【竹島】入島制限緩和後の韓国人竹島観光 上陸成功は58%[050713]
1 :
つかφ ★:
2 :
つかφ ★:2005/07/14(木) 03:11:53 ID:???
3 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2005/07/14(木) 03:12:22 ID:/3XoVZ2i
2なら韓国人は全員二重に整形
>>2 くしょう。2ゲットを邪魔した上に重複かよ!
5 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2005/07/14(木) 03:14:27 ID:vGFJ9MhR
6 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2005/07/14(木) 03:16:48 ID:Q71yDnW8
この「上陸の難しさ」が証明してるよな。
もともと半島人にとってわざわざ領有する意味なんてない島なんだよ。
国家概念なんて無かった時代なんだから。
しかし日本側は違う。
古来、島根の漁民が鬱陵島に竹を刈りに出かける際の目印&休憩地になった経緯がある。
物理的に日本人しか立ち入らない島だったんだ。
7 :
つかφ ★:2005/07/14(木) 03:17:21 ID:???
9 :
つかφ ★:2005/07/14(木) 03:33:08 ID:???
日本側から工作員を送り込んで客船を爆破できないものかな
フランスあたりだってやっているし。。。
ともかく何らかの手をうたないとどうにもならん
竹島を韓国に奪われたいきさつ
1948年8月13日
大韓民国が建国し初代大統領に李承晩就任
1949年1月8日
韓国が対馬の領有を表明し在韓アメリカ進駐軍と日本政府に対馬の「返還」を要求
韓国は返還してもらった後に対馬へ進駐するための対馬占領軍を釜山に集結
在韓アメリカ進駐軍は韓国へ「なめんな」と激怒
1949年5月
韓国を占領中のアメリカは韓国への全物資の供給を停止
1949年6月27日
在韓アメリカ進駐軍は韓国からの全面撤退を完了
1950年6月25日
北朝鮮の解放軍が韓国へ南侵を開始し朝鮮戦争が勃発
1950年6月28日
北朝鮮解放軍によりソウル陥落し朝鮮半島ほぼ全土を北朝鮮解放軍が占拠
1950年6月30日
やむなくアメリカ軍は釜山へ再上陸し南朝鮮を解放
1952年1月18日
韓国は突然竹島を含む領海の線引き(李承晩ライン)を一方的に宣言
以後は日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぐ
1952年4月28日
サンフランシスコ平和条約 発効
(日本は済州島・巨文島・欝陵島を放棄/竹島は当然放棄していない)
1953年1月12日
韓国政府は「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示
拿捕された日本船の数328隻・抑留者数3929人・死傷者数44人
1953年7月12日
竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船に発砲
韓国は竹島を占領し日本政府の抗議にも関らず竹島の武装化を進める
3月20日にソウルを訪れた米国務長官、コンドリーザ・ライス氏に、盧武鉉韓国大統領は
予定の時間を過ぎても熱心に、竹島[独島(トクト)]の領有権問題を語った。
歴史的、地勢的にそれは韓国の領土であり、日本の主張がいかに間違っているかを説明し、
米国が韓国の側に立つようにと事実上、要請したのである。
ライス氏は、特にコメントをせずに聞いたと報じられた。
つい、私は1951年に米韓間で交わされたある会話を思い出した。
当時、日本はまだ米国に占領されていた。
翌年にはサンフランシスコ講和条約が発効され、日本はようやく占領統治から抜け出
そうとしていた時期のことだ。
米国はサンフランシスコ講和条約の草案を作成し、関係諸国に照会した。
韓国は日本と戦ったわけではないので戦勝国ではなかったが、米国は韓国にも草案を見せた。
韓国に関する部分には、日本が朝鮮(当時)の独立を承認することに加えて、
日本が放棄する領土として「済州(チェジュ)島、巨文(コムン)島および
鬱陵(ウルルン)島」が挙げられていた。
韓国の駐米大使であった梁佑燦(ヤンユチャン)氏は、51年7月19日、ジョン・F・ダレス
国務長官顧問を訪問し、日本が放棄すべき領土に「独島」を加えてほしいと要請した。
ダレス顧問は、「その島は日本が朝鮮を併合する前から朝鮮のものであったか」と尋ねた。
梁大使は「そうだ」と答え、ダレス顧問は、もしそうであるなら、独島を加えるのには
問題はないと述べた。
米国はその後調査を行ない、梁大使の説明が事実とは異なることを突き止めた。
同年8月10日付の書簡で、米国は韓国の要請に正式な回答を出した。
「われわれの情報によれば(独島は)朝鮮の一部として扱われたことが一度もなく、
1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。
この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません」というものだった。
以上の内容は、国立国会図書館参事の塚本孝氏が「中央公論」2004年10月号に報じた。
米国の力を借りて竹島を韓国領土としたい意図は、昔も今も変わらないのである。
かつての韓国は、米国の支持を得られないことが判明した段階で、武力をもって竹島を
奪う方針を決定した。
52年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効直前に、国際法違反を承知で公海上に
李承晩ラインを設け、実力行使で竹島を奪ったのだ。
以来、竹島は韓国領とされ、日本の船は漁船も含めて容易に近づくことはできない。
韓国は、日本による韓国併合も国際法上不法であると主張する。
2001年11月末に、ソウルで国際学術会議が開かれた。
ハーバード大学アジア・センターの主催で、韓国政府傘下の国際交流財団が財政的に
支援し、会議は韓国の学者が主導して準備されたという。
最大の争点は歴史問題、とりわけ1910年の日韓併合条約は合法か否かだった。
韓国の主導で開かれた会議であるにもかかわらず、同会議では、日韓併合条約は
「不法ではなかった」との意見が相次いだ。
韓国側からは「条約に国王の署名がない」ことなどを理由に不法だとの意見が出
されたが、英国の学者らから、国王の署名や批准がないことが必ずしも国際法上
問われるわけではないとの反論が出された。
国際社会に日本統治や日本の主張の是非を問い、国際社会の糾弾をテコに日本を
批判したいとの韓国の思惑がはずれ続けてきたのだ。
裏を返せば、日本は自らの立場をそれだけ国際社会で支持されているのである。
最近の盧政権の理不尽な歴史問題の蒸し返しには、韓国の良識派も眉をひそめる。
日本は批判にただ黙って耐えるより、理詰めできちんと反論することが、日韓両国
の将来のためになる。