【赤旗】「日本では殺人者が英雄?」 戦後60年 アジアから見た戦争犯罪[09/05]

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79<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
これって日本軍のせいか?

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/033/0082/03311210082013c.html
なお、この四五年の、終戦の年の北ベトナムのトンキン地区の飢饉というか、ベトナム側では、
これを百万あるいは二百万というような非常な数字を出しておりますが、当時私は、明号作戦の
始まります一月前の二月の初めにサイゴンから、ハノイに参りましたが、そのときは、毎日餓死する
者がハノイ市だけで平均五人から十人ということを仲間の連中が言っておりました。
毎朝餓死の死者が出ておりました。それが約四カ月か五カ月続いたと思います。大体この飢饉の
原因は、その前の年の暮れからの冷害と水害が最大原因でありまして、そのために農村の人々が
食べものをあさりまして都会へみんな集中していったのでありまして、それを救済する手段が
なかったのであります。当時の爆撃によりまして、ユエの南の方のツー口ンということろから
なお南にかけて約七、八十キロにわたって鉄道が破壊されておりますために、南の米を北に
持っていくことができませんでした。これはまた海路でも、ジャンクを使いまして北の方へ米の
輸送を計画しておりましたけれども、これも潜水艦の襲撃にあい、あるいは空襲にあいまして
思うようにならなかったのであります。そういうような関係から、当時北における餓死というものは
相当数になっておりました。しかし、その数字は確かでございません。われわれからしますと、
おそらく十万前後のものじゃないかというようなことを当時言っておりました。私が見ました
こういう飢餓のり状態は、ハノイにプチイ・ラック、グラン・ラックという湖水がございますが、
この湖水の中に現地人が入っておりますから、見ますと、この湖水のモをとっておりまして、
みんなそのモを煮て、ある者はそれにネズミなんかを入れて食べておりました。こういうのを
見聞したことがございます。
 御存じのようにコーチシナの南部の方は米とゴムが中心でございますが、当時年間百七十万トンの
米を南は出しておりました。なおゴムと米が輸出の大宗でありまして、南部の方では――南部のみならず
インドシナの連中はこれで食っていたのでありますが、これが結局日本が進駐して以後は、貿易が
中断されまして、全般的にインドシナ人の生活は非常に逼迫しておることがわかりました。