>>525 私が見た「従軍慰安婦」の正体
小野田寛夫(昭和49年ルバング島より帰還) 正論1月号
戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は
証言として「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。
私たちは、憲兵に集金の用件を話して中に入ってまず仕事を済ませた。日が暮れていた
ので「お茶っびき」(客のない暇な遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろ
うとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた。
(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時
は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人だか
らという理由である。)
群がってきた彼女たちは、商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外
は、部屋の中まで調べに来る訳ではないからである。
料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没
までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用できる。料金
も同額ではない。階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることに
なる。
半島出身者が「コチョ(伍長)かと思ったらヘイチョウ(兵長)か」、「精神決めてトッ
ト上がれ、ネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない、
涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。
内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗
える」といい、中には「1日に27人の客の相手をした」と豪語する強者もいた。