【日台】台湾の生徒が来日、浴衣や茶道など伝統文化体験で交流深める(神奈川)[050711]

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140<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
台湾茶 日本の技術が貢献

もう35年以上になろうか、実務の傍ら中国茶の研究でしばしば台湾を訪れた。戦後の台湾茶業の
営みは手に取るように分かっているつもりだ 。台湾を発信基地として中国大陸まで、茶の旋風を薪起こした茶芸の実態や
成立ちも、私と台湾茶のかかわりとともに進行していった感がある。
ウーロン茶は25年前、タレントによってやせるというコンセプトの下にクローズアップされた。ある大手飲料会社の
コマーシャルで福建省が宣伝され、日本人の頭の中に印象深くインプットされた。これによって広く福建省が知られるようになった。
ウーロン茶のルーツは、中国であることは言うまでもない。台湾の茶業史を見ると19世紀初頭から、ウーロン茶類が大陸に移出され、
福建省の諸港を経由して海外に輸出され、台湾ウーロン茶と名指しされるほどの名声を博したという。
加えて19世紀末に、わが国が台湾を統治するようになり、日本で生産できなかった紅茶を台湾で生産しようという試みが始まった。
1903年に茶業試験場を設立し、紅茶、ウーロン茶など、わが国にはない茶の研究が始まった。
三井合名茶社(現在の三井農林)を始め、わが国の茶業人は新開拓地の台湾に移住し、茶農や茶商たちと共同で、現在の包種茶
(文山、凍頂、高山)、台湾ウーロン茶(東方美人)をよりよい品質のものに育て上げた。ウーロン茶といえば「東方美人」
とうたい上げられ、世界の有名茶として輝くようになった。
1935年頃に発刊された大阪市茶業組合の名簿の広告欄に、台湾ウーロン茶、台湾紅茶の宣伝がなされている。これは当時、日本茶の
中での商品だったからだ。香味ともに優れたおいしい台湾ウーロン茶や包種茶の陰には、日本人の茶の技術が貢献していたことを知る人
は少ない。
(大阪府つぼ市製茶本舗 谷本陽蔵) h17 6 24 日本農業新聞