仁徳天皇陵はなぜ発掘調査しないのか?

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「トンデモ本の世界」を読んだ事はないが
私が「国文学」の学生だった頃、万葉集研究
ではメジャーな学者の授業をとっていた。

万葉集第一期の天智天皇までの時代は
<前記載的特殊性>があるといわれる。
歌が万葉仮名で表記されはじめたのは天武の時代からで
それ以前と、以降で「詩」の形式が明瞭に変わる。
鍵を握るのは朝鮮半島の文字文化のうらづけといわれている。

山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山
騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波
加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者

これが高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇] の作とされている
国見歌。
大和には 群山あれど とりよろふ
天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ
うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

もともと大和の王が歌うかな?「うまし国ぞ 」って?
畿内に進出した王の歌と取れないだろうか?
「村山有等」と「取與呂布 」をどう読むかも諸説ある。
どこから、誰がどういう景色を見たのかも
「解釈」は色々ある。確定しているわけではない。
天武以前は自国の記録が無い。それが現状。
天武も「伝承」を記録したに過ぎない。