【竹島】韓国政府「独島:6世紀から大韓民国の領土」なる英文冊子で海外広報[050718]
脈絡なく朝鮮ねた ・・・
強大な中国と日本に挟まれた小国の朝鮮は
1800年代の後半まで世界の秘境で完全な鎖国体制をとっていた。
許可なく国外に出ようとする者また密出国で帰って来る者は全て死刑であった。
中国へは貢で北京に使者を送り、平壌[城](ぴょんヤンそん)で中国使節を歓待した。
日本へは釜山[鎮の東莱城(とんネそん)]で応対し
釜山[鎮]の租界は数百人の兵隊の他に労働者が多数居り対馬藩主の支配下にあった。
釜山[鎮の富山浦・馬山の済浦(チェぽ)]3〜4km沖合いの
草梁(ちょんリャン)という島には対馬の日本人しか住まなかった(倭館:うぇガン)。
タイコサマ([平]秀吉)が死んで次の国の頭(家康)は
人間の皮30体分を貢げば出兵を止め和睦すると言い朝鮮王(ちょソンわん)は要求を飲んだ。
数年後に人参・米・衣類の貢に取って代わられ 毎年の貢は釜山で
重要なものと[朝鮮]国王や[江戸]幕府の将軍(ちゃんグン)の交代の挨拶は対馬でと言う事になっていた。
フランス人神父によってローマ字がもたらされ
フランス人が朝鮮を理解するために 漢字とハングルとローマ字併用の辞書が作られた。
それはキリスト教のお祈りを読み書き出来るように 神父が工夫した事から始まった。
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これでは庶民にキリスト教を広められないので
フランスがバチカンへの報告を兼ねて 世界に先駆けて朝鮮語の研究を創めた。
(「諺文(おんムン)」を「大きい字(ハングぅる)」とフランス神父が呼んだ)
祖廟・王宮・店の看板や額に御触れ書きは全て漢字で書かれている。
(1800年代後半から現在までの韓国・朝鮮の祖廟などの写真)
(1894年ごろ 東学党が占拠した全州の役所の垂れ幕やお触書の写真)
両班はハングルは知っていても使わない。
当時の1級の道: 地方の役所に王宮から赴任する長官(府史・牧尹・郡令・県監など)が
人間が4人横並び程度の幅の道で・徒歩か馬が通る程度
馬車・荷車・カゴ・橋はない お神輿のような板の担架による
(1894年ごろ 東学党の乱の頭目のチョン・ボンジュの写真)
野菜: カブ・白菜(ぺちゅ)・ワラビのほか目ぼしい物がない
肉: マトン(羊肉)はない 牛は農耕牛で殺して食べるのは珍しい
犬の肉(ぽしん湯[たん]にする)や
山の禽獣を農耕牛の屠殺業者(白丁:ペクちょん)に潰してもらう
焼いて食べるより鍋(ちょんごる)にして煮て食べる。
粥など人参(朝鮮人参)を使うのは貴族の料理。