【竹島】韓国政府「独島:6世紀から大韓民国の領土」なる英文冊子で海外広報[050718]

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377<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
脈絡なく朝鮮ねた ・・・

強大な中国と日本に挟まれた小国の朝鮮は
1800年代の後半まで世界の秘境で完全な鎖国体制をとっていた。
許可なく国外に出ようとする者また密出国で帰って来る者は全て死刑であった。

中国へは貢で北京に使者を送り、平壌[城](ぴょんヤンそん)で中国使節を歓待した。
日本へは釜山[鎮の東莱城(とんネそん)]で応対し
釜山[鎮]の租界は数百人の兵隊の他に労働者が多数居り対馬藩主の支配下にあった。
釜山[鎮の富山浦・馬山の済浦(チェぽ)]3〜4km沖合いの
草梁(ちょんリャン)という島には対馬の日本人しか住まなかった(倭館:うぇガン)。
タイコサマ([平]秀吉)が死んで次の国の頭(家康)は
人間の皮30体分を貢げば出兵を止め和睦すると言い朝鮮王(ちょソンわん)は要求を飲んだ。
数年後に人参・米・衣類の貢に取って代わられ 毎年の貢は釜山で 
重要なものと[朝鮮]国王や[江戸]幕府の将軍(ちゃんグン)の交代の挨拶は対馬でと言う事になっていた。

フランス人神父によってローマ字がもたらされ
フランス人が朝鮮を理解するために 漢字とハングルとローマ字併用の辞書が作られた。
それはキリスト教のお祈りを読み書き出来るように 神父が工夫した事から始まった。
・・・
これでは庶民にキリスト教を広められないので
フランスがバチカンへの報告を兼ねて 世界に先駆けて朝鮮語の研究を創めた。
(「諺文(おんムン)」を「大きい字(ハングぅる)」とフランス神父が呼んだ)

祖廟・王宮・店の看板や額に御触れ書きは全て漢字で書かれている。
(1800年代後半から現在までの韓国・朝鮮の祖廟などの写真)
(1894年ごろ 東学党が占拠した全州の役所の垂れ幕やお触書の写真)
両班はハングルは知っていても使わない。

当時の1級の道: 地方の役所に王宮から赴任する長官(府史・牧尹・郡令・県監など)が
        人間が4人横並び程度の幅の道で・徒歩か馬が通る程度 
        馬車・荷車・カゴ・橋はない お神輿のような板の担架による
(1894年ごろ 東学党の乱の頭目のチョン・ボンジュの写真)
野菜: カブ・白菜(ぺちゅ)・ワラビのほか目ぼしい物がない

肉: マトン(羊肉)はない 牛は農耕牛で殺して食べるのは珍しい
   犬の肉(ぽしん湯[たん]にする)や
   山の禽獣を農耕牛の屠殺業者(白丁:ペクちょん)に潰してもらう
   焼いて食べるより鍋(ちょんごる)にして煮て食べる。
   粥など人参(朝鮮人参)を使うのは貴族の料理。
378<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/07/18(月) 20:05:13 ID:0xNRPzlw
飲み物: 中国のような茶がない 釜湯を飲料として飲み
     多数の牛をから少量取る牛乳は国王しか飲まない。
    酒幕という女のいる店で 大量にタバコを吸う客が
    マッコリ(朝鮮屠蘇)と濁酒より高い度数の焼酎(密輸)を飲む。

朝鮮事情 フランス神父ダレ著 キム訳 東洋文庫 平凡社?

中国人が俗に言う
 蒙古の羊飼い
 女直の豚飼い(満洲の豚飼い・遼東の猪子の恥)
 朝鮮の犬食い
そして
 中国は猿も人も食う・・・
 日本は魚と鳥だけ・・・


増補
【 李氏朝鮮〜現代韓国の 地域別の主な宗教分布 】

国教が○儒教(両班[貴族]が科挙[四書五経テスト・礼学−譜学]で役人になる)
全国で○香徒契[ひゃんどげ] ○殺主契[さるじゅげ] ○剣契[こむげ] ○殺人契[さりんげ]
全国で○総和宗 ○浄土宗・真義宗などニ十数派 ○大韓法華宗

咸鏡道○−流刑地−(凶悪犯[強盗・殺人・輪姦など]・政治犯など)
平安道○高麗天台宗 ○明火賎[みょんふぁちょん] →中国−遼東へ。満州族。
黄海道○弥勒教  ○明火賎 ○巫檀(崔瑩[ちぇりる]将軍・松岳[そんあく]山神・開城[ケソン]の古名)
江原道○弥勒教
京畿道○弥勒教  ○壇君(江華島−摩尼山)
忠清道○弥勒教  ○巫檀(林慶業[いむギョンおぷ]将軍)
全羅道○曹渓宗[ちょげ宗]  ○太古宗 ○殺人契 ○天道教 ○巫檀(林慶業将軍)
慶尚道○華厳宗  ○天道教 →日本−対馬へ。
済州道○−流刑地−(詐欺・窃盗・和姦[不倫・近親相姦]・強姦犯など)
379<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/07/18(月) 20:06:26 ID:0xNRPzlw
【見せしめ】死刑、拷問の歴史【残酷】  その2
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1054445566/290n

290 :世界@名無史さん :04/10/11 00:23:50
明王朝末期の進士、鄭マン(マンの字はおおざとに曼)は文才と声望で世間を
騒がせた。しかし明朝最後の皇帝、崇禎帝の御代に派閥争いに巻き込まれた挙げ句、
「母を鞭打ち、妹を犯した」かどで告発され、大逆非道の罪を着せられた。
帝は非常にも自ら「凌遅」に処すよう指示したのである。

崇禎12(1639)年、八月二十六日の早朝、鄭を北京皇城西の甘石橋下の
四牌楼の刑場に連行するよう、聖旨があった。すでに小屋が造られて前には先が
二股の柱が打ち込まれている。首切り役人達は鉄鈎と小刀を研ぎ澄ました。
午前十時ころ、牢役人が鄭を刑場に連行した。彼は柳の枝の籠に座ったままで、
召使いの少年に後事を細かく託している。すでに周辺の道も空き地も黒山の
人だかり、やがて西城察院の長官が人だかりを掻き分けて到着し、声高らかに
聖旨を読み上げた。「法に照らして三千六百刀!」首切り役人達が一斉に
唱和する。爆竹が三度はじけ、刑は執行された。

群衆は一層騒がしくなった。有る者は首を伸ばし、有る者は屋根に上がり、
切り刻みの様を見物しようとする。しかし群衆はあまりにも多く、少し
離れれば刑の執行など見ることも出来ない。
かなりの時が過ぎ、件の二股の柱に血の滴る新鮮な心臓と肺が吊り下げられた。
又しばらくすると今度は生首が吊り上がり、更に胴体が吊り下げられる。
その肉体は細かい麻糸のように切り刻まれており、まるでハリネズミのよう。
肉は削ぎ落とされてはいなかったのだ。
刑の終了が宣告された。将校が皇帝に執刀回数を報告するため、早馬で
駆け出していった。
首切り役人は鄭の遺体を引きずりおろし、肉を細切れにすると売り始めた。
群衆は競って買い求める。吹き出物の薬にするためである。

明皇帝・萬暦帝(李舜臣の時)→次の明皇帝・崇禎帝(林慶業の時)
380<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2005/07/18(月) 20:08:01 ID:0xNRPzlw
朝鮮人の中国人と一緒という作り話は笑えるんですよ。
作り話だ。ってわかるキーワード真似してはいけない真似説明がある。

満州王朝時代に出来上がった中国庶民文化は、朝鮮には無いんですよ。
京劇鑑賞・四大奇書の読書・関帝崇敬・烏龍茶の発明・南京豆[ピーナッツ]の栽培普及など・
など・・・これは満州王朝が、庶民に広めたんです。

明王朝の真似した社会の現象、
儒教優越・官僚主義・庶民虐待・見せしめ処刑以外に娯楽無しでは 説明できない事なんです。

李氏朝鮮に庶民の娯楽は無く 見せしめ処刑の見物や
村八分者へのリンチ参加や 貴族の娘を誘拐した集団レイプしか 楽しみが無い世界でした。

関帝(三国志演義の英雄の関羽将軍)を崇拝しないのは 
満州人は中国支配できたのは関帝様のご加護のおかげだという理由でした。
中国国内には、全国的に廟や祠を建てて祀ったのです。
その、朝鮮人を打ち負かして虐殺した満州人の神を その満州神が中国人であっても祀るはずが無いのです。
自分の民を滅ぼそうとした神です。ようは
伊藤博文や[寺内総督や]南総督を朝鮮の神様として祀るような間抜けさです。

朝鮮は、満州に攻撃されて、明王朝の救援援軍を待ったが
明国内の駅吏など運送業者の武力反乱(李自世?の乱[大順国])で援軍を送れず
朝鮮は1万5千で南漢城の45日篭城が尽き20万の大軍の満州の手に落ちたんです。

時の朝鮮王の仁祖が、明王朝がまだ存続中に、満州皇帝ホンタイジ(太宗)に
額が血まみれになるほどに三顧九叩の礼?という土下座をさせられた。
王宮の門には「迎恩門」を立て 降伏した三田渡しに臨時に作った額の血の付いた受降壇に変えて
満州に礼儀を尽くす石碑を立てさせ 壊されたり傷つけられないか訪問使節に朝鮮監視をさせて
朝鮮に満州王朝の中国に対し、反乱の意思が無いか 確かめさせていたんです。