【スポーツ】イ・スンヨプの56号ボールは6000万ウォン?(約600万円)[03/11]

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1おしゃまんべφ ★
イ・スンヨプ(千葉ロッテマリーンズ)が昨年打った56号本塁打ボールをサムスン・ライ
オンズに寄贈した2人が、サムスン側から来月4日のプロ野球・大邱(テグ)開幕戦で、
それぞれ3000万ウォン相当の純金製バッド(56両)を贈られる。

幸運の主人公はサムスンのイベント協力会社「ノルレベント」のヨ・ヒョンテク、チャン・ソ
ンイルさんだ。

2人は昨年10月2日、大邱球場の外野フェンスとスタンドの間のスペースで「アジア本塁
打新記録 サムスン・ライオンズ イ・スンヨプ」と書かれた大型横断幕を掲げるため待機
している際、56号ボールがフェンスぎりぎりに飛び込んできたため、偶然ボールを手に入
れた。

チャンさんはひとまず作業をするためヨさんにボールを渡し、その後サムスン側に無条件
でボールを渡すことを明らかにした。

サムスンは第一銀行大邱支店に保管していた56号ボールを11日から慶山(キョンサン)
ボールパーク歴史館内の「イ・スンヨプゾーン」に展示し、ファンに公開している。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/03/11/20040311000067.html
2get 阻止
3<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:04/03/11 19:30 ID:j27faMsY
3げっt
4<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:04/03/11 19:31 ID:vpOHpcxh
価値なんかボール原価+アルファでいいところ日本円にして1万くらいだろ
 
5<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:04/03/11 19:41 ID:pFs4MXya
ゆくゆくメジャーで大活躍して数億円の値が・・・・・・・・・・・付く訳ねーかw
6<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:04/03/11 21:51 ID:d4+i025E
朝鮮人「強制連行」問題とは何か
http://www3.ocn.ne.jp/~nskc/top/kyouseirenkou1.htm

 一例を挙げると、先に紹介した徴用令状を突きつけられ、手錠を
かけられ日本の炭坑に連行されたという話は、朴慶植編
『朝鮮人強制連行の記録』に掲載されている金大植という人物の
手記からの引用だが、手記の原文を読むとこの人物が徴用されたのは
昭和十八年二月の話となっている。後に述べるが、朝鮮半島において
「徴用」という強制力をもった戦時動員が行われたのは
昭和十九年九月以降のことである。昭和十八年段階では軍関係が
ごく少数の徴用を行っていたが、徴用先は海軍工廠などであって炭坑
ではない。

 例えば、姜壽煕という人は、昭和十七年に面長(日本の村長にあたる)
と駐在所の所長から「日本に行け」と言われて日本にやってきたのだが、
こう述べている。

 「日本は天国だと思っていました。村から日本に行った人が
帰ってくると、洋服を着て中折れ帽子を被って革靴を履いているんです。
親は親で、『うちの息子は日本から帰ってきて、革靴を履いている』と
自慢していました。……その頃は、朝鮮では村一番の金持ちの子ども
でも革靴など履けなかったのです。……ですから、『日本に行け』と
言われたとき、そんなに抵抗感もなかったのです。」

 また、李斗煥という人も同じ頃に「斡旋」を受けている。

 「役所に呼び出されて『日本へ行ってくれ』と言われた。いやとも
言えないしな。まあ正直いえば嬉しかったの。日本に来たくてもなかなか
来られないんだから。韓国にあっても、仕事ないし、百姓ぐらいだから。
おれだけじゃなくして、日本に来たがってたの、大勢いたんだ」
7<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
在日コリアンの来歴
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/zainiti_raireki.htm

密航ではないかもしれないが千葉市の韓国・朝鮮人街栄町に住む
韓国人の7割が不法残留者

「コリアン世界の旅」 野村進 1996 講談社

日本敗戦による「解放」の喜びもつかのま、済州島は大混乱の予兆を
はらみつつあった。
8月15日以降、日本本土のほか戦前の樺太や満州、南方などに徴用で
とられたり移住したりしていた人たちが、一斉に帰郷してきたのである。
15万人の島内人口は、あっというまに倍以上の30数万人に膨れ上がった。
香川県ほどの広さの、痩せた火山島には、彼らを養う余地など
どこにもなかった。
食糧事情は、目に見えて悪化した。
日本の植民地下では許されなかった買占めや売り惜しみが横行した。
敗戦国・日本に見切りをつけて帰ってきたところが、故郷の窮状たる
や日本どころではないではないか。
やむなく日本にまた引き返していく人々が、皮肉なことに「解放」の翌年
あたりから急増する。


「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社

李朝末期の韓国を訪れたカナダ人ジャーナリストのマッケンジーは、
「私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、飢えに
苦しむ農民のさまが理解できなかった。「どうしてそれらの土地を
耕さないのか」ときいたところ、「耕せぱ耕すほど、税を取られるだけ
のことだ」という返事があった」。