【文化】 鮮やかに1300年前の金 京都・高麗寺で相輪の一部 [12/21]

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1死にかけ自営業φ ★
飛鳥時代に渡来系氏族が創建したとされる京都府山城町の高麗寺跡を調査している同町教育委員会は21日、
塔の屋根から伸びた相輪の一部で、先端を飾った水煙部の金銅製心棒片が出土したと発表した。
塔が完成した7世紀中ごろのものとみられ、メッキした金が鮮明に残っていた。
町教委は「金メッキは当時、朝鮮半島伝来の最高水準の技術。渡来氏族の財力や、同寺の荘厳さがうかがえる」
と話している。心棒片は長さ約13・5センチ、幅約4センチ、厚さ約1センチで、直径15センチの筒状の一部とみられる。
塔の基壇を囲む石敷きから出土した。
町教委によると、心棒片は兵庫県姫路市の播磨国分寺跡など数カ所で出ているが、
金メッキはほとんど残っていなかったという。

ソース 徳島新聞
http://www.topics.or.jp/Gnews/news.php?id=CN2005122101002128&gid=G07
2エ)・) ◆lWYtn5MZ2k :2005/12/21(水) 18:50:12 ID:iXVswo11
やばい・・・このスレはヤバイ・・・・
3<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/21(水) 18:50:14 ID:iBxQ/Z51
ほう
4<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/21(水) 18:50:42 ID:C2YDFL55
金メッキ?
5<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/21(水) 18:51:46 ID:TXZ1conx
百済の時代は技術力有ったのにどうしてあそこまで堕ちこぼれたんだろうねえあの賎人は
6<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/21(水) 18:51:46 ID:oKhaH0nD

|`∀´> 奪取されたウリナラ資産の返還を要求するニダ!
7<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/21(水) 18:52:00 ID:+sFEwAMZ
メッキが剥がれたのか
8<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/21(水) 18:52:25 ID:tew+x7uy
今の朝鮮人とは何の関わりもありませんから
どうもありがとうございました。
9<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/21(水) 18:52:29 ID:k26yuRaj
ほう、すごいな。
古代のメッキ技術でよくもったもんだ。
10<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/21(水) 18:53:21 ID:+sFEwAMZ
朝鮮人も落ちぶれたもんだな
11<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/21(水) 18:53:57 ID:aaCxGOFE
>>5
メッキの技術でホルホルしてて水銀蒸気吸いすぎたんだろ…
12プロ2チャンネラー支援機構@ダイエット中 ◆2ChOkEpIcI :2005/12/21(水) 18:56:06 ID:FXUKu/zn BE:445095195-
>>5
ヒント:秀吉の仕業。
13<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/21(水) 18:59:01 ID:XOPl9iSF
いつも思うんだが、なんでこういう記事になるんだろう?

金メッキってスキタイから支那に伝わったものだろ
14<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/21(水) 21:29:41 ID:SFdVevWS
>>13
そのとおり、紀元前6世紀ぐらいから急に遺物が多くなる。
それ以前は、金箔をはりつける手法が多い。
ただ、もっと古い鍍金もあるのではないかという説もあり、ちょっと異論あり。
15<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/22(木) 11:30:44 ID:kKjKkEBJ
京都は韓国人の物だから すべてハングルにしろ
16<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/22(木) 11:37:25 ID:7FmzIhsA
ぬるぽぉぉぉぉぉぉっ!
17<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/22(木) 11:39:19 ID:qg5PHB0P
高麗寺、金、鮮
<丶`∀´><ホルホル♪
18<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/12/22(木) 11:53:19 ID:cupRI40m

とゆうか、昔から韓国は中国の奴隷だったから、中国から伝来されたも
のじゃないかな。
韓国はだだの通路にすぎない。

19<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
時期が大体あっているとして、七世紀半ばで百済大寺とほぼ同時期。
こちらは書記に載ってるが、>>1の寺は地元の伝承のようだ。
百済大寺や他の宮も同じ様な金メッキをより多用していた可能性は高い。
時期としては半島3国の後期。百済高句麗新羅の同盟離反が煩雑な時代。
多くの使節も来ていただろう。
そして当時は新羅、高句麗の使節はここ山城で逗留していたようだ。
とすれば、迎賓館、宿泊の施設と考えられなくもない。(狛氏氏寺はその後)

鍍金技術は、出雲三田谷古墳で五〜六世紀の時代の金溶解の壷が見つかっているから、
まず国産品であろう。しかし素材である金は奈良時代から日本で取れている。
とすると、この寺又は百済大寺の金の素材は舶来(貢ぎ)品を鋳潰したものとなり、
その多さに驚かされる。
渡来人が気化する為の賄賂かもしれんが、その貢献に感謝する。w