>447
ためになります。つーか日本滅茶苦茶ですね。
ナチスのオーストリア併合よりたちが悪い・・・・
450 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:30:24 ID:9BHzYqO5
この小説の作者は誰?
>>449 あっちこっち彷徨いてるみたいだけど、とりあえず宿題を片付けようよ。
452 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:33:04 ID:bSAV429z
>>393 >そのためにわざわざ葬式を数年間延期してたそうだw
そりゃ初耳。
>>432-433のとおり乱暴に殺したもんだから、葬儀も糞もないもんだとおもった
しかし改めてみると・・・なにもできない愚民だな。
454 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:40:32 ID:OATh3v4S
普通に考えて、現実から逃避して過去に逃げてる人間が増えてンのかな?w
455 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:41:05 ID:9BHzYqO5
あるべき歴史だな
456 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:47:48 ID:bSAV429z
457 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 15:50:31 ID:j9R18HVx
458 :
457:2006/09/10(日) 15:51:45 ID:j9R18HVx
まちがい
必死なのは bSAV429z
頭にID:って付けてくれるとありがたい(´・ω・`)
460 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 16:08:58 ID:bSAV429z
461 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 16:16:27 ID:xM6QzyDU
朝鮮のバカは昔の事をいつまでもネチネチ言ってやがる
だから大人になれないんだな
>>449 △
( ゚∀゚) なるほど、では、取りあえず、日本はナチスレベルまで「改善」しましょう!
( )
)ノ
463 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 16:19:12 ID:JfxrASL9
これで、このスレは、終了!!
>>367 > 『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』
> 禹範善自白「旧年王妃を弑せしは自己なり」
> 『往電第31号』
> 純宗目撃証言「乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」
> 『1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記)』
> 高宗「勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたる」
> > 禹範善自白「旧年王妃を弑せしは自己なり」
> > 禹範善自白「旧年王妃を弑せしは自己なり」
> > 禹範善自白「旧年王妃を弑せしは自己なり」
> 犯人はチョンじゃんwww
> 害務省はこの資料を叩き付けろよ。
>>369 > また金元雄か
464 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 16:19:45 ID:3q9Z+m0Q
★日本人が書いた百済の公式文書★
日本書紀本文中に書名をあげて引用されている百済の文献として、次のようなものがあるが、
いずれも現存していない。
『百済記』
『百済新撰』
『百済本記』
上記の三書は、おそらく百済を統治していた日本民族の官吏によって書かれた物であろう。
大和朝廷は、百済を統治するために多くの役人を日本領=韓(カラ)に派遣していた。
彼らが記録した公文書が、「百済記」「百済新撰」「百済本記」なのだろう。
これらの文書は、写本が作られ、大和朝廷にも送られていたようだ。
古事記・日本書紀の編纂に携わった古代日本の役人たちは、上記の百済諸文書の制作にも
関与していたのだろう。
465 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 16:21:18 ID:JfxrASL9
>>442 ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \ / \
なに、この偽書?
466 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 16:24:35 ID:JfxrASL9
>>449 ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \ / \
反日馬鹿サヨの捏造しかすがるものがないんだね。
467 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 16:46:12 ID:KSbmOeST
えーと。
結局、この書簡は本物なの?
ネタに見えるんだけど・・・
468 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 16:58:20 ID:n+nZOhQ1
明成皇后って日本が死んだ時におくった名前だろ?なんで使ってんの?
閔妃だろ?一族郎党ばかり優遇して民衆を搾取した糞女なのに何が
悲劇の皇后だ。
470 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 17:05:53 ID:l45eqeU7
*日清戦争開戦までの過程*
1884年の朝鮮での甲申政変時、清が横槍を出してきて韓軍を撃破、
その過程で清は日本公使&公使館守備隊をも退却させた。
民間人&守備隊で合計40人の日本人が犠牲になる。
コレを機に日本と清は、軍派遣の際の相互事前通告を定めた天津条約を締結する。
そして1894年に東学党の乱が発生、
邦人救出を目的に日本は派兵決定、天津条約に従って清に派兵を通告する。
ところが清は自軍の派兵を通告しながら、日本に対し派兵は必要ないと抗議する。
伊藤博文は激怒し、即時派兵を決定。
しかし伊藤博文はソレと同時進行で、
日清共同での「朝鮮改革」と「東学党鎮圧」について清との協議に入る。
ところが清は「内乱は既に鎮圧済み」とし、伊藤博文の提案を蹴りつつ、
朝鮮全土の占領を計画、更なる派兵部隊の組織と義勇軍動員を秘密裏に開始していた。
明確な天津条約違反を犯したのだ。
ところが日本軍は既に清軍の軍用暗号を傍受、解読していた。
豊島沖海戦で東郷平八郎が清軍を撃破。
この戦闘で、清が朝鮮占領のために兵を満載した輸送船(英国籍)も撃沈された。
英国は激怒するも、国際法上無問題だったために英国は静まる。
これにより、清が天津条約違反を犯していたことが世界中に暴露され
全世界が「清は侵略者」であったと認識した。
日本は清へ最後通牒を提示、そして宣戦布告。
清も同日「朝鮮は二百年前から我が大清の藩属」と宣戦布告、日清戦争が開戦する。
なんで皇后っていってるのに、天皇陛下を日王よばわりするのかねぇ
そんなことしたら皇后の地位名称もつられて落ちるのだが。
472 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 18:33:00 ID:mWpXprj3
>>452 葬儀つーか、国がそれどころじゃなかったんだお
(´・ω・`)つ
ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1712767 ちなみに
>>432-433のF.A.マッケンジーソースを信じるのならその後のお話もどーぞ。
第二の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、
謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。
この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。
大群衆が前閤僚たちを殺害しようと捜し求めた。
二人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の二人)
が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。
その内一人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、
群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。
群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、
また或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。
一人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、
その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって
「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。
まぁ路上惨殺は事実なんだけどね‥
ただ曝しと放火がぷらすされるけどw
473 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 18:38:34 ID:3q9Z+m0Q
【国引き神話】
国引きの神話は、出雲国風土記の、意宇郡名伝承『八束水=臣津野命(ヤツカミツオミヅノ命)国引き』として
風土記神話の中でも最長篇で語られている。風土記の記述によると、出雲国はその昔「狭布の稚国」といって、
細く長く未完成の国であったという。
そこで、大水主=臣津野の命(オミヅのミコト)が、出雲は狭い若国であるから、広く継ぎ足そうと言われて、
遠い志羅紀の国の余りを「国来い国来い」と引き寄せたのが杵築の岬で、その時に使われた綱は園の長浜、
そして、引いて来た国を動かないように継ぎ止めた杭が三瓶山(佐比売山)であるという。
その風景は、稲佐の浜から現に見ることが出来る。
出雲国風土記に記されている「志羅紀の余った土地を引き寄せて杵築の岬を造った」という記述が
何を意味しているのかは、一目瞭然である。古代出雲人が、出雲地方だけでなく志羅紀も支配していた、
という事実を示しているのだ。つまり、志羅紀人は出雲人と同族だったという事だ。
志羅紀人(シラキ人)は日本民族だったのである。彼らは朝鮮人ではなかった。この事実を頭に入れて
考えなければ、天日矛(ツヌガアラシト=都怒我阿羅斯等)の日本への亡命、そして、それに続く天日矛の子孫
=神功皇后による<新羅征伐計画>の理由を理解することはできない。神功皇后の<新羅征伐・政策>は、
息子の応神天皇に引き継がれた。なぜ、当時の大和朝廷は、<新羅征伐>を何度も繰り返したのか。
なぜ、それほどまでに『シラキ=志羅紀』にこだわったのか。
理由は明確である。当時の大和朝廷は出雲勢力によって牛耳られていたのであり、彼ら出雲人は、自分たちの領地
である志羅紀を異民族=朝鮮人に奪われたため、失地回復のために<新羅征伐>を断行したのだ。
すなわち、当時の出雲人は、朝鮮人(志羅紀の北方に住んでいたワイ族)と敵対関係にあったということだ。
出雲人は、「シラキは我々の領土だ」という意識があったので、朝鮮人に奪われた<シラキ>を、何が何でも
取り返したかったのである。
474 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 18:48:25 ID:LgO3I1Lg
>>468 チョウセンジンはマゾだから虐げられてむしろ興奮してたんだろ。
この調子じゃどこまでもさかのぼって謝罪と賠償を求め続けるよ
476 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 19:27:51 ID:bSAV429z
477 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/09/10(日) 20:32:05 ID:kFwYK3RC
毎日が国辱日だろw
478 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:
葬式出す金もなかったからだろうね。直系遺族でない限り、親戚代表の天皇が持つのが正しい。