【東亜まとめ】
1975年 8月 三木首相「私人として」参拝(以後「私人か公人か?」が論点になる。)
1975年 11月20日 ※社会党が参議院内閣委員会で天皇陛下の参拝は憲法第20条第3項「国及びその機関は、
宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」の問題になるのではではないかと追求。
1975年 11月21日 昭和天皇の靖国参拝(6年ぶり。不定期で計8回。結果としてこれが最後)
1978年 10月17日 ※A級戦犯合祀 (判明は1979年4月19日)
1985年 中国の靖国非難開始(←中国の非難はここから。合祀から7年も後)
1986年 中曽根参拝中止(首相の参拝が途切れる)
1987年 9月22日 歴代天皇で初めての開腹手術。
1988年 4月28日 「私は、或る時に、A級(戦犯)が合祀され〜私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」
という天皇の発言メモが当時の宮内庁長官、富田氏の『手帳に張り付けられる』(←今回の)
1988年 9月19日 天皇が大量の吐血、以後重体が続く。
1989年 1月7日 昭和天皇崩御
【重大な疑問】
1 「昭和天皇と交わされた会話を日記や手帳に克明に書き残していた。」のになぜかこの部分は手帳に貼り付けてあった。
2 「だから私はあれ以来参拝していない。」
天皇陛下は75年(社会党批判時)から参拝していないのに、
「私はあれ(3年も後の78年のA級戦犯合祀)以来参拝していない」では辻褄が合わない。
3 あったとされる「発言」が合祀から十年後の昭和63年(1988年)の4月。崩御の前年。
4 天皇陛下が自分の(個人的な)意思で参拝したり、参拝を取りやめたりすることはそもそもできない。
それをできると思うのは、外国人か日本の官僚機構を知らない人達。
5 何故、毎年、天皇陛下はABC級戦犯も追悼の対象となっている全国戦没者追悼式に毎年参列して、御言葉も述べているのか。
6 白鳥を白取と誤字。普通間違えるか?
7 論理構成、概念、時系列が中国共産党にあまりに都合が良すぎるステレオタイプのような文章。
「平和に強い考え」?何それ?中国共産党の影響力の強い旧社会党や社民党がいかにも使いそうな言葉。
8 「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。」
「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
合祀された78年ならまだしも、合祀から10年経った崩御の前年の88年に語ったとするとあまりに不自然な発言。
9 当時の侍従長でA級戦犯の合祀に大反対だった、徳川義寛氏の発言と考えれば、内容はすべて辻褄が合う。
http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html 【物的な謎】
日経に電凸済。どうやら物的検証はなされていない様子。
紙 色が白すぎ
⇒変色しない中性紙は比較的新しい技術。1982(昭和57)に発明はされているものの
国や地方公共団体の刊行する官庁出版物における中性紙使用率も、
1997年頃までは50%前後と低い値
http://www.shiroki.com/paper/chuseishi/index.html メモ紙に使うような場所にあったかどうか。前後のメモが中性紙ならありうるかも。
挟んであった元の手帳に変色の跡がない
⇒良い言い訳が思いつかない。手帳ごと中性紙だったとか?
インク インクの色が鮮やか過ぎ
⇒ブルー及びブルーブラックのインクは劣化が激しいはず。
他の部分は黒色なのにメモだけ青
止めの部分にインクたまりがない。
⇒インクカートリッジペンだとありうるかも。インクペンは特許1954年発売1957年。
糊 20年も閉じられたまま開くことのなかった紙はあんなに浮くものなのか。
糊付けされたにしてはしわがない。
⇒スティック糊?
http://www.kokuyo.co.jp/yokoku/100/mania/03.html スティック糊の走り「プリット」(1970〜)というのがあるから
18年経ってりゃそれなりの糊はありそうだから両方とも問題はないのかも。