【外交】「小泉首相アジア軽視、日本国民不安」船橋洋一朝日新聞コラムニスト対談[12/02]

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127<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
 1960年代、70年代は日本とアジアとのかかわりの大きな転機があった。
この頃、東南アジアへの日本企業の進出がつづいていた。
一方で62年頃からシンガポール各地で大量の華人の白骨死体が発掘死体が発掘され、
東南アジアの華人の間で反日運動が盛んになっていた。
シンガポールでは血債問題として政府間の問題となった。
72年11月、タイの学生達による日貨排斥運動があった。

 73年には、のちに駐日大使となった中華総商会の理事だった
ウィ・モンチェン(黄望青)氏が日本人商工会議所などの開催した昼食会で、
日本企業の排外主義と排他性、地元スタッフへの差別、徹底した金儲け主義に
対する苦言を呈したほど、東南アジア各国では日本企業や日本人に対する非難が
相次いでいた。シンガポール中華総商会の六つの下部団体による
日本商社が地元中小企業の権益すらも奪いとっていくなどという非難声明をだした。

 もう一つ日本人が嫌われた原因は、食事時などでも、ゴルフなどスポーツでも
日本人は日本人だけで固まってしまうことだった。日本人同士のゴルフ大会には参
加するが、ゴルフ場の主催するコンペには参加しない。
「日本人はエコノミックアニマルで、現地の人々とは交わらない」、
「東南アジアの人々を蔑視している」というのが、東南アジアの人々の日本人観だった。

 反日意識の高まりは、当時の田中首相の東南アジア歴訪で頂点に達した。
タイのバンコクでは激しい学生デモ、インドネシアのジャカルタでは学生や
民衆による暴動が起きた。冷静だったシンガポールではシンガポール大学と
南山大学の学生達が現地人を採用し、訓練すること、
企業の利益を日本へ持ち帰るだけではなく、
東南アジアの国々の経済に利益をもたらすこと、公害防止措置をきちんとすること
などの決議文を田中首相に提出した。

http://www.nichimapress.com/tozai/tozai_12.html