【日韓】 慶長の役で「倭徳山」に埋葬された日本兵の子孫、恩返しの珍島訪問へ[08/04]
1 :
蚯蚓φ ★:
鳴梁(ミョンリャン)海戦(1597年9月、朝鮮の水軍が海峡で日本の水軍を大破した
戦争)で李舜臣(イ・スンシン)将軍に大敗した後亡くなったが、全羅北道・珍島(チョ
ンラブクド・ジンド)住民により墓地に埋められた日本の水軍の子孫が「恩返しの珍島訪
問」を行なう。
珍島郡が4日伝えたところによると、鳴梁海戦当時に李将軍に敗れ亡くなったが、珍島住
民により倭徳山(ウェドクサン)の丘に埋められた日本の水軍らの子孫およそ20人が感
謝の意を伝えるために今月15日、珍島を訪問する。当時、珍島の住民らは荒々しい波に
押されてきた日本の水軍100人の遺体を収拾、葬儀を行なった。
珍島郡古郡面内洞里(コグンミョン・ネドンリ)にあるこの丘は「日本軍に恩恵を与え
た」との意から「倭徳山」と名付けられた。こうした事実は、珍島の郷土歴史学者パク・
ジュオン氏(61)が、内洞里住民イ・キス氏(80)の証言に基づき、04年に「珍島
の人々」という雑誌に寄稿して以降、外部に初めて伝えられた。
ソース:中央日報<日本水軍の子孫、恩返しの珍島訪問へ>
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=78555&servcode=400§code=400 今年5月珍島を訪問した広島修道大・日外健壬(ヒグマタケヨシ)教授がこの事実を伝え
聞いて、今回の子孫訪問を成功させたという。倭徳山は数百年の歳月が経て、開墾など
で一部が消え、現在雑草が繁茂しているので確認することは難しいが、倭軍の墓50余基
が残っていると推定される。
今回の訪問団は、日本の四国・愛媛県出身で丁酉災乱に参戦した倭将・来島道総(クルシマ
ミチフサ)の子孫を含む顯彰保存会役員、県の大学生など20余人で構成されることが
分かった。訪問団は先祖が埋められた倭徳山を捜して参拜し、敵軍の死骸まで埋葬する
人間愛を実践した朝鮮人の子孫たちに感謝の意を伝える計画だ。
ソース:東亜日報(韓国語)抜粋「日水軍たち陽地に埋めてくれて感謝」日子孫たち‘恩返しの訪問’
http://www.donga.com/fbin/output?f=todaynews&code=f__&n=200608050072&main=1
2だ
3 :
名無しさん@恐縮です:2006/08/08(火) 23:58:52 ID:8m6YYT5x
2だ
、_r@" ̄~@ヽ 土下座旅行の臭いがプンプン
〃∩ /ノリliliハiliハ でも本当に埋葬してくれたのであれば、島民に感謝しないとね。
⊂⌒ノ从リ@-゚ノ从 どうにも、半島が絡むと色眼鏡で見てしまう。
`ノ从っ/⌒/⌒/c こんなことではいけないのだけど。
どうでもいいですよ
韓国で日本人墓地というのを聞いたこと無いのだが・・・・
あるのか?
無い分けないはずなんだが
7 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:07:40 ID:KPaEuZZV
なんて武将よ?どうせチョンが
ウリは寛大ニダ
と、宣伝目的ででっちあげた嘘にきまってる
8 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:08:48 ID:KZ8/0Un0
日本はできるの?
9 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:09:04 ID:iDspfrrU
当時の朝鮮人は秀吉軍歓迎派も少なからず、って話だから埋葬自体は事実かもね。
しかし
>日本の水軍らの子孫およそ20人
水軍ら、の「ら」はどこからどこまでを指すんだ?
どうせ土下座旅行だろう。
恩返し、という表現から怪しい臭いがするわ。
汚らわしい。
>>7 倭将・来島道総(クルシマミチフサ)の子孫となっています。
朝鮮出兵で戦死した名のある将っていうと
やっぱりこれか・・・
嬉々として倭徳山だってw
日本に恩恵だとか、そういうのばっかw
浅ましいね。
14 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:26:07 ID:T18Npxxq
記録も残ってない、現地でも確認出来ないものを現地の口伝だけで論文にして
それを反日学者が目ざとく利用して企画した土下座ツアーで子孫と洗脳済み
大学生が新聞社引き連れてのこのこ訪問するわけか。
15 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:29:00 ID:tcKDvfV8
>>7 一応大名クラスでの討ち死には来島、中川の両名
来島通総はたしか水軍の将だったはず
16 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:30:50 ID:xYHqNXw1
めでてえな
17 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:32:21 ID:GvmhkB9+
倭徳山で
倭の徳の山じゃなくて
倭に徳をの山なのか
18 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:33:17 ID:7JaH81uY
韓国に埋めれば恩で日本に埋められれば怨という不思議
謝罪して賠償させるんだ!!それがすむまで遺骨を引き取るな!
それまでの間「朝鮮人にひどいことされた」ってわめきつづけるんだ
20 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:35:20 ID:59tC4wYb
21 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:43:18 ID:J6iPgvKg
>「日本軍に恩恵を与えた」との意から「倭徳山」
なんか変だな。
漢文は基本的にSVO型だから、
主語→動詞→目的語の順になる。
「倭徳」じゃ倭に徳を施したとはならず、
倭が徳を施したと読まねばならんはず
だと思ったが。
イ・スンシンって停戦後だまし討ちしてきた卑怯者で日本にボコボコにされて返り討ちにあった弱小馬鹿チョンだろw
こんなのが英雄なのw
韓国ってどれだけ人材が不足してるんだwwwwwww
23 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:48:40 ID:qwSxLEye
>朝鮮の水軍が海峡で日本の水軍を大破した
してないしてない。
「局地戦で日本方に被害が出て、最終的にチョソ逃走」
24 :
小早川隆景ニ号 ◆tkbkbTXkMI :2006/08/09(水) 00:50:13 ID:KrdnGe0v
25 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:51:27 ID:J6iPgvKg
26 :
小早川隆景ニ号 ◆tkbkbTXkMI :2006/08/09(水) 00:52:47 ID:KrdnGe0v
>>22 そりゃ日本が豪傑だらけなのは仕方ない
戦国という百年戦争を乗り越えたんだから
>>15 来島通総はもちろん知ってるが中川とは?
27 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:56:46 ID:oteNVwXE
28 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:56:58 ID:Zo1sFWSI
んじゃ俺はアダムとイブの子孫だな
29 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 00:58:29 ID:T0y5oGf4
今年5月珍島を訪問した広島修道大・日外健壬(ヒグマタケヨシ)教授がこの事実を伝え
聞いて、今回の子孫訪問を成功させたという。倭徳山は数百年の歳月が経て、開墾など
で一部が消え、現在雑草が繁茂しているので確認することは難しいが、倭軍の墓50余基
が残っていると推定される。
めっさ香ばしそうwww
30 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 01:00:37 ID:8rm6DlC1
この自称子孫連中はおかしいな。
武士の殆どが源氏の末裔とか、在日がヤンパン(パンパン?)の末裔
とかと一緒の匂いがする
なら東北にあるキリストの墓は本物だな
32 :
小早川隆景ニ号 ◆tkbkbTXkMI :2006/08/09(水) 01:04:54 ID:KrdnGe0v
>>27 凄い勉強になるサイトだな
そうか来島通総の兄貴や乃美宗勝もなくなったのか
慶長の役てwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
人間愛ってアホか
35 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 01:22:15 ID:ubhbP39Y
日本の水軍ってのは、名が残るような家柄ばっかりで構成されてたの?
>>35 水軍はあまり参戦してなかったんじゃ?
あまりに弱すぎて速攻上陸できたはずだし
>倭徳山は数百年の歳月が経て、開墾などで一部が消え、現在雑草が繁茂しているので確認する
>ことは難しいが、倭軍の墓50余基が残っていると推定される。
現在の朝鮮人に感謝しなきゃならんいわれはない。当時の住民の人たちの墓参りをして帰ればよい。
日本なら地元の人が清掃奉仕したりして代々守り続けるのが普通。
38 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 01:45:32 ID:OwGP31mL
>>35 九鬼、藤堂、加藤(嘉明)、脇坂ら。専門の水軍と言えるのは九鬼ぐらいか。
撤退直前に島津、立花、宗が連携して作った水軍に李舜臣が討ち取られている。
>鳴梁(ミョンリャン)海戦
海賊まがいのやつらとの戦いにこんな名前付いてたんだ。
>当時、珍島の住民らは荒々しい波に
>押されてきた日本の水軍100人の遺体を収拾、葬儀を行なった。
このころのほうがまともだったんじゃないのか?
>倭徳山は数百年の歳月が経て、開墾など
>で一部が消え、現在雑草が繁茂しているので確認することは難しいが、倭軍の墓50余基
>が残っていると推定される。
と思ったら墓の管理もろくにできないのかよ!
40 :
小早川隆景ニ号 ◆tkbkbTXkMI :2006/08/09(水) 02:23:45 ID:KrdnGe0v
>>38 つーか専門といえば村上水軍だろ
名のある大大名じゃないと言われればそれまでだが
41 :
闇仙 ◆ZfXxlDUuVU :2006/08/09(水) 02:37:28 ID:jGvBbMrJ
>>1要するに、今の鮮人は人間愛も減った暮れもない存在と言ってよいのだね。
42 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 02:38:44 ID:c+i0d81d
日外健壬(ヒグマタケヨシ)教授の目的は一体何なんだ?
それにどうやって雑魚兵卒の子孫なんて特定出来たんだ?
来島って村上水軍だよな
44 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 02:41:53 ID:Xh8o1Cja
創価?統一教会?どっち?
あと大学生ってのは左翼、共産、ピースボート、中核派のどれ?
45 :
小早川隆景ニ号 ◆tkbkbTXkMI :2006/08/09(水) 02:42:50 ID:KrdnGe0v
>>43 いえす
能島、来島、因島は村上水軍の一門です
46 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 02:46:17 ID:GVqfy5kC
あれだけの蛮行を働いた日本人をキチンと埋葬してくれていたなんて現代に生きる日本人の俺から見ても頭の下がる思いだ
47 :
小早川隆景ニ号 ◆tkbkbTXkMI :2006/08/09(水) 02:53:41 ID:KrdnGe0v
あれだけ愚行、蛮行を働いた南北朝鮮が生き残ってるなんて現代日本に生きるワシからみても
頭を抱える思いだ
>>45 そういえば小早川家は水軍を持っていたはずだが、唐入りの際はちゃんと働いたのか?
49 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/09(水) 03:17:43 ID:7vdvuJHX
これが恩返しで、靖国に祀られると
恨まれるのはなんなのか…
しかも場所も推定の段階で訪問?
馬鹿すぎる。
50 :
小早川隆景ニ号 ◆tkbkbTXkMI :2006/08/09(水) 03:32:14 ID:KrdnGe0v
>>48 やべっ突っ込まれた
今それを調べようかな思っていた
ただ小早川隆景はこの時期には封地が北九州に変わっているから小早川水軍はなかったのでは
これだけはいえるんだが小早川水軍はもともと規模が小さい
厳島の戦いでも小早川水軍では数が少なく毛利元就は村上の大水軍に助太刀を頼んでいる
少なくても陸戦は小早川はじめ毛利勢は頑張った
>>50 毛利本家はともかく、小早川秀秋は全軍の総大将なのだからもっと働いてくれと
今更どうしようもないことを言ってみるw
厳島の戦いでは小早川家は鉄砲の入手に躍起になってたな。
毛利本家は石火矢を持っていたはずだが、唐入りでも使用したか?
明軍の大砲相手に苦戦したんだが。
>>17 >>21 まあ、「倭徳山」の語源が「日本軍に恩恵を与えた」から来たというのは
俗説の類いだろうな。
「ウェドク」の音を「倭徳」という字に当てはめた後で、本来の「ウェドク」の
意味がわからなくなったので、由来を創作したと思う。
「下らない」が「百済ない」から来たと珍説を飛ばすのと根は同じかと
>>30 源氏はともかく、戦国以降ともなると家系ははっきりする。
名家の子孫同士で親睦会を作ることが多いんだが、
証拠が無い者は入会させない。無論、家系図だけでは証拠にならない。
墓参りに行くのは、来島保存顕彰会という組織。
来島衆の直接の子孫ではなく、ただの町おこし団体。
顕彰会に電凸して確認したところ、実際の子孫の久留嶋家にはまだ知らせていないそう。
さらに、「日本水軍の子孫」と報道されたことについても、
「自分らも広い意味では来島水軍の子孫だから問題ない」と強調。
これは香ばしそうだwww
54 :
小早川隆景ニ号 ◆tkbkbTXkMI :2006/08/09(水) 23:49:17 ID:KrdnGe0v
>>51 さぁそこまでは知らないのぅ
申し訳ない
>>53 なんだ町起こしか
来島もあの世で泣いとるわ
>>1 >鳴梁海戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6 鳴梁海戦(めいりょうかいせん)は、鳴梁渡海戦ともいい、慶長の役における海戦の一つ。
鳴梁海戦
戦争: 慶長の役
年月日: 1597年9月16日
場所: 朝鮮国全羅道鳴梁渡
結果: 朝鮮水軍の局地的勝利
交戦勢力
日本水軍 朝鮮水軍
指揮官
藤堂高虎、来島通総 李舜臣
戦力
中型船約40隻 大型船13隻、その他約100隻
損害
数隻喪失、来島通総以下10人死亡 34人死亡
慶長二年(1597年)9月16日に陸軍に呼応して西進しようとした日本水軍と朝鮮水軍との間に起こった海戦。
韓国では鳴梁大捷と呼ばれる、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本軍に勝利を収めた戦いとして評価が高い。
しかし、日本水軍先鋒を地の利を生かして攻撃した後は衆寡敵せずに撤退しており、
戦場の制海権を失ったために基地である(全羅道)右水営や対岸の珍島を攻略を許し、日本水軍の侵攻は成功した。
また、伊予の来島通総が朝鮮の役に出征した唯一の大名戦死者となった。
日本水軍の半島西岸への進出をいったん阻止した形ではあるが、陸軍が西海岸に進出したことにより李舜臣は全羅道北端まで撤退せざるを得ず、
結局は制海権を失ったため、この海戦による戦略的な意味は見いだせない。
朝鮮水軍の再進出は日本の陸軍の撤退を待たざるを得なかったため、鳴梁海戦は戦局の大勢には影響を与えなかった小戦闘と言えよう。
しかしながら、韓国側の見方では、この戦いを鳴梁大捷と呼んでいるように日本に大勝した海戦とされ、
日本水軍の参加兵力が軍船133隻、運送船 200隻で、損失が沈没31隻、大破92隻、8000〜9000人が死亡とするなどの過大と思われる主張が見受けられる。
しかし、船手衆として左軍に加わった日本水軍の兵力は藤堂高虎(2,800)、加藤嘉明(2,400)、脇坂安治(1,200)、来島通総(600)、管平右衛門(200)の 7,200名であり、
これに若干の他家の水軍を加えたとしても8,000人に満たないと思われ、
さらに実際に出撃したと思われるのは藤堂、来島、菅ぐらいであることからすれば韓国側の主張に無理があることは明白であろう。
56 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2006/08/14(月) 21:16:35 ID:vtGtUf1y
>>52 「なあに、証拠なら林大学頭に作らせておるところでござる」
58 :
猫の手猫の目 ◆5FoAyLyuGI :